2002年6月 丹波、丹後 No2

丹波、丹後 2002年6月 No1 へ

  2002年6月23日(日) 
    2日目は、もうひとつの元伊勢、宮津市にある丹後国一宮、元伊勢籠神社をめざします。

    

宿泊した町営のグリーンロッジのそばに「日本の鬼の交流博物館」がありますが、
このあたりは酒呑童子の里と呼ばれています。酒呑童子は源頼光に毒酒を飲まされて
退治された鬼ということになっています。
右の鬼は瓦で出来ています。全国各地の瓦職人が分担して鬼の顔を作っています。
そのためちょっと左右があっていないところもありますが、結構な大きさに圧倒されてしまいます。

    

左は「日本の鬼の交流博物館」です。鬼に関した資料がいっぱいです。
全国各地の伝統芸能、世界の鬼面、鬼のわら人形 等、鬼にまつわる物の展示、
大江山の3つの鬼退治伝説(源頼光、麻呂子親王、日子坐王)の紹介、
日本の鬼瓦の推移(飛鳥時代から現代まで)が紹介されています。
右の写真は酒呑童子を退治に出かける源頼光一行の姿を表した人形です。

    

いよいよ天橋立のある宮津市に到着です。天橋立の南側にある知恩寺です。
文殊堂といった方が有名かもしれません。ここは山形県「亀岡の文殊」、奈良県「桜井の文殊」と
並び日本三文殊の一つとなっています。左は暁雲閣で鐘楼となっています。
右は知恩寺の山門です。額には「黄金閣」とかかれています。理由は再建の際、後桜町天皇
より黄金を下賜されたことによるものだということです。

    

左は回転橋です。水路に舟が通るときに、写真の中央付近の橋脚を支点として回転し、
船を通すようにします。でもこの日はその様子は見れませんでした。
ここが、長さ3.6kmの砂嘴、「天橋立」のスタート位置になります。
右は、天橋立神社です。祭神は豊受大神です。 かつては皇大神を祀り、いわゆる元伊勢を
移したものとの説もあるが、これは附説であり、やはり文殊信仰が流行した平安末期から鎌倉
時代にかけて、文殊堂境内鎮守として祀られたものと考えたい、とあります。
       また天橋立という場所は、「文殊堂 智恩寺」の境内地なんだそうです。

    

左の写真は天橋立内にある「磯清水」という井戸です。天橋立は両側が海であるのに、真水が湧いてくる
というのは不思議な感じがしました。名水百選にも選ばれており、呑むと長生きするということです。

右は丹後一宮である元伊勢籠神社です。略記、伝承によると、上代より今の奥宮のある真名井の地に
「よさのみや」として豊受大神がご鎮座。崇神の時、天照皇大神を大和笠縫邑よりご遷座、2神を祀る。
天照皇大神は4年間鎮座の後、垂仁の時伊勢国へご遷宮。豊受大神は雄略22年に伊勢渡海郡山田原へ
遷せられた。天武白鳳11年、与謝宮を籠宮と改め彦火火出見尊を祭っていたが、元正養老3年宮を
現在の地へ遷し、彦穂明命を主祭神とし天照豊受及び海神(わたつみ)を相殿に祭しまた天水分神
(あまのみくまり)も併せ祭った。爾来、伊勢根元の宮、吉佐宮、丹後一ノ宮、内宮元宮など呼称される。
ということです。

この神社の宮司を務める海部氏は、代々世襲となっており天皇家の次に家系がたどれる家柄
とも言われています。平安時代初期に書写された海部氏家系図は海部宮司家の推移や、古代
の大豪族の変遷をしる極めて貴重な資料として高い評価を受け、日本最古の系図とされています。

    

ちょうどお大祓いの時期のせいでしょうか。正面の門をくぐったところに茅の輪がありました。
アラビア数字の8の字を書くように、まず茅の輪をくぐって左側へ行き、前に又戻り、今度は茅の輪
をくぐって右側へ行き、前に戻ってさらに茅の輪をくぐって左側に行きます。これで3回茅の輪を
くぐったことになりお祓い終了です。右は「さざれいし」です。本殿に向かって左側にあります。
確か伊勢神宮の外宮前のバス停の中庭のようなところにも「さざれ石」がありました。

    

左は本殿を横から見たところです。小さくて見ずらいかも知れませんが、据玉と呼ばれる五色の宝珠
が手すりのような高欄の上に乗っています。これを持つのは伊勢神宮の内宮、外宮とここ元伊勢籠神社
だけということです。それだけに格式の高さを感じます。

右の写真は、丹後一ノ宮籠神社の奥宮真名井神社です。 籠神社の東を奥へ行き、東へ200mで鳥居、
そこから北へ300m登ると到着です。写真には撮りませんでしたが、この写真の左側に有名な石碑
があります。何が有名かというとダビデの星が刻まれていたことです。ただし、それは数年前の話で、
今では籠神社の紋である三巴紋に変更されています。なぜ変更されたかについてはわかりませんが。
ちなみに伊勢神宮の参道に立っている石灯籠にもダビデの星が刻まれています。これを理由に日本民族
とユダヤ民族は同一だという説の証拠のひとつにもされています。真偽の程は不明ですが。

    

左の写真は真名井神社の本殿です。なんとなく雰囲気のある本殿です。
さらに印象的だったのは、本殿後ろにある磐座です。磐座は昔の信仰の形態になります。
もともと信仰の対象となる神様は神社などの建物の中にいつもいらっしゃるわけではなく
必要に応じて人間の前に現れるということになりますが、現れるためにはそれ相応の場所
を必要とし、それが「イワクラ」や「ヒモロギ」という大きな岩や木となるわけです。
私はこれを見て、古代そのままの祭祀の姿を目の当たりにした気持ちでした。ちなみに
磐座主座(下の写真左)には豐受大神 相殿 罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神
が祀られています。 磐座西座(写真右)には 天照大神、伊射奈岐大神、伊射奈美大神
が祀られています。ここで籠神社発行の由緒略記の内容をご紹介すると、以下のとおりです。

 「豐受大神またの名を天御中主神、国常立尊、倉稲魂命(稲荷大神)と云うとある。 創祀は不詳であるが、
はるかな昔から眞名井原に豊受大神を祀っていた。倭姫命世記によれば、崇神天皇の御代に天照皇大神
を大和国笠縫邑から当地に遷し、之を與謝宮(吉佐宮)として一緒に祀ったと云う。天照大神の各地の
遷座伝承は大和王権の各地の征服物語とも云われる。最初が丹後であった事が重要である」


    

左の写真の石碑に刻まれた文字はちょっと見ずらいかも知れませんが、「天御中主大神」と
刻まれていました。右は真名井神社の入り口の鳥居のそばにあった泉です。お参りする
前の手や口を清めるためにあるのだと思いますが、この水を車で汲みに来ている方が
いらっしゃいました。それだけすばらしい霊泉であるのだと思いました。

    

今度は丹後地方の歴史に触れてみるために、籠神社の西にあり、成相寺至る道の途中にある
京都府立丹後郷土資料館に立ち寄りました。この資料館の隣接地には丹後国分寺後があり
国の史跡に指定されています。資料館ですが、先土器・縄文時代から、近代に至るまでの
歴史・考古・民族の資料や美術工芸品などが展示・説明されていました。

写真は、これも資料館の隣にあった旧永島家住宅です。京都の指定有形文化財になっています。
永島家は宮津藩より大庄屋役を命じられた家柄で、苗字・帯刀を許されています。
この家屋は天保10年(1839)に建てられています。写真にもあるように囲炉裏や竈などがあり
旧家という感じがします。囲炉裏や竈には実際に火が入れられていました。係りの方に聞いたところ、
火を焚いているのは、屋根に使っている竹材や萱を丈夫にするためだそうで、年に何度かはこのように
囲炉裏や竈に火を入れているということでした。古い家屋を保存するのは大変なことなんですね。

    

左の写真は竈です。右の写真の装置は一体何をするものかわかりますか。
これは稲わらから縄をなう機械です。右のほうから稲わらを入れるとうまく捩れて、縄となり
出来上がった縄は左の糸巻きの大きいのに巻き取られていきます。
これを発明した人はすごい、と思ってしまいました。

    

最後は天橋立の全景です。左は成相寺から撮ったもの、右は旧永島家住宅の前庭から撮ったものです。
ちょっと2日間とも雨が降ったりやんだりとはっきりしない天気でしたが、おもしろい元伊勢ツアー
となりました。もう少し時間があれば丹波・丹後地区を回れたのですが1泊2日ではちょっと
難しいかも知れません。でもまた機会があったら訪れてみたい場所です。


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