天川村 洞川より(その1)

 天川村 概要
   奈良県の南部に天川村があります。 天川村はその面積の約4分の1が吉野熊野国立公園に属し、近畿最高峰を
 擁する最源流の村で、国土庁「水の郷」、環境庁「名水百選」、日本百名山、日本の滝百選などに選ばれており、全国
 的にも有数の自然美を誇る村であり、また古来よりの有名な寺社等もあり、宗教の発祥と深く関わるなど豊かな自然と
 歴史に恵まれた、これらの「宝」と共に暮らす村です。
  年間約60万人の方が訪れる天川村は紀伊半島中部に位置し、周りを紀伊山地主部にあたる近畿の屋根と称される
 大峰山系の近畿最高峰八経ヶ岳(1,915m)をはじめとする1,000〜2,000mの山々に囲まれた村で、谷間の集
 落部は、441m〜820mの標高にあります。
  気温は、県北部の奈良盆地より5度から3度低く、避暑地に適しています。 降水量は多く1,500〜2,500ミリで、
 高峰深谷の起伏する壮年期の地形でV字谷を形成し、この山岳美、渓谷美、原生林の自然美から吉野熊野国立公園
 に指定されています。(天川村HPより 引用)
 

  天川村洞川にある「観音橋」の件から、天川村洞川在住の京谷さんと知り合う事となりました。 京谷さんは地元で
 お店を開かれており、そこで洞川に関係する歴史や話題などを「喫茶とも・壁新聞」として、お店にこられた方に紹介
 されているそうです。 紹介させていただくことをお願いいたしましたら、洞川の紹介に少しでもお役にたてば、という
 ことで快く承諾していただきました。
  少しずつ紹介させていただきます。 また、私も天川村のことを調べた内容を少しずつ記載していくつもりです。

 

奈良餅飯殿伝説

(喫茶とも・壁新聞1号)

   昔、阿古滝に大蛇が棲み、大峯山行者に危害を加えた。 
  聖宝理源大師は奈良の先達、箱屋勘兵衛を連れて、大蛇退治にきた。 
  鳥楢山に登って法螺貝を吹き、おびき出した。 大師は法力をもって呪縛し、
  勘兵衛が大鉞(まさかり)をふるって切りつけた。 大峯行者道は再び開かれた。 
  勘兵衛はその後も鳥楢へ参上。  来る度に、大師の好物の餅飯を持ってきた。
  大師は勘兵衛を「餅飯殿」と愛称した。 
  いつしか勘兵衛が住んでいた町を、餅飯殿(もちいどの)町と呼ぶようになった。


   ※ 聖宝理源大師    大峯中興の祖、修験道当山派の開祖、京都醍醐寺を創建(西暦832年〜909年)
   ※ 鳥楢(とりすみ)山  大師の吹いた法螺貝が百の音色に響いたことから、それ以後、百螺岳(標高840m)と
                   呼ばれるようになった。 またこの近くには百螺山鳳閣寺があり、大師の大峯中興の拠
                   点とした。 ここでいう鳥楢へ参上とは鳳閣寺をさす。 山の中腹には聖宝理源大師の
                   廟塔(国重文・石造宝塔)がある。 『鳥楢の所在地は現在の黒滝村鳥住地区』
   ※ 奈良市餅飯殿町   近鉄なら駅下車、東向商店街を南へ、三条町南側に餅飯殿商店街がある。


空を飛んだ釣鐘

(喫茶とも・壁新聞2号)

    昔、遠州佐野郡原田郷に、長福寺(現在の掛川市本郷)という寺があった。 
  その門番をしていた山伏が、貧乏ではあったが寺の老僧のお陰で、毎年大峯山 
  へ参詣していた。  その老僧が死んだことで、門番の山伏が大峯山参詣の道
  が絶たれた。  後任の和尚に頼んでみると、この貧乏寺でカネと名のつくのは 
  あの鐘楼の釣鐘ぐらいなものだ。  あれでも良ければ持っていってくれと、あざ
  けり笑った。 
    翌朝、突然その釣鐘が鐘楼から外れ、うなりを打って空を飛びはじめて、大和
  の大峯山に向かった。   さすがの和尚も驚き、我を祈って、山伏の案内で釣鐘
  を追った。 鐘は山上山の絶壁にかかっていた。 今の鐘掛岩である。
    現在、大峯山寺に納められているが、もしこれを撞くと故郷を慕って鳴くので、
  今は撞木がつけて無いと言う。 

                                               (参考「大和の伝授」より)
   ※  梵鐘   大峯山寺の外陣左側奥の間に吊ってあり、数少ない奈良時代の作品。 「遠州佐野郡原田郷/
             長福寺鐘/天慶七年六月二日」(西暦944年)の刻銘があるが、明らかに追刻銘である。
             追刻の意図は不明。   (重要文化財)
   ※  鐘楼があって釣鐘のないお寺  長福寺では、大峯の釣鐘が焼餅を焼き、鐘を吊るせないままでいる
                             という。


文楽人形「陀羅助」の郷里洞川

(喫茶とも・壁新聞第3号)

    今から250年程前門左衛門亡き後の文楽を支えた、近松半二の処女作
  「役行者大峯桜」が(1751年)大阪「竹本座」で初演された。 その中に登場し
 て
くるのが「薬売り陀羅助」である。  四段目では、陀羅助の里(洞川)が舞台
 となり
五段目では、役の行者が大海人皇子(後の天武天皇)に味方して壬申
 の乱に勝利するのである。 「薬売り陀羅助」の大活躍する場面である。
   それ以後、「陀羅助の頭」は今に生き続け、洞川に縁の深い「義経千本桜」
 では義経の家来、亀井六郎で登場してくる。
  この「義経千本桜」の三段目「椎の木の段」(下市の茶屋)では、茶店をやって
 いる「いがみの権太」の内儀が洞川の陀羅尼助を近くの寺の門前に買い求め
 に行く場面がある。  陀羅尼助があちこちで販売されていたらしい。
  近年、「役行者大峯桜」は演じられなくなったが、「陀羅助の頭」は今も活躍
 している。 嬉しい限りである。 一度、「陀羅助」の生誕の地、この洞川に里帰
 りさせたいものである。

     ※ 近松半二(1725〜1783)  近松門左衛門も友人を父に持ち、門左衛門を二で割って半分の力も
        ないと謙虚な気持ちで名付けたと言う。 「役行者大峯桜」の他に、日本三大仇討ち「鍵屋の辻」の
        「伊賀越道中双六」等が有名である。


天川の円空仏

(喫茶とも・壁新聞第4号)

    鉈彫(微笑)の円空仏で知られている円空は、生涯十二万体の作像を祈願
  し、遊行僧として諸国を行脚している。 この大峯にも幾度か修行され、最も厳
  しい行のひとつとされる笙の窟で冬の越年修行を行っている。
   天川には、大峯山寺・天川弁財天社・栃尾観音等に円空仏が残され、奈良県
  には現在二十体あまりの円空仏が確認され、その内、体内仏を含め十七体が
  この天川にある。
   300年間、ひっそりと生き続けた天川の円空仏、洞川の大火の中で消えてい
  った仏様も数多くあったと伝え聞く。 今に微笑む天川の円空仏は、拝する人に
  奥深い感動を与えてくれる。

   
   ※ 円空  江戸初期の芭蕉や西鶴と同世代の円空(1632〜95)は、世に出ることはなかった。美濃の
          竹の鼻(岐阜羽島市)に生まれ、北は北海道、南はこの天川に修行しながら作業を続け、美濃
          の池尻で没した。
          『 昨日今日、小篠(おざさ)の山に降る雪は、年の終りの、神の形かも 』 大峯山中の小篠の宿にて
          『 大峯や、あまのかわら(天川)に年をへて、又くる春に花をみるらん 』  延宝2年〜3年を越年す


後鬼に伝授の「だらに助」

(喫茶とも・壁新聞第5号)

    持統天皇の頃、疫病が大流行、人々が大変苦しんだ。時に役の行者、御所
  茅原の里吉祥草寺の境内に大釜を据え、薬草を煎じてこれを呑ませた。この地
  が「陀羅尼助」製造の発祥地といわれ、「陀羅地」の地名が今に残る。      
    また、この寺の「陀羅尼助」縁起に「斉明天皇3年(657)藤原鎌足公難病に
  伏したまう。  役行者37日の呪法を修し、百薬を用いて難病を治す。役の行者
  の名声は四海にとどろき、世にこの秘薬「陀羅尼助」と称す」とある。       
    その後、役の行者は大峰山中に多い「黄柏」の皮からつくる「陀羅尼助」の製
  法を後鬼に伝授した。これが、後鬼の里洞川「陀羅尼助」の起源と伝えられ、大
  峰修行の山伏によって広まり、1300年後の今も、多くの人達に愛用されている

                                                              「陀羅尼助」より

     江戸時代の川柳           だら助は 腹よりはまず 顔にきき
                          花を見し 土産に苦し 陀羅尼助
                          だらすけを 飲んで静は 癪(しゃく)をさげ


道真公「怨霊伝説」外伝

(天神様にした大峰密教僧日蔵上人)

(喫茶とも・壁新聞第6号)

    「東風吹かば  にほひ起こせよ  梅の花  あるじなしとて  春な忘れそ」
  道真公の出世に対する藤原一族の妬みや中傷を受け、903年2月、惜別の一首
  を遺し左遷の地、九州大宰府へ配流される。その2年後道真公、窮乏の中で57
  歳にて病死する。
   その後、京の都では疫病(ほうそう)や天災、藤原一族の急死・若死などが続き
  貴族達は道真公のたたりと恐れた。官位を戻し祈祷を続けるも災難が収まらない
    その頃、大峯山中笙ノ窟に篭もって、無言断食の修行をする密教僧がいた。
  日蔵上人である。六道(地獄)を巡り、鬼神となった道真に会い13日後に蘇生
  する。
    このことが流布されると貴族達は争って慰霊に努めた。日蔵上人、冥土での出
  来事を時の朱雀天皇に伝え、北野天満宮創建に至るのである。
   その日蔵上人の笙ノ窟での六道巡りは『天神縁起承久本』などに残されている。

                                                              「大峯山と谷」より

      秋風に なみや立つらむ 天の川 わたる間もなく 月の流がるる     「菅原道真」
      寂寞の こけのいはとの しじけきに 涙の雨の 降らぬ日ぞなき     「日蔵上人」


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