小説家であり、ロックミュージシャンでもある山川健一氏が著書「快楽のアルファロメオ」の中で164について触れてあります。著者自身が友人の164Lを通じて感じたアルファのフラッグシップを彼らしい視線で表現されてます。
自動車に限らず"のりもの"全般を愛好する著者いのうえ・こーいち氏が書き上げたヨーロッパの名車全10巻の中の「Alfa-Romeo」より164に関する記述をピックアップしました。尚、本書は1991年発行であるために前期モデルに関する情報が主となっています。
自動車関連の書物といえばネコ・パブリッシング。その"ネコパブ"が発刊しているワールド・カーガイドのVOL.9がALFAROMEO。当時のフラッグシップとして紹介されているALFA164の紹介記事をピックアップしました。
CG、NAVI等の編集部を経て現在フリーとして活躍されている齋藤浩之氏による164回想録。齋藤氏ならではの経験と知性あふれる文面に164オーナーは感激の嵐!
おなじみTipo誌の「○×が欲しい」コーナにALFA164が登場!多くの164情報が掲載されていましたがその中のインプレッションをピックアップしました。
こちらもTipo誌よりピックアップした記事。気が付けば"大人"の部類に入ってしまった方には「ウンウン、そうなんだよなぁ!」と共感しきりの一文です。これで164購入を決めたユーザも居るとか居ないとか??
| 海のような人生に登場するベルリーナ/164 |
<「快楽のアルファロメオ」 山川健一著 中央公論社 より>
164Lをぼくは自分の愛車のように可愛がっており、だから愛しくないはずがない。
もっとも、友人に借りている車であるという事情もあるかもしれないが、最初から気に入っていたわけではない。はじめの頃は「ヌメッとした変なデザインだよな」と思ったものだった。リアは高さがあり、それで後方視界が妨げられるもののデザイン的には納得できるものだからいいとして、フロントがなんだか変な感じだとぼくは思っていたわけだ。
だが、乗っているうちにそのデザインの先進性がジワジワと効いてくるのだ。
今の時代、どこの国の自動車もスペックだけで言えば昔より遙かにいい車ばかりが生産されているわけだ。そこで問題になるのが、どんな個性を持った車とつき合っていきたいかということになる。
環境問題が深刻さを増し不況が長続き収入だって減っていきそうなこういう時代だから、純粋な実用車というのは公共機関であるバスやタクシーだけで、国産メーカーの小型車、シビックやファミリアのような車に乗ることさえ趣味の領域に入っていると考えられなくもない。だとしたら、車とつき合うのはお金がかかる趣味なのだという事実をきちんと対象化し、心から好きになれる車と長くつき合うのが正しいカー・ライフなのではないだろうか。つまり、百人の人間がいれば百台のベスト・カーが存在するということだ。
ぼくは今四十二歳で職業は小説を書くことだが、四十台にもなると人間そうイージーに変わることはできないし、まったく異なった作風の長編小説を書き上げるなんてこともなかなか困難である。だから余計に、自動車が愛おしいと感じられるようになるのかもしれない。愛おしいと言うか、車に頼る気分が出てくる。自分が内面的にはなかなか変われないかわりに、新しい車に乗ることによって外側からの変化を期待するのである。
十代の頃はそうではなかった。どこにいても、ハウリン・ウルフのブルース・ナンバーではないが<世界の頂上に腰かけて>いる気分だったし、出会うものはすべて新鮮で自分には何でもできるのだと信じることができた。車やオートバイはおろか、最愛の恋人に頼ることさえ自分に許しては居なかった。また、そう言う時代でもあったのだろう。
だが、淋しい話かも知れないが、今はそういうわけにはいかないのだ。
新しい車のステアリングを握りながら眺める東京の街は、昨日とは違った街に見える。車が変われば必然的にファッションだって変わるし、読む本も変わるかも知れない。つまり、ライフ・スタイルというものが変わる。だとすれば、ふと気が付くと、自分の内側のこの偏屈な魂というものだって少しは変わっているかもしれないではないか。
この頃は地下鉄サリン事件があったり不景気だったり、どうにもろくなことがないが、自分が変われるなら少しは明日という日が楽しみになったりする。ま、ぼくの場合は天性のローリング・ストーンという奴なのだろう。
となると、誰もがすぐにいいデザインだなと思える最大公約数的な車は、明日にはもう時代遅れになっている決まっており、敬遠したほうがよさそうだ。それに、旧い名車というのも気分が後ろ向きになるだけだからこの際やめたほうがいい。
アルファ・ロメオ164のような車が浮上してくるのは、そういう時なのである。
ぼくが愛用させてもらっていたのは一九九二年型の164Lで、Lというのは日本でだけ発売されたモデルだ。これは今では既に旧型になる。
Lはラグジュアリーの略である。
Lは他の164と比べていい所と悪いところと両方あるわけだが、個人的な感想を言えば、Lの最大の利点は3000ccのV6エンジンとオートマティック・トランスミッションの相性がとてもいいことだ。SOHC、175ps、26.4kg-mのエンジンは新型の164スーパーに引き継がれているが、もともとアルファ・ロメオのこのV6は傑作エンジンであるという折り紙付きである。この頃では日本の量産メーカーの車にもV6が目白押しではあるが、一九七九年にアルファ6に搭載されることによって登場したアルファ・ロメオのV6は音からして違う。
さて、同じ3000cc、V6、210ps、28.0kg-mのエンジンがスーパー24Vの方に搭載されているが、個人的な感想を言えばこういう高回転型エンジンはやはりマニュアル仕様のほうがいいように思う。
シングルカム版V6は低回転トルクを重視した設定で、こちらの方がオートマティックに向いているとぼくは思うのだ。
けっこうダラッとした気分でドライヴしていても、全く平気である。つき合い易い優しい奴なんだなと感じる度に、もっと可愛がってやりたいなという気分になる。
もっともどちらを選ぶかは好みの問題で、ぼくは164はダラッと乗りたい方なのでそう感じるわけだが、スーパー24VやQ4をビシビシに走り回らせるのも面白いに違いない。だから、こういうのは個人的な問題なのだろう。「どちらが車として優れているか?」なんて設問は、今やどうでもいいことなのだ。
ただ164はイタリアきっての高級車であり、高級車というものに初めて乗るぼくとしては、個人的にダラッとした気分がぴったりなわけだ。ファッションをビシッと決め、だが髪がぐしゃぐしゃで、パンツからシャツの裾がはみ出している、というような乗り方がカッコいいと思う。ちなみに、ぼくが初めてインタヴューした時のミック・ジャガーがこうだったのである。パリで会った彼が自分で運転してきたのは残念ながらアルファ・ロメオではなく、シトロエンCXであったが。
一万七千キロメートルを走り今のところシリアスなトラブルは何もなかった。借りている期間にサンルーフとウィンドウが動かなくなったが、これはすぐに修理してもらった。燃費は、高速道路や都内の道路を含めて普通に乗っていい時で8km/l代前半、悪い時で6km/l代後半だから、これは立派なものだ。
さて、繰り返すが、正直言って最初にこの車に乗った時ぼくはこの新世代のアルファ・ロメオの良さがよくわからなかった。最新型のQ4やスーパーシリーズならそうでもないのだが、LだとFFの癖がけっこう強く出てしまう。スタートはスムーズでも、コーナリング時などにはアンダー・ステアがはっきり出て、RRの911に乗り慣れた身には少々シンドイのも事実だった。
もうひとつ、これも新型の164シリーズならそんなことはないのだが、Lは最小回転半径が大きくて、Uターンが至難の業である。はっきり言って片側二車線の道路で、四車線を使っても一発でスパッとUターンするなんてことは不可能である。誰かを乗せている時にUターンしなければならない時、ぼくはいちいち言い訳しなければならないのだ。
「別に俺が下手ってわけじゃないんだからな。この車はステアリングが切れなくて、大変なんだよ・・・・・・」
164はV型6気筒エンジンを横向きに積んでおり、しかも駆動輪が前だから、タイヤが切れ込むスペースを取り切れなかったのだろう。一九八五年のデビュー当時164には4気筒バージョンも存在したのだが、いずれにしても日本に入ってきたのは6気筒の方だけだったのである。ぼくはステアリングを切りながら、これってやっぱりアルファだよなあと苦笑させられてしまったのだ。日本の車でこれだと、ユーザーは文句タラタラだろう。
ところが、である。そんな具合に164Lとつき合っているうちに、ぼくは有る事実に気が付いたのである。それは、アルファ・ロメオのスタッフ達は、わざとこんな車を作ったのではないかということが。
この疑問の答えを探るために、164の成り立ちを振り返ってみよう。
一九八七年にフィアット傘下に入ったアルファ・ロメオの新車プランが、フィアット側の意向によって見直されることになった。この車を計画した頃、アルファはまだIRIに属する企業であり、当初の計画にはもちろんFFというコンセプトは存在しなかった。当初164はアルフェッタから受け継いできていたトランスアクスルを採用したFR車になる予定であったのだ。
アルファ・ロメオは新しい3000ccV6を開発したり、164には相当の期待を持っていたはずであり、だからFFへの変更にはかなり戸惑いがあったはずである。
V6ということで過去の車を振り返ると、前述したように、一九七九年にデビューしたアルファ6と言う車がある。アルフェッタの上級に位置する当時のフラッグ・シップで、ラジエターグリルに付けられた盾とエンブレムがなければBMWみたいに見えるあのモデルだ。164はこのアルファ6系列に位置するモデルだと考えていいのではないかと思う。アルファ6から脈々と続くアルファ・ロメオのV6は、上質のワインのように熟成してきている。
フィアット傘下に入った時、164は既にほとんど開発を終え、市場に投入される直前だったと言われる。だが計画が実現する前にフィアットに吸収され、当初の計画をそのまま推し進めるわけにはいかなくなってしまったのだ。フィアットはその発表を遅らせ、計画を再検討するように指示を出した。
ちなみに、164という名前はこの頃の社内のコード番号がリークし、だったらということでそれがそのまま正式名として採用されたものである。
フィアットは生産合理化のために、アルファ・ロメオのニューモデルはFFレイアウトにすることを決め、その結果プロジェクト・クアトロが成立した。このプロジェクトは開発費用削減のために四台の車を共同で開発しようというもので、最終的にはランチア・テーマ、サーブ9000、フィアット・クロマ、そして164が歩調を合わせることになった。もっとも共同開発の大きな部分はコストかかる実験部分だったから、この四つの車はフロアパネルの共有ということはあってもエンジンやボディの共通部品はほとんど存在しない。
特に164は、デザインを担当したピニンファリナがデザイン上のリクエストとしてボンネットを低くすることを要求したので、見た目の印象は他車とはまるっきり違っている。ちなみに、他の三台のデザインを担当したのはジウジアーロである。
ぼくは164のスタイルには野性味が感じられて、圧倒的にいいと思う。
いずれにせよ、こうなると人は文化を買うことになる。イタリアでもとりわけ優雅で伊達なランチアの文化、サーブの北欧的文化、熱き血を感じさせ少しばかり不良っぽいアルファ・ロメオの文化。実は、自動車というものがそこまで進化してきているということでもあるだろう。ランチア・テーマ、サーブ9000、フィアット・クロマ、アルファ・ロメオ164の中でどれが一番いい車かなんて設問は、既どうでもよいのである。どの車を最も愛せるかということしか問題にならない。それだけ車というものが人間にとって、音楽や文学や絵画と同じように深く内面的な存在になりつつあるということだ。そういうことに気づかずに、一台でも多くの車を売るために最大公約数的な車ばかりを生産している日本の自動車メーカーは、今後はひどく苦しいだろうとぼくは思っている。文化を射程に入れない多くの自動車雑誌も、敗北を喫するだろう。
そう言えば、今度イタリアに行った時に聞いた話だが、同じ高級車でもイタリアでは弁護士とか医者とか会社の部長や重役などのいわゆるエグゼクティヴは、ランチア・テーマに乗るのだそうだ。多くのイタリアの会社では、上級職になるとランチアを無料貸与され、そのために多くのエグゼクティヴはランチアに乗っているという事情もある。164に乗っているのは多少不良っぽい人、遊び人風、ファッション業界の人、マフィア関係の人、みたいに思われているらしい。実際、前の首相が若さを強調しようということで164を自分でドライヴしていたらしいが、彼は結局マフィアとの関係を疑われ辞任に追い込まれている。
さて、先ほどの疑問に戻ろう。
FRレイアウトの164がフィアットの指示によりFFレイアウトに変更された時、アルファ・ロメオのエンジニア達の頭の中には、FF臭さを可能な限り消そうなんて発想はまったくなかったのではないか。
FFなのだから、むしろドーンッとFFらしい車を作ればいいと考えたのではないだろうか。コーナリング時のアンダー・ステア特性、最小回転半径の大きさ。そんなものはほんとうにFFなのだから気にせず、むしろ胸を張ってFFを主張し恥じないことにして、それでも十分にアルファ・ロメオらしい車を作ろうと決めたのではないか。だとすれば、これは大変な英断だったと思う。164がまずFFらしさを消す方向で発想されたら、それは日本の高級車のように癖も面白みもない車になってしまったに違いないのだから。
FFでも十分にアルファ・ロメオらしい味わいというのは、5000rpmを超えた時に初めて聴くことができるエンジンが奏でるアルファ・サウンドと、一種ルーズそうだがほんとうはきわめて心地の良いコーナリングの感覚、そして何と言っても華やかな雰囲気である。
走りは他の高級車と比べてエレガントとは言い難く、だがその代わりに十分以上に熱く、果敢である。ドライヴァーと、時には後部座席に乗った人の全身に伝わる振動は確かに高級車っぽくないかもしれないが、だからこそ日本の高級車のような走っているのかいないのかわからないような退屈さは微塵も感じさせない。
そんな時ぼくは164が「ねぇ、楽しませてあげるわよ」と囁いているような気がするのである。
アルファ・ロメオがアルファ・ロメオであるアイデンテティ、つまりアルファ・ロメオの美点というのは、限りなく欠点に近いのだ。そのことに気がついた時、ぼくは何故かとても嬉しかった。アルファ・ロメオという車が、それは機械に過ぎないのに、われわれ人間にひどく似ているんだなと思えたからだ。
個性とはそういうものだ。
たとえばゴッホのあの筆のタッチ、ドストエフスキーの小説の読みづらさは、彼らが彼らであるための自己主張であり何物とも交換不可能な魅力であり、だが同時に欠点でもある。それと同じ事なのだと思う。
男にとっての女でも同じことだ。つまり、恋というものもそういうことだ。
164は不幸なことにFFだ。目の前の女性は、不幸なことに人妻である。その事実を変えることができないのなら、FFであり人妻であることを隠さずに、その全てをぼくの目の前にさらけ出して欲しい。それでも魅力を感じ膝を折りたい自分が居る。つまり、それが恋ってものであり、人生というものだろう。
そしてアルファ・ロメオ164は既にそういうレヴェルにあるということだ。そんな車は、そうざらにあるものではない。少なくとも日本のメーカーにはまだ一台もない。
ところが、である。ぼくはアルファのCDを作るために最新の164スーパーと四輪駆動のQ4に乗ってみて驚いた。デザイン上は些細な変更が加えられただけだが、164Lとは別の車である。とりわけQ4は素晴らしい。この車が一台あれば、他のどんな車も必要ないと思わせてくれるような車である。
スーパーの方もLほどにはFF特性を感じさせない。両者とも最小回転半径がぐっと小さくなっており、Uターンもスパッと決まる。「えーっ、嘘だろう」という感じである。さっきのたとえ話だと件の人妻が「そうよ、私は変わったのよ。だって、ずっとあなたとつき合っていきたいんですもの」と囁いているような感じである。背中がぞくぞくっとし、恋は深まる。
特にQ4の加速はもの凄く、さすがにアルファ・ロメオのフラッグ・シップだけあって、並のセダンではない。いや、こうなてくると164はセダンというような従来のジャンルには収まりきらない車なのではないかという気がする。
また余計な話だが、164のオーナーであるあなたが誰かに車は何に乗っているのかと聞かれたとしよう。アルファ・ロメオだよと答えると、半分ほどの人が、
「どんなアルファ・ロメオ?」と聞き返してくるだろう。
「164だよ」と答える。
アルファ・ロメオはけっこうロマンティックな名前が多く、そういうのを期待していたに違いない相手が少しばかり怪訝な顔をして、さらに尋ねてくる場合もあるだろう。
「それってスポーツカー?」と言うような具合である。
そんな時はこう答えればいいのである。
「ベルリーナさ」
歴史の章でも触れたが、ベルリーナはベルリーナであってセダンとは同じではないのだ。それは<犬>と<dog>がイコールではないのと同じことだ。
相手が女の子だったりすると、ぷっと笑われ、
「それって、キザかもしれない」などと言われるかもしれない。
だが、いいではないか。車でぐらい見栄ってものを張らせて欲しいものだ。男として、他に見栄を張れる場所がなくなってきているのだから。
もしもあなたが155に乗っているなら、ここは断固として、
「ベルリネッタさ」と答えるべきである。
それにしても、この四輪駆動のベルリーナは凄い。まいったなあ、凄いなあ、驚いたなあと、ぼくは一人で呟きつづける。
そうしてようやく、なるほどね、と首都高速でステアリングを握りながらぼくはうなずいたのだった。こうきたか、と。最初にFFであることを臆面もなく出しておいて、次に優雅に振る舞ってみせる。これが反対だとあきれてしまうが、最初に荒馬ぶりを見せられているぼくとしては、深い溜め息をつくばかりである。
ところで、Lと新型のスーパーの内装はファブリックだが、スーパー24VもQ4もレザーであり、赤のボディにタンのレザーなんてすごく雰囲気があっていいなと溜め息がでてしまう。
いつか今持っている車を全部手放して164のQ4一台というのもいいなと思ったりもする。若い肢体の荒馬のような164Lを飼い慣らすのもいいが、五十代になり人生のいろいろなことが分かってくれば、Q4一台ですべて足りてしまうと思えるから。
人生とは、たとえば164のような車との闘いであり、闘いの果てに見えてくる愛なのであり、いつかはそれと別れなければならない孤独が波のように押し寄せる、海みたいなものなのだろう。
| Alfa-Romeo ALFA164 |
<「ヨーロッパの名車 Alfa-Romeo」 いのうえ・こーいち著 保育社 より>
"クアドリフォリオ"とは四葉のクローバーのこと。
アルファ・ロメオは有名な"蛇"のエンブレムのほかに、旧くから幸運の印、緑色の"クアドリフォリオ"を、グランプリレーサーなどのシンボルとして、広く使用してきた。
そのクローバーのマークをつけた、アルファ164クアドリフォリオを頂点に、現代のアルファ・ロメオを代表するアルファ164シリーズは、後半よりヴァリエーションも充実され、一層魅力を増している。1987年9月のフランクフルト・ショウでデビュウを飾ったアルファ164は、大きなセンセイションであった、とりわけアルファ・ロメオにとっては、ひとつのエポックというべき注目のモデルである。
1970年代中半以降、目立つヒット作もなく、不振にあえいでいたアルファ・ロメオ社の起死回生の意欲作。フォードの資本参加を断り、1987年、大フィアットの傘の下、アルファ−ランチア社(Alfa-Lancia S.p.A)となってからの、初のニュウ・モデル、フィアット、ランチア、サーブとの共同開発によるクアトロ・プロジェクトの最後に登場した、最もインパクトの強いモデル、アルファ・ロメオにとって初のFWD中型サルーン。数々の形容の与えられるアルファ164だが、たしかに、それに値うるだけの存在感のある魅力的な現代のアルファ・ロメオといえるだろう。
わが国に輸入販売されるアルファ164は、すべてV6、3.0Lエンジン搭載車だが、それを頂点に、直列4気筒2.0L(1962cc)のツイン・スパーク/148PS、2.0L(1995cc)+ターボ・チャージャ/175PS、2.5Lディーゼル・ターボの4タイプが用意されている。概してイタリアでは、想像されるよりもひと回り小さなエンジンを、目一杯使って飛ばす傾向がある。日本的な感覚や交通事情からいえば、やはりV6 3.0Lがベスト・チョイスというものであろう。
力強く、それでいて余裕と走りの愉しさを両立するアルファ・ロメオらしさも伴ったV6エンジン、それを搭載したアルファ164は、唯の上級サルーンに飽き足らないクルマ好きでも、充分に魅了してくれる。ライヴァルたちと比較した時、走った面白さではひと味上をいくことは、インプレッションでも実感できた。
まずは、アルファ164クアドリフォリオを中心に、アルファ164を紹介していこう。
エンジンは何度も述べてきたように、60゜のバンク角を持つV6SOHC。φ93.0×72.6mmというボア・ストロークの2959ccの排気量である。エンジンそのものは、1976年にデビュウした、アルファ・ロメオ久々の中型車、アルファ6用に開発されたV6、2.5Lユニットの流れを汲むもの。アルファ・ロメオお得意のツインカムではなく、各バンク1本ずつのカムシャフトをもつSOHCだ。
エンジン・ルームを開くと、鼻先を右側に向けて横置きされたV6の片バンク及びボッシュ・モトロニックML4.1燃料供給装置からのインテークが、その存在を主張している。パワーは185PS(日本仕様)が標準だが、アルファ164クアドリフォリオのそれは、軽くチューニング・アップされ200PS/5800r.p.mを発揮する。
かつてのツインカム・エンジンのような、凄味のある快感こそ失せてはいるが、イタリアン・ユニット特有の恰もエンジン自身が回転を高めたがっているような、スムースで小気味よい吹けあがりのV6、トルクも27.6kg-m/4400r.p.mと厚く、どのようなステージでも、まったく不足のない走り振りをみせる。
走りやさんの多いイタリア本国では、当然のように5段マニュアル・ミッションが主流だが、これまでわが国の輸入モデルは、すべて4段のオートマティックが与えられていた。
わが国でも、アルファ好き(アルフィスタという)の多くは走ることを大きな歓びとする人だから、是非マニュアル・ミッション付を、という声は少なくなかった。新しいアルファ164クアドリフォリオは、そのパワーを充分に活かすべく、ギア比がクロースした5段ミッションとなっているのが嬉しいところ。
アルファ164は横置きエンジンのFWDであることとともに、アルファ・ロメオとしては特徴的な足まわりをもつ。前後ともマクファーソン・ストラット+コイルというもので、乗り心地もこれまでのアルファ・ロメオとはひと味以上異なる。
アルファ164クアドリフォリオは、新デザインのアロイ・ホイールが採用されるが、サイズは6J×15と共通である。ABSも標準で装備される。全輪ディスク・ブレーキ付き。
4社共同開発であることは、既に述べたが、サーブ9000、ランチア・テーマ、フィアット・クロマにつづいて登場したアルファ164は、前三者に較べより一層個性的なスタイリングをもつ。それは、デザイナーであるピニンファリーナの個性に負うところが少なくない。
フロント中央に、アルファ・ロメオの伝統である楯のグリルをアレンジして、サルーンでありながら全体を低くダイナミックに形づくった、さすがピニンファリーナというスタイリングだ。アルファ164クアドリフォリオは、フロント・スポイラーやサイド・スカートなど、空力パーツで武装し、なかなかの迫力だが、基本のフォルムはとても美しい。
ドアの上辺やサイドからリアにつづくプレスラインなど、見どころも多い。走りとともに、スタイリングはアルファ164の最大のポイントといえよう。
アルファ164はアルファ164クアドリフォリオとアルファ164Lとがある。後者は内装を本革とした"トップ・バージョン"も含まれる。
インテリアもスタイリッシュで上質。アルファ164クアドリフォリオは、ブラック・レザーに赤のステッチがあしらわれており、雰囲気もイタリア的で素敵だ。メーターからコンソールにかけてのデザインも独特。
アルファ164は、そのデザインに挑発され、走らせればまたその走り振りに、大いに刺激されてしまう。アルファ164は最新のアルファ・ロメオではあるが、伝統に照らして、やはりその血筋というようなものを感じないわけにはいくまい。新しく右ハンダー(rhd:ライト・ハンド・ドライヴ)が加わったことは、新しいアルフィスタを開拓する上で有効だろう。しばらくは、アルファ・ロメオの中核でありつづけるにちがいない。
| アルファ164 |
<「ワールド・カーガイド9 アルファ・ロメオ」 ネコ・パブリッシング より>
| Good-by! Alfa164 |
<「モダン・アルファロメオ・ワンメイクマガジン Alfista VOL.3」 文:齋藤浩之 ネコパブリッシング より>
アルファ166が投入されたことによって、アルファ164はいよいよもって過去のもとなった。愛好家が今持ってそれを愛で慈しみ大切に乗り続けている、そうした個々のストーリーは今も現在進行形ではあっても、製品としてはもはや現役ではなくなってしまったのだ。
アルファ164は間違いなく名車だった。
強烈なトルクステアを抱え込んではいたけれど、初期の3Lモデルはそれこそ素晴らしいエンジンを堪能させてくれたし、初めて手掛けた横置きFWDとは思えないスポーティかつ秀逸なハンドリング性能はこれこそ新時代のアルファロメオだと、快哉の声をあげたくなったものだった。
フィアットに買収される直前まで、事実上の国営企業である立場をいいことにレースにうつつを抜かしていたアルファロメオならではの割り切りが生み出したスポーティなシャーシーは、いくら横置きFWDといえどもシャレにならぬほどの大きな最小回転半径を最大のネガとして抱え込んでもいたが、"レーシングカーばかり造っていたから気にもとめなかった"とウソ吹く開き直りは"なるほどそうか"と思わせるほど不思議に説得力をもっていた。
実のところは、ピニンファリーナの要望に合わせて、アルファスッド以来の特異なストラットサスペンションをフロントに用いたことがその原因のひとつだったし、オートマチック仕様に採用されたZF製の横置きFWD用4段ATのサイズが、今の目で見ればこそ巨大といっていいような嵩張る代物だったのもそれに輪をかけていた。ATモデルは左側ホイールハウス内にATがはみ出してホイールの切れ角を制限してしまい、左右で揃わなくてはおかしいという配慮のもとに、もう一方もストッパーで規制されていたりしたのである。
だから、5MTモデルとして入ってきたクアドリフォリオではあれほどの煩わしさを感じずに済んだ。もちろんそれでも小まわりが効くなどとはお世辞にも言えないものだったことに違いはない。
アルファのFWDカーが秀逸なハンドリング性能を易々と手にしていた秘密のひとつは、小まわり性能が犠牲になることを承知の上で採用していたステアリングジオメトリーにあった。旋回時に外輪の切れ角が結果的に小さくなってしまうアッカーマンジオメトリーを彼らは重用していたのである−アルファが独自の設計変更を加えることのできなかった155ではそうしたネガも必然的に消えることになったが、アルファの特質をふたたび重視する姿勢で開発された156や166では巨大な最小回転半径が復活している−。アルファスッド系のクルマはどれも小柄だったから糾弾されることがなかったが、よの大勢がFWDに移行していた80年代半ばを過ぎてから登場した、しかも大柄なFWDにして、何の工夫もなくそうした手法を適用して平然としていたのだから、まさにアッパレだったのである。
新時代のアルファだと思わせる要素は何もシャシー性能ばかりではなかった。
70年代に地に落ちた錆の問題はすでに解決されていたし、心配されたような組み立て品質問題もさしてなかった。164はアルファロメオがIRI、イタリア産業復興公社の支配下にあった時代に、それこそ最後の賭けに出るかのように企画され、開発の進められたクルマだった。しかし、産業復興公社自体の清算・合理化の矛先のひとつとなってアルファロメオがフィアットに買収されることになり、そのフィアットが発売前に徹底的なリファイン作業を加えたことによって、初期の75にも依然として残っていた組み立て品質のバラつきが大きく減じられていたからだ。
それでも、ピストン、シリンダーライナーの納入メーカーの違いによって、エンジンオイル消費量に大きな違いが出るというようなお粗末があるにはあったが、それとてトラブルを誘発するほど深刻な問題とはならなかった。
信頼性にしたって実はなかなか大したものだったし、耐久性はそてころ"タフ"と表現するに値するものだった。
客室と荷室の間にバルクヘッドを持たない異母姉妹クルマ−ランチア・テーマ、サーブ9000、フィアット・クロマ−と違って、164にはそれの備えがあったし、なによりピラー形状を他3車と共有しない独自の骨格構造には、それら先行車種に対する市場のボディ剛性不足の声もフィードバックされて、しかるべき対策が打たれていたから、土台となるボディそのものがしっかりしていた。
しかも、イタリア車のよき伝統を受け継いで、足まわりなどの主要機械パーツも十分以上の容量と強度をもったガッチリとしたものだったから、タフで当たり前ではあったのだ。
ピニンファリーナによる意欲的な意匠のダッシュボードを構成する大物樹脂部品の取り付けアライメントが早々に狂ってくるのはご愛嬌ですませるにはちょっと苦しいものがあったとはいえ、それが原因で走れなくなるようなことはないのだから、目を瞑ってしまえばそれで済んだ。
1987年の秋に発売されてから1990年末まで続いた初期モデルのラインナップは、アルファ・オリジナルの直4ツインスパーク2Lと、テーマ・ターボ用のそれからバランスシャフトを抜いたフィアット・ツインカムターボ2L、それにこれもIRI参加にあったディーゼルエンジンのスペシャリストVM社の誇る2.5L直4ターボディーゼル、そして、アルファ・セイでデビューして以来傑作の名を欲しいままにしていた60度V6の3Lバージョンという布陣によるものだった。
この時期、日本へは3LのAT仕様しか上陸しなかったから多くの人は知らないが、販売台数の過半数を占めたのは2Lツインスパークだった。2Lモデルは少数のフアット、ランチアのターボを含めてこの3年間の間だけの生産であった。
8万9000台近くの2Lモデルがアルフィスタの手に渡った。Eセグメントのクルマで、しかも2Lモデルは北米輸出もなかったことを思えば、それころ大ヒットというに相応しい数である。優れたエンジンのお陰でディーゼル乗用車初の200km/hカーとなった2.5TDも隠れたヒット作で、同じ期間2万7000台弱が路上に踊り出ている。ドイツやスイス、あるいは北米や日本といった輸出にその大半が振り充てられた3L V6モデル(もちろん4ATだけでなく5MT仕様もあった)は、続く改良型への橋渡し役を務めるように90年の末に投入されたスポーティバージョンの"クアドリフォリオ"を含めて、3万3000台強だった。
イタリアで見る164はほとんどが2LツインスパークかTDだったのだ。そして、日本のアルフィスタはお宝を知らぬまま時を過ごしていた。かえすがえすも残念なことである。いまさら何をと思われるかもしれないが。164のベストモデルはその2Lツインスパークだったのである。
しかし、マイナーチェンジモデルの導入に合わせるようにして輸入されることになったクアドリフォリオ−当然5MTだ−によって、いくらかは救われた。200psにスープアップされた3L V6はそれこそ絶品だったし、それを5MTを操って存分に歌わせるのも痛快極まりない喜びとなった。パワートレーンの搭載位置が見直されてドライブシャフトがより直線的に配置されるようになったほか、ステアリングダンパーの装着やストラットアッパーマウントの改良によって、ステアリング保舵力がハードコーナリング時に急激に重くなることもなくなり、セルフセンタリング性能も大幅に改善された。スーパーハンドリングFWDとしての資質が大幅に高まったのだ。それでも、クアドリフォリオには泣きどころがひとつあった。いたずらにサスペンションを堅くすることを嫌ったアルファは、それに当時流行の電子制御サスペンションを入れたのだが、いかんせんプリミティブなそれだけに、制御が荒く、ソフト時は柔らかすぎ、ハード時は少し突っ張った挙動を示すものになっていた。バネレートを変化させずにダンパー減衰力を変えるだけでは、自ずと限界があったのである。
とはいっても、改良型164からはブレーキの鳴きがほぼ消えていたし、電気系統や空調にさえも改良の手がくわえられていた。それでいてピニンファリーナによる流麗でダイナミックな意匠は改悪されずに保たれていたのだから、最高だった。
買うことこそついにできずに終わった−カミさんには"いつか164をお願い"と身の程も省みずに吹き込んでいた−仕事がら試乗することだけは何度もかなったそれは、仕様の如何を問わず常にフェイバリットカーだった。
モデル末期も近づいてから、日本でだけでなくこれもまたイタリアでも堪能する機会を得ることができた究極の164、Q4も、印象深いクルマだった。中身はまんまプロテオ。164をスーパースポーツFWDとすれば、このQ4はそれこそFRもかくや、いやFRを超えるような4WDスーパーセダンだった。トランク容量なんか気にもとめずにブチこまれたリア配置の複雑なセンターデフは、それこそ潔く走ることだけを考えるのでなければ、到底採用なんかできる代物ではなかった。万が一そこにトラブルが発生したときの修理費用を思うと、背筋にひんやりとしたものが走ったのも事実だが、駆ってはそんなことを感じている暇を微塵も与えないような痛快なクルマだった。
164について記憶を辿ると、次々と情景が浮かびあがってくるのはどうしてか?イタリアで乗った中期のツインスパークなどは、それこそ持ち帰りたいほどだった。
テーマも素晴らしい車だったが、8.32や最終フェイズIIIモデルのターボ16Vを除くと、強烈な印象を残していない。そのテーマにしたって他のクルマに比べれば、とくにEセグメントのなかでは、これも相当に印象深かったクルマである。164はそのテーマよりも強烈な印象を身体の隅々にまで残していった。いったいどうしてなのか?グッバイと言うのは、どうしてなかなかつらい164なのである。
| アルファロメオ164が欲しい! |
<「Tipo No.137 アルファロメオ164が欲しい!」 文:川合央助 ネコパブリッ シ ング より>
反発を承知で言うが、個人的には164は近年のアルファロメオ各車のなかで出色のできだと思う。155はもちろん、はるかに新しいはずの156より、私には好ましく 感じられる。
好ましい点の第一はエンジン。アルファV6ユニットは、V6らしい鼓動を感じさ せながら軽快かつスムーズに吹け上がる。ただ滑らかに回るだけでなく、トルクの立ち上がり方にドラマ性がある。ドライバーの右足の動きに反応するレスポンスのよさが好印象に拍車をかける。
そしてハンドリングがすばらしい。古今東西の前輪駆動車のなかで、これだけ大きいセダンボディを持ちながらこれほどスポーティなハンドリングを味わわせて くれるクルマを、私はいまだに知らない。もっとも得意とするのは中〜高速コーナー。ステアリングを切り込むとまったくアンダーを感じさせることなくノーズ がすいっとインを向く。そこからアクセルを踏み込むとさすがに外へはらもうとす るが、少しペダルを戻してやるかステアリングを切り増すかするだけで本来のライ ンに復帰できる。タイトな低速コーナーはさすがに得意とまではいかないが、ボデ ィサイズをもてあましてしまうようなことはない。高速での直進安定性も高く、も う時効だからいってしまうが、私はかつて常磐道で260km/hのメーター上限近くまで
試してみたことがあるが、まったく不安感はなかった。とはいえ欠点がないではない。ボディの剛性は新車の時から低くてあちこちか らきしみ音が聞こえていたし、なにより回転半径が異様に大きい。Uターンをするのに2車線の道路では切り返しなしにはまず不可能だ。中古車ともなると信頼性への不安も募る。
だが、こうした欠点に目をつぶってでも買いたくなるような魅力が、164にはたしかにある。アルファのバッジとか名前に幻惑されているのではけっしてない。運転する楽しさと実用性、快適さ、安楽さの絶妙なバランスが、このクルマを輝かせているのだ。
| 大人になっても譲れないもの |
<「Tipo No.??? 大人になっても譲れないもの」 文:??? ネコパブリッ シ ング より>
気づいたら30を過ぎていた。ついこの前30代になることに無駄な抵抗を働いていた自分がいたと思ったら、あとひと月で31だ。
意識の上ではともかく、社会的立場としては逃れようのない大人の年齢になっていて、そのギャップの大きさに困惑を感じていることだけは確かだ。
まだ、オヤジ扱いされて腹を立てるところまでは行っていないが、人並みに結婚をして、子供こそいないが不確実な中で世間並みの家庭を築こうとはし、今まで勝手に生きてきた自分の身の上に家庭の人としての自分を上書きしつつ、毎日を暮らしていた。もう1年半だ。最初は何かにひとつずつ折り合いをつけながら、だったことは否定しない。いくら気持ちは満たされているとしても、全く違う環境で育った男と女が一緒に暮らすのだから、大なり小なりの無理があっても不思議ではない。ぶつかったこともあれば、擦れ違ったこともあった。
だが次第に慣れた。それまでなら引っ掛かっていた色々なことが、自然に受け入れられるようになった。無理に折り合いを付けようとしなくても大丈夫だと思えるように、いつの間にかなっていたのだ。
それが、このところ少し妙だ。時々いいようのない感情に襲われることがある。それを言い表す言葉が自分の語槃の中にはなくてもどかしいが、例えて言うなら苛立ちにちょっとだけ似ているかも知れない。
相手に不満を感じているわけじゃない。嫌なことがあったわけでもない。幸いにも相手は僕の行動を規制するタイプじゃないから、妻帯者にしては結構好き勝手なほうだとも思う。幸せな部類に入るだろう。
なのに、何でなのだ?
ある明け方、寝床へ入る前の一杯をやりながら一人で真剣に考えた。
きっとカタにはまろうとしているからだ。
あの頃あれほどカタにはめられることが大嫌いだった自分が、無意識のうちに自分をカタにはめようとしているのだ。世間の多くの人が想像できる”良い大人”に、僕はなろうとしていたのだろう。そのほうが、他人から見れば妙な自意識と常に対峙するよりも遥かに楽だからだ。つまるところ僕は、知らぬ間に守りに入ろうとしていたのかも知れない。手先も頭も器用じゃないから、いい亭主、ちゃんとした大人、になろうとそれだけを考えて、以前のようにヤンチャをしたりムキになったりすることを、無意識のうちに避けようとしたのだ。
考えてみれば喧嘩も全くしなくなった。成人してこの方、腹を立てないことに慣れようとし続けていた。無頼を気取っていたわけではないが、嫌なことは嫌だとハッキリ主張していたのだった、10年前までは。
危ないところだった。あのままいったなら、子供ができれば極めてスムーズにただの親馬鹿に変身し、自分を徹底的に押し殺すことに長けた社会的に好ましいオジサンにもなって、好きで就いた仕事も”仕事は仕事だ”と割り切って、いずれは国産のやや高級なセダ辺りで満足できる不感症のオヤジになっていたのかも知れないのだ。
そんなの耐えられない。そんなオヤジになった自分の姿にある日気づいて愕然とする、なんて堪らなく嫌だ。我慢できない。
今の自分に100%の自信をもっているとはどう自己弁護してもいえないが、絶対に譲れないものというものは存在するのだ。
だから僕は、いずれ子供が生まれ、親が今より年齢を重ね、経済的に2台のクルマを持つことが難しくなったとしても、その手のクルマを選ぶことを拒否する。自分の意志として、親馬鹿にはなるかも知れない。10年前と比べて今がどこか丸くなったように、10年後にはもっと丸くなっているかも知れない。
これから本当に、大人の分別というものを身につけていくのかも知れない。4ドア・セダン1台で全てを賄うことになる可能性も、決して小さくはないだろう。だが、そうなったときに選ぶのは、静かで快適なだけの無機質なセダンでも、元々牙などないはずなのに無理に鋭い入れ歯を持たされた欺瞞に満ちた280PSでもない。なぜなら僕は、常にクルマとは情を交わしていたいと願っているからなのだ。
−−−となれば、アルファ・ロメオ164である。アルファのフラッグシップとして登場し、クリーンで端正なフォーマル・ウェアで周りを欺くだけ欺きながら、内に秘めた大きな官能性でステアリングを握るたびに心のどこかを刺激してくれるからだ。
例えば気まぐれにエンジン・フードを開ければ、マニフォールドの見事な曲線美で魅了してくれる。例えばイタリア製の高級家具のようなシートに腰を落ち着ければ、目前の徹底的に吟味されたモダン・アートのようなインパネの造形で、イタリアン・デザインへの興味を掻き立ててくれる。例えばそれが夜ならば、色鮮やかなインジケーター・ランプで今度は妖しげな気持ちを掻き立ててくれる。例えばアクセラレーターを踏み込めば、見事な声で高らかに唄ってくれる。例えば真剣に飛ばしても、スポーツカー並の快感フィールを堪能させてくれる。これほど快い刺激に満ちたフォーマル・セダンが、ほかにあるだろうか。これほど多能面にわたって気持ちを豊かにしてくれるスポーツ・セダンが他にあるのだろうか。
素直に年齢を重ねられない情けなくも愛すべき同胞達よ。心配することはないのだ。譲れないものまで譲る必要は全くないのだ。苛立つ必要なんて全くないのだ。大人の事情と少年の気持ちを理解しているアルファ・ロメオというメーカーが存在してる限りは。