「教育学」を読む、学ぶ、考える (→戻る)

 

(1−5)『いま教育を考えるための8章』(松浦良充・編著、川島書店)

 

・・・今回のこのアップする部分の執筆担当の北野氏は私の前任校におられる方であり、年齢で10歳ぐらい上になる世代の方なのだが、「知っている」(おつきあいしているのではないが)人物ではある。「知っている」ゆえに評価を書くのに何かがあらわれないかと思われるかもしれない。<1章><2章>についても、あくまでも私なりに参考になったところ、そして課題に感じたところを述べただけであり、繰り返しになるがこの本の「意識」は高いと思って期待して読んでいるのである。そのため、直接の利害関係はない方であるが、他の章と同様に純粋にこの初版の記述を「確認」させていただきたい。もちろんいうまでもなく直接の関係があろうとなかろうと同じではある。さて、ここは3章・4章と北野氏の執筆が続くので二つあわせて読ませていただく。

 

  3章 何を教え、何を学ぶのか

このタイトルは個人的に気に入っている。「問題」とすることが伝わってくるように感じた。北野氏の執筆部分であるが、専門性ということではアメリカ(合衆国)の教育行政や教育思想を専門とする北野氏がこの3章4章と「教育の方法、内容」について執筆する担当になっていることには少し違和感をもっている。巻末の「執筆者紹介」によれば豊泉氏は哲学・思想を専門とするので担当部分はあっているし、この後の章の高橋氏も行政の専門家なので自分の領域を担当しているといえよう。編者松浦氏も生徒指導の専門家とは思えないが編集代表としてその筆力をみせている。しかし北野氏だけ専門と違うのではないかと思った。もちろん現在ではもしかしたらそういう領域も研究されているのかもしれないが(詳しくは存じあげない)、当時はどうだったのであろうか。さきに全体的な感想として述べれば「専門ではないにしては面白く書こうという、伝えようという意識が読める」と評価させていただきたい。これは褒めすぎと批判されるかもしれないが、しかし私は次のような考えを持っている。「教育学」のテキストの面白くない理由はそもそも「教育学を研究する」ということが少ないからだと。いや「教職」のための「教育学(原理)」のことでもあるし、さらには「専門分化」された個別の領域ばかりをつきつめていて、それで「教育学とは何か?」を他者にわかりやすく伝えるという意識が欠けているのではないかと思うのである。あるいは自分の専攻領域が教育学全体の中で位置するところを説明するのがうまくできていないのではないか。その考え方からみていくと、この章からはアメリカ合衆国の教育行政・思想を専門として「教育方法、内容」を専門とするのではない執筆者が、「読み手」の「教育学学習」を意識して書いているであろうことが感じとれたのである。この姿勢は評価したい。もちろん他の著者も専門とはいえ「伝えよう」という思いは当然あるのであろうが、北野氏の専門外でもというところは事実として評価に値すると考える。しかし内容に関してはしっかりと読ませていただく。

 

この3章の「ねらい」は<情報化、国際化、高度な産業化>の中で「日本人としてどんな知識や態度を身につけたらよいのだろうか」という記述に示されている。しかしこの<問題意識>はまさに当時の臨時教育審議会の改革方針や現在の教育改革のスローガンと同じに感じる。もちろん同じことが批判されるべきこととはいわないが、しかし意識はされているのだろうか。教育学者として当時の改革の<風潮>とでもいうべきものを分析せずに受け止めているなんてことはあってはならないと思う。問題なのは意識されて(例えば賛成の立場で)つかっているのかどうかであり、この「ねらい」にその説明はないので章の中の記述から読み取るしかない。ここは重要な点だと私は考えている。

 

内容としては@「教育内容はどうあるべきか」、A「教育課程とは何か」、B「教育課程編成の諸問題」、C「学習指導要領の移り変り」の四つの節で構成されている。@では冒頭部分で“外国人の視点”から日本の教育の長所と短所を示し、学習の動機付けをねらっている(と考える)。米国の教育改革が教育内容について“ベイシックへ帰れ”と基礎学力低下問題への対応が危急とされて変わってきていることを述べ、日本では反対に臨時教育審議会以降、「教育荒廃」への対応のために「個性」(ゆとり)重視路線になってきていると説明をすすめる。結局は内容の問題については「基本重視」か「多様化」かの選択になっているのだと指摘している。これは事実であろう。しかし残念ながらつきつめてそういった問題発生の背景まで考察するにいたっていない。たしかに本書は“その時点(臨教審の改革実行時)”での記述ではあるが、そこが「ねらい」について指摘したように欠如していると思うのだ。“臨教審の改革”の内容が<スローガン>だけに終わる危険性は審議内容・答申から読み取れるとも思うのだが、バブル時期に都市化・工業化・開発を優先して結局は教育を荒廃させる一因である<社会的背景>について取り扱われなかった(つまり問題が解決するはずもなかった)ということを(少なくともその危険性を)教育学者は読み取っておくべきではなかったか。問題がおきてからではなく、その改革のプロセスから様々な事項を想定しておくのが学者の役割であろう。

Aでは、内容の構成、教育課程の概念から説明していき、「教科カリキュラム」「経験カリキュラム」等を解説している。「教科」中心か、「経験」中心かという動きがあり、ちなみに現在の米国では学問中心型への疑義からカフェテリア型になってきているのだと説明される。米国のスタイルを述べられているのは勉強になった。しかし“経験カリキュラムは学力や思考力が育たない”といえるのだろうか、疑問に思った。それは現在の<総合学習>導入における<学力論議>と同じで表層的な、実証分析のない指摘と同じではないか。これも“その時点(臨教審の改革実行時)”での記述のせい(限界)であろうか。

Bでは編成の原則を説明し、「平等主義」の弊害への対応として逆に「能力主義」がでてきたがその反応に危惧を示している。その単純化への危機感を表明する論理には同意する。しかしその後に「本当の能力主義とは?」として「平等主義と能力主義」の統一が必要と論じているが残念ながら深く論考されていない。「優遇」や「優秀」(主要教科だけでなく音楽、美術、体育まで含めた能力も同質に認めろと指摘するが)について指摘しているが、それは<評価・価値観>の問題でもあり、とりもなおさず“ある<保障>”をつくるということであり、それはシステムまで語らないと意味はない。また「高校の中途退学者」の問題から「教育の平等主義」が妨げられていると論じるが、あまり資料の使い方が効果的とは思えない。「授業を理解できない生徒」の「苦痛」から「生徒の区別」がよくないと示すのであれば「学業不振」の数字と「学校生活・学業不適応」とをあわせるべきである。もちろん「進路変更」に至った理由にも「授業」は関係すると思うが「学業不振」の数値が減ってきているにしても除外されるのが腑に落ちない。もっといえば指摘される「学校生活・学業不適応」はもとより「授業」や成績だけではない。むしろ不登校研究のデータから見れば「交友関係」が高校生では「学校生活」上の問題として多数を占めるのであり、その事実からすればここでの資料の読み方は少しはずれていると考える。もちろん平等主義の結果、弊害として交友関係まで含めて問題が発生してきたというのならまだ理解はできる。しかしそれは教育内容の問題であろうか。編成権の問題についてはコンパクトにまとめられていると思う。

Cは普通に学習指導要領の変遷を説明して、今後の課題を提示している。「課題」として「教師には子どもにとって適切な教育内容を組織する一定の自由が認められなければならない」と指摘している。この「一定の自由」が与えられた時にどうなるのかについてコメントがほしいところである。

 

この章には<まとめ>がない。1章にはある。2章にはないが説明の宣言どおりに書かれたものという印象をもった。ここは最初に書いたようにタイトルからして<問題意識>でもって読ませようという意識を感じたのだが(そして問題視するのは大切なことであるが)、残念ながらその意識をもって読むと最後にまとめがなくて物足りなさを感じる。「何を教え、何を学んだらよいのか考えてみよう」としながら、上に説明してきたような記述で終わるのである。もちろん<まとめ>という、ある<答え>が欲しいというのではない。そうではなくて、結局は「何を」という部分、つまり<内容>が書かれていないのではないか。“内容が決められている”ことが語られただけである。「教師の教授活動の自由」が現行(当時)では妨げられているという考えも、当時は多くあったものと思うが、教科書検定や入試らとの複合的関係や政治的な面までの説明をするのは量的にも難しいとは同情するのだが、それにしても・・・、とにかく「何を」の部分がないというのも結論なのであろうか。

その分、<研究・学習・討論のための課題>の項で、調べさせることで考えさせようとしているようである。そこでフォローされている点はよかった。ここで救われているとはいえる。

 

  4章 教えながら、学びながら、共に生きながら

まずこの章の配置がマッチしていると考える。3章で学んだ後、すぐにつながって入っていける配置が考えられている。その意味で同一の執筆者の方がいいという考え方もあるだろう。「わかりやすさ」をもとめる編集姿勢が感じとれる構成でもある。

 

この章の「ねらい」部分には、「授業とはいったい何であり、どうあるべきなのか」、「子どもの成長・発達を重視するという観点」から考えていくと記されている。目次でみれば「教育方法・授業」のガイド部分になるわけである。

 

構成としては@「発達と教育」、A「授業の目的」、B「授業過程と授業形態」、C「教授技術」となっている。「子どもの成長・発達を重視するという観点」とはいっても<教育心理学>や、発達心理学の理論展開があるのではなく、どちらかといえば“子どもは発達する際に知識も吸収していくが、それは知的好奇心があるからである”として、で“従って授業というものにはこの子どもの<興味>というものを中心に考えていく必要がある”と論述されていると読んだ。概略のしすぎかもしれないが基本的スタンスはそうではないか。

@では「トーキング・タイプライター」の実験例から「興味ある楽しい体験」によって本来もっている知的好奇心の重要さがわかるのだとして、そのため動機づけと学習環境が大切なのだと論じていく。こういうメカニズムだから「教育」が必要で、教育権や学習権の保障があるし、子どもの権利条約とあわせてみても子どもの主体性や自由が必要なのだと論じていく。人権の保障という観点も指摘している。若干、課題提示のみにおさまっているのではないかと感想をもった。

Aでは@の記述を受けて、これまでの授業のありかたは再検討されるべきだと論じていく。「わかる」ということと「個性」ということを考えていくべきだという。この着眼点は好感がもてる。具体的には「わかる」という視点については、授業には「問いかけ」が必要であろうし先入観、足がかり、ズレというのを利用して、疑問に思わせることから「本当にわかる」とすすませていくべきだと論じている。「個性」については「個性化」教育の大切さを述べ、生徒の個人差を「到達度」「進度差」「学習スタイル差」「興味・関心差」の四つに分けられていると説明されている。しかし課題にとどまり、他者の研究の整理紹介(表のみ)にとどまり、さらには「コンピュータ利用モデル」という「差」ではないながら「教え方」の一つを説明していない。これは少しコメントが必要ではないだろうか。

B授業を教師と子どもの相互の関わりであると述べ、大きく分ければ系統学習と問題解決学習があると説明していく。あわせた発見学習もあるが、その短所として教師の工夫の必要があると論じる。確かに区分はあるのだが、しかし大切なのはその区分をはっきりさせることではなく、そういうものがあるのでいいところを応用していくということなのではないか。そういう部分まで書いていくことが必要ではないか。何か<区分>が書かれる時、それは<対立>するものとして問題視されてしまう。むしろ「発見学習」などの統合はそういう試みの一つであって、“教師がつらい”ではなく、そういうものが必要とされるようになってきているという説明が必要ではないか。また「授業形態」として様々な欧米の試みを学ぶのも、それは何が問題なのかを知るためなのだというが、これも単純な<区分>法と同じで、実はなぜそういう単純な区分と統一とがあったのかをこそ考えるべきではないか。いや「多様な教育方法が工夫されねばならない」と結んでいるのだが、もっと具体的に単純二分法のまちがった受け止め方をされないための指摘があるべきではないか。<どちらかがいいのか>を考えるのが本質であるはずはないのだから。

C「教授技術」に関する記述はどのように書かれるのか注目して読んだ。「身体化された技能」(表情・身ぶり・発声)と「方法・技法」(発問・説明・板書・討論ら)との組み合わせであるとして、これが教材の内容と子どもを結ぶのだということには首肯する。「発問」については「教師の問いは、授業づくりの最大の条件」としている。「一人ひとりの能力に応じた柔軟な問いかけ」というのはわかるが現実的に難しいことも書きながらすすめるべきではないか。単に<対応>になってしまえば必ずしもコミュニケーションが単純にとれない<より複雑な子>が置いていかれる危険性がある。<答える/答えない>という単純なとりかたをされるという危険性である。読者の<読み>を想定する本書であるからこその注文としておく。「板書」についても重要だと述べるが、残念ながら短い記述でマニュアル的であり、読み手に伝わるものが少ないのではないかと感じた。もう少し説明のほしいところである。

さいごに「ふたたび授業とは」として<まとめ>が入れられている。自己変革の場であり、そこには知的交流があるのだと述べられる。これはよくある「教えることで学ぶ」の一端を説明していることでもあると読んだ。章のタイトルからすれば、これが執筆者の結論なのであろう。たしかに「曖昧」なタイトルではある。しかし実は「教育方法・授業」論はすごく教職志望者のニーズのある部分と思うのに、そこが「曖昧」なのはどうであろうか。記述の文体はこれでいいと思うし、かなり読みやすく工夫されている。しかし問題は中身である。「教材研究が大切」と書かれていても具体的な事例がない。わかりやすく、読んで学べるということはそのままhow to本ではないけれども、しかし<つなげていく>ためにはそういう具体的記述も少しは必要ではないか。その意味でやはり専門でないためであろうか少し心もとない部分がある。3章と同様に「0課題」にそういう問題を「考えてみよう」とあるが、そのためには「問いかけ」が必要で、さらにはなんらかの提示が必要なのではないか。なぜならまさにこれを読む者との間にも「授業」が成り立つことが構想されているのだからである。少し不満に思った。

しかし、ここまで4章読んできたが、おそらく版を重ねるごとに修正はされてきているのだろう。すると次にはどのように直されたのかもみていく必要がある。これは私の今後の課題としたい。なぜならそれも4章で述べられる<私の「自己変革」であり「知的交流」>と考えるからである。ここはあくまでも初版の批評であることをもう一度ことわっておきたい。(以上、北野氏の執筆部分)

         (・・・2001年12月12日のメモ)