「教育学」を読む、学ぶ、考える (→戻る)

  

(1―2)『いま教育を考えるための8章』(松浦良充・編著、川島書店)

 

・・・前回は序文についてメモを書いたのですが今回は「みていきかた」をちょっと整理しておきます。

 

  「読みかた、みかた」

 基本的に各章を順次読み込んでいくのであるが、しかしその時にどうやってみていくかを整理しておきたい。いや、こういう編著の場合は、各章の記述はたしかに各執筆者の責任に帰するのであろうからあまり統一された「みかた」をするのはどうかとも思う。しかし、こういう本を複数人で書く時の参考になると思うので少し比較をしてみたい。また、「あとがき」に(とにかく目的とする<従来の教科書よりいい本>をめざしてか)「頻繁に打ち合わせをくり返した」し、「どうすればいまの学生を相手に、楽しませかつ勉強させることができるか、に頭をひねった」とさえ記されていることから、かなり「ねらい」を統一したというか、イメージを共通のものとして高めていったと思うのである。そして、それが「個人」のやりかたをどう越えたのかに興味がある。なぜなら、もし不揃いな上にそれでよくない部分があったならば、それは全体の責任も問われるし、いや逆に個人の責任だとしたのなら、それは「学閥を越えた」「意志ある集まり」がたんに「当たりはずれ」になってしまうからである。「過去にない、いいもの」をめざすのであれば、当然、個人だけを優先するなんてことはないであろう。それでないと確信的に「能力ある個人」を集めればいいだけになるし、その「能力ある」と判定するのは誰なのかということにもなるわけだ。それでは「学閥でない」というたんなる「新たなユニット」になってしまうわけである。もちろん研究者のプライドは全員おもちであるとしても、この書のこころみ(めざす本質)は「学ぶ者のためにいいもの」をめざしているはずであるから、「編集意図」をまとめ練り上げていったさきにその完成版としてのこの本があるはずなのだ。

 

  それで、「序」の部分で論じられた<本書の特色>の部分が、実際に各執筆者によってどのようにとりこまれているのかをみていきたいと思う。思い過ごしであろうが、例えば単に<形式的>になることだってありえるわけである。例えば「参考文献をあげる」としても選ぶのも各人なわけで、イラストや図表にしてもそこに温度差が出るかと思うのだ。編集の時に少なくとも編集責任者は目を通すはずであり、修正ももとめられるし(悪い意味での)温度差をなんとか少なくしようとするはずとは思う。その努力が少なければ少ないほど<形式的>になりえると思う。たんに<体裁を整えているだけ>になるわけである。そういう危険性はどこにでもある。ところが、この本の「意志」がそのまま叶っていれば、その温度差は(いい意味では必要です、すばらしい多様性ですかね)目立たないはずである。あるいは気にならないはずなのだ。「方針」や「思い」があって著されたものなのだから。

表示すれば、次のような点はチェックできるかと思う。たぶん、「そう読まれる」ことも想定されていると思う。編集や出版にはそういう応答に対する責任が自動的に生じると思うので。

 

 

執筆者

内容・領域

ねらい

問題提起

トピック

資料・イラスト

基本的事項

歴史と現代の動向

「課題」の設定

参考文献

書き方

松浦

教師教育・教育実習

 

 

 

図=3

表=1

 

 

 

 

 

豊泉

教育の領域・教育の場所

 

 

 

図=3

 

 

 

 

 

北野

教育内容・教育課程

 

 

 

図=2

表=3

 

 

 

 

 

北野

教育方法・授業

 

 

 

図=2

表=1

 

 

 

 

 

松浦

教科外教育・生活指導・特別活動

 

 

 

図=5

 

 

 

 

 

高橋

教育制度・行政・政策

 

 

 

図=3

表=1

 

 

 

 

 

高橋

学級経営・学校経営

 

 

 

図=5

表=1※

 

 

 

 

 

豊泉

教育哲学・教育の本質

 

 

 

図=3

 

 

 

 

 

 

例えば、「メモ書きをさせるスペース」が松浦氏の序文にはあったが、あれも「読者とのキャッチボール」的な方法だと思うのだが、そういった工夫が本文内にどうちりばめられているのかをみていきたいと思う。この「メモ」の他の「特色」として次のようなものがあるとすでに書いた(いや、序文に書かれていた)。

 

「トピックや図表」で興味をもたせることが試みられていることや、各章ごとに<研究・学習・討論のための課題>を設けてディスカッション等に活用できるようにしたこと、さらにテーマ毎の参考文献を明記して簡単な解説も加えたことであり、かなり“ていねいさ”を感じることができる。他にも、各章に「問題提起」が心がけられていることや基礎的なことをおさえておく配慮がされたこと、歴史的背景の重視のみならず現代の教育の動向にも目を向けているということ、巻末の資料、などはごく普通のレベルのことであると考える。“考え”させ、“読み直し”させることによる学習効果を構想している点に本書の意義や特色があるとここまでで考えた。(以上、松浦氏の執筆部分)

 

それらを「意図」されたものとして「判断材料」としたい。それで上の表のような部分もみていきたいのだ。もちろん各記述の中身もしっかりと読ませて学ばせていただきたい。「内容・領域」がこの8つで「現代の教育の基礎理論」たりえるのかも重要な問題だが、それはすべてを読み終えてからあらためて論じてみたい。「ねらい」というヘッドの部分が執筆者による「温度差」がみられるのか、どうか。わかりやすい、興味をひきつけるようになっているのか、注目してみたい。次に文中に「問題提起」するような部分があるかどうか、続いて「トピックの工夫」「イラストや図表を効果的に配しているか」「基本的な事項はおさえているか」「歴史的記述と現代の動向のバランスはどうか」「章末の課題の設定は的確か」「参考文献の説明などはどうか」「書き方の工夫はどうか」ということについて温度差はみておきたいのだ。

 

ざっと、いま、「ねらい」(各章のヘッド部分)だけを読んでみると、その書き方にも若干の差はやはりでてきている。もちろん各章を読みながらも書いていくが(そうでなければ領域による性格の違いもあるのでフェアではないかもしれないので)全体も目を通してはいるのでそこからの「感覚的」なものも加えて「ねらい」の記述の温度差について書いてみる。

1章(松浦氏)の「ねらい」部分の記述にはストーリー性が感じられた。内容の簡単なガイダンスになっているし、言葉もやさしく、わかりやすくつかわれていると思う。「考えてみよう」という呼びかけ的な書き方である。2章(豊泉氏)は簡潔ではあると思う。しかしいきなり「教育的機能」という言葉があって説明が必要かとも思うが、領域の難しさもあるのだろう。「ふれる」「考えたい」「考察する」という書き方。3章(北野氏)は言葉づかいを簡単にしようとする配慮が感じられた。やや説明は短いかと思う。「考えてみよう」という呼びかけで終わる。4章(北野氏)は3章と同じく「考えてみよう」という書き方なのだが、おそらく内容的にも専門家でないためかいまいち流れがパッとしないと感じてしまった。5章(松浦氏)は簡潔でわかりやすい。ストーリー性も明快である。6章(高橋氏)は「考える」「検討する」という記述の仕方だが、しかし内容は明快である。7章(高橋氏)「考察しよう」という語りも入っているが6章に続けて高橋氏の内容は明快と感じた。おそらく専門に自信があるとみた。8章(豊泉氏)はストーリー性はややみられる。しかし、いきなり、の面も感じる部分もある。哲学的領域のためとは思うが。「考える」「知ることにしたい」「考察したい」という表現。

「図表・イラスト」については「上の表」に数を記したが、各章中に「図〇」といったナンバリング表記がない「イラスト等」もあった。7章に「※」を記したがことわりのないものでイラストが入っているものである。それだけ「わかりやすい」「工夫されている」ともいえるが。おそらく「図表を3つは入れよう」という統一編集方針があったのではないか。その実際の内容については必要ならば各章の読み込み部分で論じていきたい。

         (・・・2001年11月18日のメモ)