「教育学」を読む、学ぶ、考える (→戻る)

 

(1−4)『いま教育を考えるための8章』(松浦良充・編著、川島書店)

 

・・・前回アップした松浦氏執筆の<1章>については、やはり「厳しい読み方」と思われただろうか。もちろん「厳しく」は意識して読んでいる。しかし「厳しく批判するため」には読んでいない。あくまでも勉強させていただこうと思いながら読んでいるつもりである。そして細かな批評もしたかもしれないが、前回の部分は学ぶところも多く、かなり面白く読めたと思う。授業の際に参考になるところが多いと考える。ここはあくまでも「教育学」学習の水準を確認したい私の勉強のページでもある。必然的に読み違いはありえるのでご寛容におゆるしいただきたい。さて、続けて読んでいきたい。

 

  2章 教育はどこでなされるか

豊泉氏の執筆部分である。「教育」の領域を扱う部分であり、科目でいえば「教育原理」に当たるかと思う。現在では(2001年)「教育原理」は旧カリキュラムとなっていて今なら実際には免許法改正による「教育の思想、教育の歴史」という授業に対応する部分であろうか。あるいは「教職論・入門編」的なものにつかえる基礎的な部分と思う。その意味でも「教育とは何か」という根本に近い問いのされる部分というか、「教育にはどのような領域があるのか」という「大枠」の部分でもあるわけである。総論的で本質的でさらに大枠なスケールを示す。「教育心理学」のような心理学的な考察のしかたや、教育社会学のような調査方法や社会とのつながり・関係を感じるものではないし、教育方法のような具体的なテクニックやカリキュラム構成でもない。その点で、この本書の2章部分は従来もっとも読者に「面白く」学んでもらえないできていた部分ではないか。それゆえにどのような内容に仕上がっているのか注目に値すると考えて読んだ。

しかし、実際にはそもそも「教育原理」がつまらなかったのではないのではとも思う。もっといえば「原理的」で「基礎理論」であるから「面白くない」のではなく、そもそも他の教育系科目も本来「面白く」教えるためにつくられたものではないはずである。「わかりやすく」といいかえても同じで、そもそも「これは教育者に必須の知識である」と準備されて、それを「受け取らざるをえない」という状況(関係)であっただけというのが当初の実体であったろう。もちろん「教員に必須」と真剣に構想されたわけであり、はなから「意味のない倫理的なものの押し付け」ではなかったとは思う。まさに「教育とはこのようなものだ」ということを「前提(基本)」として知っておかねばならないと構想された「原理」であったわけである。以上の事は本来いうまでもないことだが、たしかにそういった「根本精神」のようなものはニーズの変化(大衆化)と科学の発展によって、「儀式的」であえていわれるのも苦しい、「実体的でない」もののように思われてくるのではないか。その意味で、他の新しい問題に具体的に対応していくべき構想された科目よりは重苦しく、しかも空洞的なノルマとして「通過」すればいいようなものと受け止められやすくはなるかもしれない。しかし、その中でもわかりやすく、面白く授業ができた人間もいたであろうし、少なくとも興味をもった学生もいたはずである(「わかる」「楽しく感じる」というのは受け手個人の認識でもある)。少なくとも教科書をつくっていない私(読者でもある)は「原理もわかるように教えないと意味がない」と考えているので、その意味でもこの本の中のこの2章部分には注目していた。

 

ヘッドの「ねらい」の部分は単純で明快であり、「家庭」「学校」「社会」という「教育の場」について学んでいくことが明記されている。それぞれ「『家庭教育』『学校教育』『社会教育(生涯学習)』とは何か」ということも学ぶと記されていて、この「三つの構成」というのがわかりやすく頭に入ってくる。様々な域で教育は営まれるわけであるが、そこに共通する理念や思想というものを、1章で教育に興味をもった人、不安が少しとけた学生に教えるという「位置(配置)」も適正であるかと思う。

ただし「現代の状況」の部分の記述は、もちろん刊行時(1991年)時点での認識なのであろうが、少しステレオタイプにも思える箇所がある。いやこれも「わかりやすさ」なのかもしれないが、しかし「家庭の教育力が低下」していてさらに「学歴社会の中で、学校の序列化」がすすみ、加えて「地域の教育力も低下」してきているというのは当時の改正、つまり臨時教育審議会の認識にはそっているとは思う。教育は“危機に瀕している”から、“改革が必要なんだ”というのと同じで、この本のポリシーもまたそういう時代の教育だからこそ“教員養成もしっかりわかりやすく”ということなのであろう。実際に当時の教育改革がその危機感にみあった成果をあげたのかは別に判断評価されることだが、この危機意識を「指摘」して読者に危機感をあおり意識を高めていくという記述であるから、学生・教職希望者を対象とするという性格のものでもいちおうの「見解」は内容部分に表明されているであろう。それがどのようなものであるかは注目される必要がある。なぜなら「わかりやすく」といっても“既存の知識を(改めることなく)”「わかってもらう」という努力なのか、それとも“「教育学」や「教職課程の授業」にはテキストを含めて問題があったのである”からそういうものまで含めて再確認した上で<わかるべきことも確認して、それをわかるように教える>というのでは違っていると思うのである。

例えば「学校も学歴社会の中で十分な機能を果たしえていないのが現状である」としているが、家庭・学校・社会の「教育的機能」を論じるこの章においてどのような答えが(せめて見解が)表明されているのかにも注目したい。「塾へ通う子どもが多い」のも一つというのは<学力をつける>機能として問題視されているのか、それを肯定的・否定的のどちらに立って説明されるのか注目している。もちろん「登校拒否、いじめ、暴力、非行など」も指摘どおりの問題ではあるが、それらの様々な機能低下の問題が社会と関連づけてどう説明されるのであろうか。「教育原理」的な従来の説明との特に異なる点があるかというのとあわせて期待したいと思いながら読み進めた。

 

内容としては@「家庭と教育」、A「学校と教育」、B「社会教育と生涯学習」の順番で論述されるが、そもそも「教育」の制度化・実現されてきた過程がこの順であると思うので、その意味でもこの並べ方はフィットする。もちろん従来の教育学の教え方とも変わらないが、構成自体は“変える必要”は必ずしもあるとは考えない。一つずつ問題点や概念を説明して、それから思想家の教育論に入っていくという統一された記述方法も<学ぶ側>としてはカタチになっていて受け止めやすいか、あるいは(目的の一つでもあると思うが)学生が独自に勉強しやすいと思う。これだけ大きい内容を20数ページでまとめる苦労はたいへんなものであったろう。本書は全ての章がページ数でだいたい統一されて構成されている。編集として当然ではあろうが、短すぎると思える内容というものもありえると考えるので、その点でも執筆者(豊泉氏)のご苦労は大きかったであろうと想像する。

 

@では“家庭で行なわれる教育”が“これこれこういうわけで必要なのだ(と考えられる)”と説明をして、その後、「家庭の教育機能」として「社会化」や「言語の習得」などがあるぞとすすめられていく。そして関連する教育思想としてコメニウス、ルソー、ペスタロッチー、フレーベル、ボルノーをあげて「幼児教育」“幼児期の教育の重要性”を説いていく。ここまでは順序的には私も「原理」の授業で同様に教えてきたが「順序・並び」としては問題ないと思う。私がひっかかるのは、最後に母子関係こそ「あらゆる教育的人間関係の基礎」であり、家庭教育こそ「あらゆる人間教育の基礎」であるとの立場から、婚姻を基礎とする「夫婦」の絆こそが重要という。「夫婦が互いに愛しあっていなければならない」ということがあらゆる基盤だとしてしめている部分である。「わかる」が、しかしこの書き方ではまだ「わからない」のではないだろうか。センチメンタリズムとはいわないが、教育の「愛」的な語られ方が問題をみえにくくしてきた面もあったのではないか。それを踏襲しているとはいわないが、実際に離婚やDV(夫婦間暴力)なども増えてその「愛」が失われつつある社会的現状からすると、<その“前提”すらないからなりたたなくて当然なのだ>という一つの答えが決まってしまうことにもなる。そうではないだろうか。“あるものが必要だ”という。ところがそのようなものはない。すると“ならば無理だからいらない”あるいは“そんなものは幻想なんだから不要”なんて考え方はこういうものからもつくられてくるのではないか。「教育」の「愛」言説はそれはそれで必要なのだけれど、それがどういうものであるかは“信じなさい”でもあるいはポストモダン的“そんなものは嘘だ”でもいけなくて、ちゃんと説明していく必要があるのではないか。例えばここでなら、少なくとも<現在>(当時)の婚姻関係について説明することも必要ではないか。「家庭」という「場所」を説明するのに、そして上に書いたように「教育力が低下」していると問題視しているのであるから、そこには説得力ある説明が必要なのである。従来の「原理」はそういう説明が必要な社会に応えていないから「わからない」ということがあったのではと考える私としてはこの点までつきつめてほしかった。“そんなものは教育学の教科書には不要だ”というご意見もあるだろうし、“そういう部分は教師が説明すればいい”ということもあろう。私はあくまでも著者たちが目的とする<読んでも独自に学べる本>たりえていただきたいからそう思うと書き記しておこう。

また、「アヴェロンの野生児」や「狼に育てられた子」を「人間が人間社会から離れて成長した例」として「報告されている」としているが、これが事実かどうかはよく問題にされることであり、この当時の他のテキストでも記述の態度・有無は分かれている。それを事実として、まさに<教育の必要性のために語る神話的役割>を担わせて語るのはどうであろうか。少なくとも<異論>も紹介すべきであろう。もちろん「物語っている」という記述もあり、著者本人はこれをどう受け取っているのかはいいきれないし、証明(少なくとも実験)不可能なものであるが、これもステレオタイプな記述ではないか。もっと求めれば、この本自体は「あとがき」にあるように「欧米の大学のテキスト」と比較して意識されたものであるし「アメリカの教育学教科書からヒントを得た部分がある」のだというのであるから、こういうものに対する記述の比較をしていただけたらと思った。実は執筆者たちは多くは<アメリカ合衆国教育の研究者>であろう。それが問題視しているのであるからせめてあちらの「教育学」との質の比較は知っておくべきではないか。もちろんこれが議論であれば“州ごとに・・・”などの把握の難しさが即答されるかもしれないが、そういう答えではなくて“ひとつの例”でもいいのでしっかりとうかがいたい。そういうやりとりでもすれば「原理」への実感もまた増してくるのではないか。「わかる」というのには批判的にでも「確認」を重ねることも必要であろう。実はそういう再確認がわかりやすいものをつくるのには必要なのではないか。そう感覚的にとらえている。

 

細かな疑問点は以上にかぎることとする。Aでは「学校教育」について、そしてBで「生涯学習」まで、コンパクトにまとめられていてなかなか参考になった。「家庭教育」と同様に主に「思想(人物)」と、それと基本法令の概念を整理してあるというのが、本章の記述スタイルと思う。まとめるポイントとしては勉強になった。ただし、きつい表現になるかもしれないけれども、やはりこの分野を「面白く」「わかりやすく」書くことには限界があるのだろうか。いくつか(かなり多くの)「原理」の教科書をみてきてはいるのだけれども、本書のようにコンパクトにするにはやはり<根本的な読み直し>の上で書き直すことが必要なのかなと思った。いや、ここは本当に短くまとめられていると思う部分である。しかし、本書のねらいは“従来にない「使える」「おもしろい」テキストをつくる”ことなのであるから、長いものを短くまとめることを中心とするよりも、やはり“上にも指摘したような、これまでのテキスト記述の課題、学問上の課題”を検討しなおす必要はあるのではないか。もしかしたら版を重ねたいまでは、かなりこういった点が改善されているのかもしれない。それを期待して、このわがままな読書を一度休むこととしたい。(以上、豊泉氏の執筆部分)

         (・・・2001年12月7日のメモ)