「教育学」を読む、学ぶ、考える (→戻る)

 

(1−3)『いま教育を考えるための8章』(松浦良充・編著、川島書店)

 

・・・ここまで、この本に関しては、「かなり厳しい読み方をしている」と思われるだろうか。いや、他の本も同じように読んでいくつもりであるし、私はあまり「批判的に読もう」などとも意識してはいない。逆にこの本に関する思い入れは少しあって、実は今回書く部分の章などははじめて読んで「かなり面白い」と思い授業でテキストに指定したこともあるのだ。そういう意味で売り上げにも貢献しているかもしれない。短大の240人相手の授業で全員がこのテキストを購入したし(数年)、他の(大学の)少人数の教育学関係科目でも使用したことがある。実はそこに教員としての、いや教育学教員としての「責任」も当然にあると考えている。少なくともそういう使用する教員がいて、そういう授業があって、その反応もあってこういったテキストは版を重ねていくのであるし、数値でもって市場として反応をしてしまっているのであるから。他のテキストもいくつか使ったことはあるが、たしかに面白い部分を感じるテキストであるとは思う。その「責任」ある立場の一員として、テキストとしてはこの本から(このコーナーで)再読をしたかったのである。あえて書くまでもないが、執筆者の皆さんには著してくれたことへの感謝・敬意はあるが攻撃的なかまえは一切もっていないとあらためて書き記しておきたい。今回の部分など、本当に面白く読めたのである。

 

  1章 あなたが「先生」と呼ばれるとき

 「序」の部分に続いて編集責任者松浦氏の執筆部分である。領域としては「教師教育・教育実習」となっているが、教育実習指導の事前指導・事後指導や、教職論、教師教育論などの科目類にこの部分だけでも使えるものと思う。「開放制」の功罪だけではないが、教育実習に送る大学側へ受け入れ側(現場)からの「注文」「クレーム」はかなり多くあり、それを受けてこの「指導」に時間が割かれるようになってきた。これと並んで現場は大学の教員養成課程に「即戦力」を求めるが、こういった要望は大学の「指導不足」指摘でもあり、一面ではここ十数年間ぐらいは、たしかに安易な授業、安直な養成課程となりつつあったのではないか。それに対応して例えば「生徒指導」「特別活動」等が必修としてつけ加えられ、また「実習指導」の必要が求められたのである。そういった教員免許の改正過程の延長線上にあるこれらの科目は比較的に新しいものであるから、どうやって教えるか何を教えるのかが定まりにくいものである。いいテキストも相対的に少ないのではないかと考える。その点で、この本書の1章部分はその要望にこたえうるものではないかと感想をもった。

 

まず、ヘッドの「ねらい」の部分からして明快であり、なおかつ「学生」が読みやすい文体になっている。さすがに編集代表者執筆のため、「メモ」の部分も入っているし、図表やイラストもなかなか「興味をもたせること」というねらいにこたえうるものが配されていると思う。<研究・学習・討論のための課題>も章全体の記述内容を学生の身のまわりから実感を深めていくことができるように工夫されていると感じた。具体的には「実習経験者の先輩(4年生)にきく」とか「他学部・他大学の学生にきく」とかの設問は各自の意識を高めつつ不安を解く方向づけが企図されているのであろう。参考文献の解説も手に取る学生が「イメージしやすい」(そのイメージがあうかどうかはともかく)ものになっていると思う。私もパラパラと最初にこの書をひらいて読んだ時、その配分というか「よみやすさ」に「これは学生にとっていい本」と思ったものである。

 

内容としては「ねらい」にもまとめられたように@「教育実習について」、A「大学における教職課程について」、B「教員養成・教師教育のあり方について」の三つに分けられていて、展開も具体的事項である@「実習」からA「教職課程の問題や歴史」、最後にB「教員になってからの研修まで含む勉強」というように<学習のすすめかた><興味へのこたえかた>のやりやすさといったものを予知しているのではないかと思うし、またその予知はわりと当っているのではないかと私は感想をもった。

 

@「教育実習について」で「教育者」の立場・責任感を説き、実習への期待と不安に応えるために体験者複数人の「日誌」を多く引用している。引用も「最後の感動」から始まり「初日の不安・緊張」→「授業見学の感想」→「部活やホームルーム」→「授業の実践」→さいごの「研究授業」→「事後の感想」と、とりあえず「事前指導」に必要でまた学生にイメージとして理解しておいてほしいものが編集されている。もちろん本書中「実習」はこの章だけであるからこその方法であろうが、独自性もあってまた「わかりやすさ」の工夫がみられる部分である。ただし「授業実習」(授業の実践)のところで、“多くの実習生のもつ感想”として「大学に入って、こんなに勉強したことはなかった」との感想を掲載紹介して“大学教師としては複雑だが”と書いているのだが、これは<教えることの難しさ>(と、すばらしさ)を表現して自覚させるため(それとシニカルに親近感をもてるようにする効果もあろう)とはわかるが、私としては複雑である。ようするに「理解・わかる」の深度の問題なのだが(「こさ」「程度」「さじ加減」でもいい)、“本当はそうであってはならないのじゃないか”と思うのだ。本当に「教えることは学ぶこと」でいいのだろうか。いや事実がそうでも、これは下手をすると<現場へ投げてしまう無責任な養成課程>をつくってきた“雰囲気”の大本なのではないかと思う。そうでない授業をするのが、質を高めていくのが<本質>なのに、これでは<本質>を求めない(おそらく執筆者自身が批判しているであろう)“やる気のない授業の教員”に逃げ道を用意する「ことば」となってしまうと危惧する。正直にいって「教育」に対する過度なまでの<ロマン主義>から抜けきれてはいないと考えてしまった。もちろん学生の「やる気・意識」に訴えかけるものであろうし、実際にある感想なのであろうことは理解している。しかし大学教員の一人としては、<この意識>だけは抜くようにこそ努力しないと、正直にいってテキストをつくっただけではそんなに意味があるとは思えないのだ。あくまでも私の意見である。図表として「学習指導案」の例が載せてあるのはこれは学生は嬉しいと思う。この@の展開は、しかし参考になった。

 

Aとして、実習の意義をしって「教職」への興味を高めた上で、続いて「教職課程の問題や歴史」を見ようとすすむ。ポイントとなる内容は「大学における教員養成」と「開放制免許制度」といういまの問題(「二大原則」)がどうできてきて、どんな問題があるかということ。<対話形式>というか<エッセイ>の雰囲気をもった文体ですすめていくので読み手にとっても読みやすいのではないか。ポイントとなる「教員養成」のカタチは歴史的に戦後に変えられたものだから“何が変えられたのか”を知ることに意味があるとして「歴史」に誘っていく展開も無理は感じない。ただし「日本の教員養成の歴史」の初期の部分はスジとしてはともかく記述も説明も少なすぎはしないか。かえって「学制序文」の意味自体、直接関わりのあるものではないと思う。著者の考える歴史のスジなのだろうが、しかし初期師範学校の教科書作成や全国カリキュラムの関係とかは「教える」ものとして不要であろうか。さらに「被仰出書」には“ルビ”を付す必要はないか。「学制序文」(カコミ内)は打ち込んで原文どおりだがルビも付してある。わかりやすさは徹する方がよくないか。とにかく、いきなり「師範学校令」に飛ぶし、しかも箇条書きである。さらに同様に「本系」「傍系」に話が飛ぶが、これは「開放制」を傍系の「閉鎖的」と対照するための組み立てであろう。すぐに「勅語」体制・天皇制臣民教育における「師範型」に展開する。まぁ、戦前の反省点としてだけ「歴史」を扱うのだからこの展開はしかたがないのだろう。歴史について深入りはしないというスタンスに感じた。それも「わかりやすさ」「学生向け」としてはニーズに応えるならば順当かもしれない。ただし、「とくに中等教育の拡充にともなって」とかの表現には何か資料が欲しいところである。なにもかも一冊のテキストに求めるのは悪いとも思うが。師範タイプについてその責任を戦争(侵略)にまで重ねて論じているが、それではその「教師」が戦後どうなったのか、トピックでも加えてほしかった。たまたま明治以降の師範教育史もかじっている一読者としてはちょっと簡略すぎるかと思う。「戦後」については「開放制」原則が常に批判や介入を受けてきたということに注目させ、そこにある問題点や限界性にも注目させようとしている。この制度自体の存続には“あなたたちの自覚と責任にかかっているよ”というのはたしかに意識としては必要だが、僕は大学教職課程の一翼を担う立場としては“こうは書かない”と思う。まとめで「大学の教師にも大きな責任がある」とは書いているがここは一致させるべきではないか。繰り返しの効果が少しズレというか、説教調に感じられるようなおそれがある。<不安・不信・疑念>を解いて<わかる>ようにしていくのが「教師」のすべきことであり、このテキストを使う私たちも「教師」であるのだから。「開放制で学ぶ意味」という部分に「利点」として、“専門性(教育学部ら)”よりも“幅広く多様な環境(一般大学)”の方がそういう環境(友だち)から「よりひろく冷静な視野から教職をみつめる機会をもつことができる」とあるが、「利点」としてプラスとしてあげるのはわかるのだが、こういった言葉はマジックワード足りえないだろうか。しかも考えてみれば周囲の条件によって個人がよくなるのだと論じているわけである。その条件をはずれて学習の際にこのテキストにふれている者が置いていかれている。また「教育学」を学ぶのは「自己形成」に重要で、それは教員を目指す学習の中で自らの<過去→現在→未来>を考えていくからだと論じて、教職課程の意義をあげている。この「教育学」のあるべき立場という点では同意する。第三番目として「親」や「市民」としても、つまり“教員にならなくても学ぶ意義がある”と論じているが、たしかによくいわれるセリフである。「おおいに役に立つだろう」というのだが、しかし実際にそうなのかをいくつか例をあげてもいいのではないか。また実習で「教壇に立った経験」はそうでない人よりも「学校や教師についてよりふかく理解」するので“意義がある”というのだが、実はこういう部分がお手軽に<(なんらかの)実習義務化>につながりかねないと思うのだ。実証が必要な箇所はかなりあると考える。

 

B「教員になってからの研修まで含む勉強」の部分は分量的にはいちばん少ない。“どのくらいの数、教員になれるのか”という現実的問題から、“なった後の教員研修”へと話を展開させていく。“現場に出た後の話”でもあるからか、あまり問題点や現実的・批判的な面は書かれていない。それでも「教師論」として就職後も書いている点は評価できる。最後まで読み手の学生を元気づけ、勇気づけ、そして意識づけることを考えてであろうが「ヨーイ、ドン!」というセリフで終わっている。この章が全体の、そして教職課程のスタートだという洒落た気遣いを感じられた。最後まで学生にとっての読みやすさを“考えているのだなぁ”と思える、なかなか面白い記述であった。勉強になった。きつい表現にみえるかもしれないけれど、ここは本当に面白かった部分である。(以上、松浦氏の執筆部分)

         (・・・2001年11月15日のメモ)