天川村 洞川より (その2)


天川村洞川在住の京谷さんより頂いた壁新聞「喫茶とも」です。
天川村や奈良に関する伝承伝説が取り上げられています


喫茶とも・壁新聞第7号

「洞川白石」天平の都へ

御仏を支えた洞川の大理石

  天平6年(734)の正倉院文書に、光明皇后寄進による興福寺西金堂(733)が建立されたとある。ここに飾られたの基石(仏具台?)は「吉野遠河之山」から運ばれたとある。一個ではあるが、14・5人の運搬人を要したと記されている。「遠川白石」(興福寺流記)ともいわれ白石は大理石である。

 昭和8年国会議事堂の建築にあたって、この「遠川白石」の所在が調査され、この洞川から産出の石であることが推定された。
 洞川の河原には白石がゴロゴロしている、この石の中にボロボロとはがれる石がある。地元では米米石とよんでいる。

   ※     奈良朝時代川原寺金堂に、メノウの礎石(大理石)に方円二重の柱座
   ※     薬師寺金堂内部の須弥壇にも用いられる。

『宇下の洞話』第3号より





喫茶とも・壁新聞第8号

「奈良大仏」の金を求めて

大峰から陸奥へ金の道は開かれた

  聖武天皇の宣旨を受け、「大仏」建立の金を求めて、良弁(東大寺初代別当)は金峰山(大峰山)に入りの金をたまわるよう、7日7夜祈ったところ蔵王権現のお告げがあり、「この山の黄金は弥勒下生の時までは使うわけにはいかない。私はただ御守護しているのみです。近江の国志賀郡の河のほとりに、かって翁が住んでいて、それに座って釣りをしていた石がある。その石の上に如意輪観音の像をつくり据えて祈られるとよいであろう」とのことであった。

 そこで良弁は早速訪ね求めたところ、石山の地がその場所であった。観音像をつくって祈ったところ、陸奥の国から初めて金が産出したとの報告が奉上されてきた。かくして、天平の大事業東大寺「大仏殿」が天平勝宝3年(731)落成する。

 『役小角読本』より

        ※     近江の国志賀郡の石山の地とは、良弁開創観音霊場石山寺
※     大峰山の当時の名は「金峰山」または「金の御嶽」といわれていた。
※     東大寺開基の良弁は「金峰山」でも修行し、始め「金鐘優婆塞」などと呼ばれた。


TOPページへ     天川村 洞川より(その1)へ