2003年4月ゴールデンウイークにいつもの京都・奈良に加え、兵庫も訪れました。
兵庫では空の青さと瀬戸内の海の藍さが印象的でした。
平成15年4月27日 平成15年4月28日 平成15年4月29日
平成15年4月26日(土)
横浜から京都に到着。今日の予定は永田萌さんのギャラリーと堀野記念館でのビールだけでしたので、
ゆっくりと京都市内を歩くこととしました。
永田萌さんのギャラリーを訪れたのですが生憎正面からの写真がぶれてしまったので、道路を挟んで反対側にあったしゃれたイタリアレストランの写真です。でもよくよく壁に書かれた屋号を見たらなんと次に訪れたキンシ正宗さんではないですか。 ここでも地ビールを飲めたのでしょうが、私はやはり堀野記念館の蔵を改造した場所で飲むビールがいいのでここには入りませんでした。 |
メインで行った永田萌さんのギャラリーとキンシ正宗さんの堀野記念館の写真は結局撮りませんでした。
その代わり京都御所の写真でご勘弁ください。写真左は堺町御門です。京都御所南の門です。
写真右は仙洞御所の門です。桜がまだ咲いておりました。
写真左は京都御所の東北隅(猿ヶ辻)にある猿です。鬼門にあたる築地掘の一角に築いてある烏帽子
をかぶり、御弊をかついだ猿ですが、夜になるといたずらをするために金網を張って閉じ込められたとの
ことです。 写真右は京都御苑内にあった白の八重の椿(?)です。あまりにも綺麗でしたので思わず
シャッターを押してしまいました。なんと言う種類の椿なのでしょうか。
2日目は兵庫県を探訪することになりました。宿は奈良市内にとっていましたので移動は大変でした。
近鉄新大宮駅で難波行きに乗り鶴橋でJR大阪環状線に乗り換え大阪着、そこで新快速姫路行きにさらに
乗り換え姫路に到着、さらにさらに山陽本線に乗り換え網干駅へ、都合3時間の旅となりました。
今日の予定は、太子町の斑鳩寺、高砂市の石乃宝殿そして加古川市の鶴林寺を訪れることです。
神戸より西を訪れるのは何年振りでしょうか。10年振りかと思います。
日本書紀によれば、推古天皇十四年秋七月、聖徳太子は推古天皇のために勝鬘経(しょうまんぎょう)
を講讃されたとあります。推古天皇はいたく感激をされ、聖徳太子に播磨国揖保郡の土地をおくられた
ところ、太子はその土地を「鵤荘(いかるがのしょう)と名付けられ、法隆寺に施入されました。
その土地が現在の太子町と龍野市の一部にまたがる旧法隆寺領で、その中心に建てられたのが、
播磨の斑鳩寺です。推古朝より約1000年にわたり、法隆寺を経済的に支えてきた荘園として、
また播磨地方の太子信仰の中心として栄えてきました。
しかし火災で堂宇が焼失し、江戸時代に再建された以降は天台宗の寺院となっています。
写真左は三重塔です。斑鳩寺伽藍のうち最古のものです。1541年,斑鳩寺全焼の後,
1562年に再建された。三重ながらよく均斉がとれ,室町末期の秀作となっています。
西播磨地方に残る古建築のうち唯一の国指定重要文化財です。
写真右は本堂です。現在の建物は明和六年(1769)再建。
本尊は、薬師如来、釈迦如来、如意輪観世音菩薩(いずれも重要文化財)
写真左は聖徳殿です。斑鳩寺で最も重要な伽藍,聖徳太子16才の尊像を安置しています。
明治43年,もとの太子堂に中殿奥殿が増設されました。大正3年竣工。奥殿は法隆寺夢殿を模した
八角円堂となっています。 写真右は聖徳太子2歳の時の像です。
斑鳩寺最後の写真は山門両側にいらっしゃる仁王様です。
目の部分が最近流行りの白いアイシャドウをしているようで印象的でした。
あと残念ながら聖徳太子が作ったといわれる地球儀は見れませんでした。
斑鳩寺ホームページ
1時間に1本程度しか走っていない網干駅行きのバスに運良く乗ることができました。
姫路まで戻りさらに電車を乗り換え山陽本線を東に戻りJR宝殿駅で下車します。
駅を降りて南西に徒歩20分ほどで生石神社の鳥居前に到達します。(写真左)
この生石(おうしこ)神社の由緒は次の通りです。
「人皇十代崇神天皇の御代(西暦九七年)日木全土に悪疫が流行して人民死滅の境にある時、
ある夜二神が天皇の夢枕に現れ「吾が霊を斎き祭らば天下は泰平なるべし」とのお告げがあり
依りて此所に生石神社が創建せられたのである。以来忽ら悪疫も終息して天下泰平となる。」
この神社が有名なのは神社裏手にある、家を横たえたような巨大な石造物「石乃宝殿」です。(写真右)
横6.4m、高さ5.7m、 奥行7.2m
この岩の周囲に水がたまり、水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」ともいわれています。
仙台塩釜神社の塩釜、宮崎県霧島神社の天逆鉾と並んで日本三奇の一つに数えられています。
この石造物にも由緒があります。いかに引用した内容を紹介します。
「 神代の昔大穴牟遅(おおあなむち)少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の命を受け国土経営
のため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営
せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため
二神は山を下り数多神々を集め(当時の神詰現在の米田町神爪)この賊神を鎮圧して平常に還った
のであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである、時に二神宣はく、
たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に寵もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたので
ある以来此の宮殿を石乃寶殿、鎮の石室と構して居る所以である。 」
写真左はちょうど裏側にある部分の突起です。
写真左は御神体となっている石造物の分岩となっており、強く押して願うと願いがかなうと言われており、
当然私も押してきたことは言うまでもありません。内容についてはナイショです。
写真右は上から見た石造物です。石造物の一部が風化したものかどうかはわかりませんが、
岩が風化したと思われる土砂の上に樹木が生えています。そんなに大きくはありませんが
このような養分の少ない所に生えているのでしょうから結構な樹齢かも知れません。
写真左はちょうど背後から見た石造物と神社の本殿です。
これだけの石造物が作られる場所ですので、周囲は岩山だらけで、写真右のように石切り場
があり石材を切り出していました。意外とここから切り出されていった古墳の石材なども
結構多かったのでは無いでしょうか。
生石神社ホームページ
さあ、再びJR宝殿駅まで戻り、JR加古川駅まで東に戻ります。
目指すは聖徳太子が創建された鶴林寺です。JR加古川駅から徒歩30分弱です。
写真左は大門と三重塔です。写真右は本堂です。
鶴林寺の由緒は以下の通りです(鶴林寺HPより引用)
「 高麗(こま)の僧、恵便(えべん)法師は、物部氏ら排仏派の迫害を逃れて、
この地(播磨)に身をかくした。聖徳太子は恵便法師(えべんほうし)を慕い、
その教えをうけるため、この地に来られた。のち、秦川勝(はたのかわかつ)に
命じて三間四面の精舎を建立し、刀田山四天王寺聖霊院と名付けられたのが
鶴林寺のはじまりであると伝えられている。」
境内の様子です。写真右の真中で白い服を着た人が覗いている足元には石棺があります。
写真左は太子堂です。国宝です。内部には釈迦三尊(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)が祀られています。
太子堂壁画も重要文化財ですが、煤けているため肉眼ではよく見えないようです。
太子堂正面の隙間から中を覗いてみましたが、釈迦三尊がおぼろげに確認できました。
写真右は本堂内陣です。薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、持国天、多聞天がこの厨子の中に
祀られています。60年に一度のご開帳ということです。確か前回は平成9年(?)となっていましたので
次回は平成69年(2057年)ということですね。次回見るのは難しそうです。
写真左は観音堂の観音像です。ちょっとピンぼけですみません。
写真右は鐘楼です。重要文化財となっています。
鶴林寺の最後は仁王様です。迫力がありますね。
一応予定していた斑鳩寺、石乃宝殿、鶴林寺を廻ることが出来たのでちょっと寄り道をしました。
鶴林寺の南西にある山陽電鉄尾上松駅から電車に乗り、西江井島駅で下車
旅行ガイドブックを見ていたら、「明石地ビール」という記事を見つけてしまったので急遽
立ち寄ることに決定してしまいました。この地域は西灘と呼ばれた酒蔵の町で、そこに地ビール
ブルワリーが出来たということです。レストラン兼ブルワリーは瀬戸内海に面した場所に建っています。
このブルワリーでは女性マイスター3人が日夜ビール作りに専念しています。
写真右はお試しセットで飲んだ4種類のビールです。左から「悠久の時」(スタウト)、「明石の君」
(ヴァイツェン)、「明石浪漫ビール」(ブラウンエール)、「明石海岸ビール」(ピルスナー)です。
歩いて行くにはちょっと駅からも遠いので、車を運転される方にはお勧めできませんが。
レストランの2階の窓からは瀬戸内海が見えますのでロケーションは最高かと思います。
ちょっと酔いを覚ます意味もあってレストラン近くの江井島漁港まで行ってみました。
潮風が気持ちよかったです。写真左の橋は明石海峡大橋です。写真右は明石海峡大橋の
対岸にある淡路島です。淡路島をこんなに近くで見たのは初めてです。
今日はゆっくり奈良を見物することにしました。何処に行くカを決めていなかったのでとりあえずこの季節
花が見れるところにということでしばらく行っていなかった当麻寺に決定。ちょっと安易な決め方ですが。
近鉄当麻寺で降りていざ当麻寺へ、と思っていたのですが「中将餅」の暖簾に惹かれ思わず店の中へ。
店先には摘んだばかりのヨモギの山(写真左の左下)でした。中将餅は柔らかい草もちの上に漉し餡
が乗っているお餅です。ヨモギの香りと餡の甘さがいい組み合わせです。
腹ごしらえも出来たところでいざ当麻寺へ。マンホールの蓋には当麻寺、二上山、そして牡丹の花。
当麻寺に入って最初に目に入った花が藤でした。春日大社の「砂ずりの藤」には負けるかもしれま
せんが、結構この藤の写真をとっている方々がいました。
当麻寺の奥の院浄土庭園です。牡丹が一面に。日除け(?)雨除け(?)の傘の花も風情がありますね。
カメラマンの数もすごかったですね。写真右は奥の院の本坊です。ベンガラ色の壁が印象的です。
奥の院から戻る途中で見た西塔です。写真右は本堂(曼荼羅堂)です。まだ八重桜が咲いていました。
当麻寺も最後は仁王像で締めです。迫力ありますね。
当麻寺ホームページ 当麻寺中之坊ホームページ
行き当たりばったりついでに次は法隆寺に向かうこととしました。
そのせいでしょうか。修学旅行の小学生の集団に遭遇してしまい、せっかく西院伽藍に入ったのですが
写真を撮影するどころではありませんでした。なんせ小学生だらけでしたから。
写真右は東院伽藍にある夢殿です。ご本尊は救世観音で、ちょうど特別開扉の期間中であったので
正面の隙間から救世観音を拝観する事ができました。全然その期間中であることは知らずに行って
いたので本当に運がよかったです。
法隆寺ホームページ
法隆寺も仁王像の写真を載せることとします。いやー今回はいろんな仁王様を見ることが出来ました。
法隆寺で終了とするのはもったいないので、法輪寺、法起寺を含めた斑鳩巡りをすることとしました。
法隆寺の東大門のところを北に向かいます。天満池に突き当たるのでそれを右に池に沿うように
歩くと斑鳩神社に行き当たります(写真左)。祭神は菅原道真公 伊香留我伊香志男命です。
地元では天満さんと呼ばれているそうです。なるほど牛の像があるわけです。
写真右は法輪寺に向かう途中にあった「中宮寺宮墓」の宮内庁の立て札です。
「陵」ではなく「墓」となっているので皇室には関係するが天皇家のものでは無いと思われます。
さてようやく法輪寺へ到着です。でも時間がもう4時近かったので拝観は難しいかなと思い
外からの拝観とさせていただきました。写真右は塔のてっぺんにある水煙です。
法輪寺創建には二説が伝えられています。ひとつは、推古30年(622)聖徳太子がご病気になられた折、
太子の御子山背大兄王がその子由義王らとともに太子のご病気平癒を願って建立されたという説
もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師、圓明法師、下氷新物三人が合力して
造寺したとする説です。(法輪寺ホームページより引用)
法輪寺ホームページ
斑鳩巡り最後は法起寺です。時間が大丈夫かと思いましたが何とか拝観ができるということで
中に入ることとしました。法起寺は法隆寺と並んで世界文化遺産に指定されています。
こちらでも三重塔を早速撮影です。塔の水煙はどこも同じかと思ったら
全然違うんですね。今度塔を見たら水煙の形に注意してみようと思います。
法起寺は別名、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれています。この寺は、推古14年(606)
に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺
などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。 創建の由来については『聖徳太子伝私記』
に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘によって判明します。それによると、推古30年(622)2月22日、
聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背
大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したといわれています。(法起寺ホームページより)
写真左は聖天堂です。旧金堂跡に立てられており本尊歓喜天像を安置しています。
写真右は本堂です。寄棟錣葺の建物で、もとの講堂跡に建てられています。
最後は本堂と三重塔いっしょの写真です。この日も結構歩きました。
今日はGW前半の最終日。横浜に帰る日です。京都駅を夕方に発つ新幹線を予約しているので
ちょっと時間が余ってしまいました。歩くにしては半日は中途半端でしたので、定期観光バスの半日
コースを利用することとしました。岩船寺・浄瑠璃寺コースです。
一度この定期観光バスのコースは乗ったことがあるのですが10年も前のことなのでもう一度
訪れてもいいかなと思いバスに乗り込むこととしました。
最初は岩船寺です。三重塔は鮮やかな朱に塗り変わっていました。以前は確か黒っぽい落ち着いた
色でしたが、朱塗りの塔も創建当時の感じがしますし、なんと言っても新緑に映えますね。
写真右は十三重塔です。結構この十三重塔もいろんな寺院で見ることが多いですね。
創立は天平元年(729)、聖武天皇が出雲の国不老山大社に行幸の時、霊夢によって、この地に
阿弥陀堂の建立を発願、大和国善根寺に篭居しておられた行基菩薩に命じて建てられたのに始まる。
最盛期には四域十六町の広大な境内に39の坊舎があり、その偉容を誇っていたが承久の変
(承久3年1221)によって大半が焼失した。その後再興された堂塔も再度の兵火によって次第に
衰え、江戸時代初期の寛永の頃には本堂、塔、坊舎、鎮守社等、十棟程度になる。当時の住僧
文了律師はこの荒廃ぶりを痛くなげき、自ら世上に出て訴え続け、ご勧進と徳川氏の寄進とによって
本堂や本尊の修復を成し遂げられた。そして、江戸時代の本堂も老朽化のため五ケ年計画で
本堂再建事業を進め、昭和63年(1988)4月2日落慶し、現在にいたる (岩船寺縁起より抜粋)
岩船寺本堂です。写真左の池は阿字池です。本堂には重要文化財となっている本尊阿弥陀如来座像、
同じく重要文化財の普賢菩薩騎象像、府指定文化財の四天王立像が安置されています。
写真左はちょっと見ずらいですが、石室不動明王です。眼病に霊験があるということです。
観光バスですので、集合時間が近づいてきましたので山門を最後写して岩船寺を後にしました。
観光バスは浄瑠璃寺へ到着です。まずは写真左の阿弥陀堂内にて住職さんのお話でした。
ちょっと足が痛くなりました。阿弥陀堂には九体の阿弥陀仏が祀られており上品、中品、下品を
それぞれ上生、中生、下生に別け、人間の努力や行いに応じて上品上生から下品下生までの
9種類の往生があるとの考えから、往生を見守ってくれる如来を九体祀ったということです。
池の反対側から見た阿弥陀堂です。(写真左) それと三十塔です。三重塔には薬師如来が祭られています。
薬師如来は瑠璃光浄土にいて、我々はその比岸を出発して生まれ、死に際し阿弥陀如来のいる西方浄土の
彼岸にいたるということになっているそうです。池を挟んで東に薬師如来の三重塔、西に阿弥陀如来の
阿弥陀堂を配置することで、仏教世界を顕した形となっています。
一度、三重塔から上る朝日と阿弥陀堂に沈む夕日を見てみたいですね。
浄瑠璃寺の見学も時間がきてしまいました。今回は運がよいことに秘仏である吉祥天女像を阿弥陀堂で
拝見することが出来ました。次は10月1日から11月30日の期間に開帳されるそうです。
ちなみに三重塔内の薬師如来は毎月8日と彼岸中日と正月3ケ日の好天にのみ開帳されるそうです。