服装や頭髪などの「指導」について校長はどう判断し関わるか1997(H9)年6月

 5月の中旬に修学旅行の引率で京都、奈良に行った。見学先で茶髪、ミニ、ルーズソックスの女子生徒、長髪、茶髪、腰骨まで下げたズボン、いわゆる「腰パン」の男子生徒、合わせて20名ぐらいの集団に遭遇した。てっきり高校生かと思っていたら東京の中学生だという。かってのツッパリと呼ばれる生徒のように喧嘩を売って来るというような雰囲気はない。東京、いや日本中の女子高生のルーズソックスや、ミニスカートについては、高校での指導はどうなっているのか、と息巻いていたのだが、中学生まで「こんなになっちゃっている」と驚嘆した。
 とはいうものの、本校でもルーズソックス、ミニスカート、腰パンについては話題になり、指導の対応について議論になっているところだ。区内の校長仲間から「茶髪、ピアスはもうだめだ」と指導について悲観的な本音も聞いてはいた。
 5月30日に中教審2次答申が発表された。教育改革、学校の改革が言われている。その中で直接は触れられていないが、頭髪や服装についての指導のあり方や「きまり」などは中学校教育に関わる大きな問題だ。
 まさに学校の責任において対処しなくてはいけない。今回は校長はこの問題についてどのように判断し、対処すべきなのか考えたい。

「指導の基準」は校長の責任で判断すべきだろう

 本来、子どもであっても服装、頭髪をどのようにするかは個人の自由である。現実には学校の中ではそうなっていない。一定の基準が設けられ、指導という名目で子どもに対しその基準に従わせているわけである。法律上は「特別権力関係論」を根拠とすることになるのだが、自由を主張する立場から「何故か」という問いかられると、その理由に「中学生らしいこと」や「流行を追わないこと」などをあげる。説得力に欠け、結局は屁理屈に近い。だからこそ私は服装や頭髪についての指導の基準など学校の規範については校長の責任で判断が行われるべきであると考えている。そのような立場で私は意識的に、職員には「基準」の判断の責任を校長に委ねるようにさせてきた。
 新入生の入学説明会の際にある保護者から「女の子であるが、スカートをはくことをいやがっている。ズボンではいけないか。」という質問があった。その場では回答を保留し、標準服の洋品店に女子用のズボン、あるいはキュロットはないか照会した。洋品屋さんの答えは、無いと言うことだった。特注も需要が安定しないので勘弁してほしいと言うことだった。その後、しばらくしてあらためて保護者会で同様の要望が出された。
本校は標準服については男子は詰め襟とブレザー、女子についてはセーラー服、ブレザー、襟無し、など、いくつかのバリエーションから選択できるようになっている。
女子については確かにズボンは標準服のバリエーションには入っていない。これまでの我々の常識から言えば女子のズボンの着用は「だめ」ということだろう。担任は頭を抱え、学年、生活指導部では侃々諤々の議論があった。そこで私は、着用を希望する生徒に会って意見を聞くことにした。スカートが嫌いだということだけでなく、女子にズボンの着用が許されないのはおかしい、というとてもしっかりした主張を持っていた。確かに納得できる。
 そこでこのように結論を出した。「校長の責任で普段の着用を認める。ただし儀式的行事の際は標準服を着用すること。」子どもは喜んで納得した。職員の一部からは「異装」を校長がいわば勝手に認めるべきではない、という反論もあった。実は、私はあえて「標準服の変更」という方式をとらずに、「校長の判断」という逃げ道を作って認めたのだった。この場合は結果として門前払いをするより、柔軟に受け止めることで、子どもや保護者からの学校への信頼や安心感を得られたと思う。 
 本校では男女とも頭髪については染色、パーマ、整髪剤の使用を「きまり」で禁止している。それ以外には頭髪、服装についてきまりとしてはない。しかし、女子のスカート丈は「ひざが隠れる程度」、ルーズソックスについては「望ましくない、儀式の際は禁止する」、男子の「腰パン」については「望ましくない」、ピアスについては「禁止」としてその指導はかなり徹底している。ただその指導に当たっては「強制によるものではなく、子どもの納得と保護者の理解と協力を得る」ことを基本にしている。このことについて生徒、保護者には本校の教育方針に従った「校長の判断」によるものとし、そのような基準や態度で先生方に「指導をお願いしている」という立場を表明している。また、この基準についての保護者の疑問や意見については、先の女子生徒のズボン着用のように、校長が直接対応することにしている。
 これらの問題の対処の方法については学校の事情によって様々だと思うが、校長がはっきりした判断基準を示さずに、頭髪や服装の「乱れ」の責任を教員の指導力の欠如にのみにゆだねたり、教員による行き過ぎた指導があっても成り行きに任せているようではいけない。

学校の改革は足下から

 頭髪や服装の問題は学校の改革の問題としてとらえると校長にとってはじつに厄介な問題だ。かってのように丸刈りの強制や、些末なきまりでがんじがらめにするような学校は少なくなったと思う。しかし、茶髪やミニスカートとはまた逆に、名札をまだ着用させている学校も実に多い。年がら年中ジャージで生活させている学校もあるようだ。
 少し前になるが、平成8年7月に発表された、文部省の児童生徒の問題行動等に関する調査研究協力者会議・報告「いじめの問題に関する総合的な取組について」の中に興味深い指摘がある。
「子どもの立場に立った学校運営」として、「学校運営の在り方をあくまで子どもの立場に立って見直し,改善すべきは思い切って改善していく必要がある。例えば,生徒指導において,なお髪型や制服の規制をはじめ細かすぎると思われる校則なども見受けられる。子供たち一人一人の人格のよりよき発達を支援するという考えに立ち,きめ細やかで『個に応じた生徒指導』を行う観点から,見直していって欲しい。学校はあくまで集団生活を原則とする教育指導の場であり,したがって一定の制約が伴うことは避けられないし,個性の尊重が単なる無責任な自由放任や子どもへの迎合主義に堕ちては学校教育の責任を全うすることにはならないであろう。しかし,このことが,従来の学校運営の見直し,改善を躊躇させる理由となってはならない。」
 全く同感である。しかし、規制は「細かすぎる」かどうかが問題ではない。ある指導の基準が示されればその「徹底」がはかられるのは当然である。学校に頭髪や服装についての「規制」のあること自体が問題とされなくてはならない。私の考えを誤解を受けることを恐れずに率直に言おう。個性尊重の教育に改革していくには、教育の内容や方法についてだけでなく、中学校や高校の頭髪や服装に関する規制や「指導」をなくすことが必要かどうかもあわせて論議し結論を出すべきだろう。
 この課題は学校・教育改革にとってさけて通ってはならない。