HONEY BLADE |
「子が産めぬ身体だったとは。何のためにお前をめとったのか、わからんな。」 男は冷たく言い放つと、部屋を出ていった。広い室内には冷たい冬の光が沈んでいる。 少女が力無くその両眼を閉じると、こらえていた涙が、白い頬にこぼれ落ちた。 彼女が男のもとへ嫁入ったのは、3年ほど前の事であった。顔さえも知らず、ただ、政略結婚の相手としてしか互いを認識していなかった。 愛情どころか優しさの欠片さえもない男を少女は必死で愛そうとした。 けれど、心が通じ合う事もなく、ただ月日が流れていく。もともと丈夫ではなかった彼女が、そんな毎日に疲れ果てたかのように大きな病を患い、2年半―――。 そして、今もまだベッドから抜け出し、室内を歩くのがやっとの状態なのだ。 それに追い打ちをかけるように、先日彼女の主治医が持ってきた診断書には、先ほど男がなげかけた言葉のとおりの事が記してあったのだった。 「…お産の負担に、母体が耐えられない…。」 少女は自分の診断書を涙でかすむ目でじっと見つめながらその部分だけを口に出してみた。 14歳でこの家に来てはじめて、彼女は涙を流していた。 『…いで…ここへおいで。』 柔らかく降る声に、少女はゆっくりと瞼を開いた。そこがいつもの暖かな光に満ちた場所だと気がつくと、少女は大きく伸びをして立ち上がり、なだらかな丘の上から草原を駆け下りた。 『ノア、ここへおいで。見てごらん、海が宝石みたいに煌めいている。』 ノアと呼ばれた少女が生き生きとした黒い瞳をその青年に向けると、青年も彼女に穏やかに微笑みかえす。女性のように美しい容姿をした青年は銀色から毛先に向かって鮮やかなマリンブルーへと変わる不思議な色の髪を、風になびかせながらノアに両手を差し出す。 『本当だわ。あなたの瞳と同じに、澄んでとても綺麗な色をしている。』 青年の腕に羽のように優しく抱きとめられながら、ノアは眼下に広がる深い紫色の海を眺めた。 『ね、ユーク、海岸まで降りてみましょうよ!』 『そうだね。』 言ってユークはノアを軽々と抱き上げ、そのままふわりと高い絶壁を飛び降りた。 彼女を抱いたまま、ゆっくりと真珠の粉のような淡い七色の光を放つ砂浜に舞い降りると、ノアは彼の腕をひっぱり波打ち際へと誘う。水晶の貝殻が、キラキラと暖かい光を弾いていた。 『わたし、海って大好きよ。とても気持ちが穏やかになるもの。』 『僕も、海は好きだよ。君の笑顔がとても輝いて見えるから。』 ユークはそっとノアを抱きしめる。暖かい日差しの香りがノアの鼻をくすぐった。 二人はそのまま、浜辺に腰をおろす。 『わたしね、これが全部夢だって解っていてもあなたと居られる時が一番幸せなの。』 『ノア…。』 ノアはユークの肩にもたれかかると手のひらの中の小さな貝殻に視線を落とした。 『ずっと、このままこっちに居られたら、どれだけ幸せかなっていつも思う。例えあなたが私の夢でも…幻でもあなたは、ここに居るもの。そして、わたしもここにいる。』 『僕は、幻じゃない。こうやって夢の中でしか君に逢う事はできないけれど、僕はちゃんと存在しているから。安心して。』 彼の眼差しはまるでノアの全てを包み込むように優しかった。それは、数多くの言葉で傷つけられた彼女の心を癒す、不思議な力を持っているのかも知れない。 『うん…。』 「お待ち下さいませ、旦那様!奥様はご気分がすぐれないと仰って、お休みになっておられます!」 突然、切迫した女性の声があたりに響いた。すると景色は色を無くし、ユークの姿は霧のように薄れて消えていく。 ―――嫌…お願い、さめないで…。 『…ノア!…待っ……』 ―――お願いだから…。 乱暴に扉が開かれる音に、ノアはびくっと肩を震わせ、ベッドから跳ね起きた。その憂いをおびた黒い瞳にはろうそくの灯りが映りこんでいる。 「は!気分がすぐれないだと?いつもそうではないか。今更、それがどうしたと言うのだ。」 男は腕にすがりつくメイドを乱暴に突き飛ばし、室内に足音高く踏み込んでくる。 「ひどい、大丈夫っ!?」 突き飛ばされたメイドを案じてベッドから降りようとするノアに男は冷ややかな視線を注いだ。 「これから妻と大切な話がある。お前は下がっていろ。」 「…かしこまりました。」 有無を言わさぬ男の態度に、メイドは申し訳なさそうにノアに一礼すると扉をしめた。室内には沈黙が訪れ、降り出したばかりの雨の弱々しい音が響いた。 「お酒を…召し上がられたの?」 何も映っていない淀んだ瞳で見つめてくる男にノアはたまりかねて声をかけた。聞く必要などなかった。男の身体からは強いアルコールの臭気が立ち上っている。 「…人形だな。」 「え?」 男はかすれた声で呟くと、ゆっくりとした足取りで彼女のベッドに近づく。 「…あなた、今日はもうお休みになった方が…いいわ。」 徐々に近づいてくる男に強い嫌悪を抱きながらノアは必死に冷静な言葉を紡いだ。 「まるでお前は人形だよ。綺麗な顔をして、綺麗な声をして。…そうやって私をさげすむのか?私を受け入れず、子も産まずそうやって拒絶するのか。」 男は冷たい表情を浮かべた顔を醜く歪ませた。 「来ないで!」 とっさに逃れようとするノアの身体を男はものすごい力で抱きしめた。卑屈な視線が、彼女の白い首筋に注がれる。熱く濁った吐息が首筋にかかり、ノアは恐怖に目をつむる。 「本当に子供が産めない身体かどうか、試してやろうか?」 必死に抵抗しながら、ノアは誰かに助けを求めていた。自分が一体だれに助けを求めているのかさえも解らないまま、必死に夫であるその男に抵抗していた。 「―――助けて、お願い。」 無我夢中に男の腕から逃れながらノアは心のどこかにあるはずの誰かの名前を探す。けれどその名前を思い出す事はできなかった。 ―――僕はちゃんと存在しているから。安心して。 ふと、心の奥底からその言葉が浮かび上がった。この言葉は一体誰の言葉なのだろう? 身近な者の言葉ではないはずだけれど、とても近い存在に感じられる。 とても暖かく、優しく、彼女を包み込んでくれる言葉…。 ―――あなたは、誰なの…? ほんの僅かに残る温もりを求めるように心の中で呟くと、不思議と涙が溢れて来た。ノアの両眼から零れた涙を見て、男は興が冷めたとばかりに、彼女を突き飛ばし感情のない眼差しで見おろした。 「涙を流して拒絶するほどに、夫である私を嫌うのか?」 ノアに背を向けた男は足早に彼女の部屋を後にする。その表情をうかがい知る事は出来なかった。 「もう、たくさん…。」 ノアはため息のように細い吐息でろうそくの炎を吹き消すと、ベッドに身体を沈めた。 窓越しに聞こえる弱々しい雨の音はまるで彼女を慰めてくれているように優しく穏やかだった。 ―――私はどうしたらいいんだろう。このままただ生きているだけの日々をここで過ごして、やがて年老いて死んでいくのだろうか。…国に帰りたい。お父様とお母様に…みんなに逢いたい…。 優しい雨音に耳を傾けていると、懐かしい家族の顔が思い出された。遠い祖国に残した家族。 彼女をいつも優しく包み込んでくれた人々。その中にふと見知らぬ影がよぎった。 ―――誰? そう思うと次第に目頭が熱くなり、また涙が零れてしまう。一体その人物が誰なのか、思いを巡らせるうちにノアは深い眠りへと墜ちていった。 『心が悲鳴をあげている…。』 細く繊細な指が、ノアの黒髪をそっと撫でた。ユークの胸に抱かれながら、虚ろな黒い瞳は、虚無の空間をぼうっと眺めている。 『ノア…僕が君を護ってあげられたら、どんなにいいだろう。こうやって夢の中でしか君に逢えないのが辛い。あんな人間に、君の心が傷つけられてしまうのを黙って見ていなければならないのが、たまらなく悔しいんだ。』 ユークはその美しい顔を曇らせて低く呟く。白い拳は硬く握りしめられていた。 『ううん。わたしは大丈夫。…だってわたしがいけないんですもの。』 そこは二人以外には何もない空間だった。澄んだアメジストのような海も、七色に輝く砂も、水晶の貝殻さえもない、ただ闇があるだけの空間。 そこにぼんやりと、二人の姿が浮かんでいる。 『大丈夫なんかじゃないよ。ごらん…君の心が深い傷を負っているから、この世界には闇しかない。』 ユークの紫色の瞳に深い憂いの色が浮かぶ。 『ユーク、そんな顔しないで。きっと大丈夫。わたしにはあなたが居るんですもの。あなたとこうしているだけで、とても痛かったことも、辛かったことも忘れられる気がするから。……ほら、見て。』 彼の胸に頬を預けたままノアはゆっくりと彼方を指さした。 そこには銀色の幹を持つ一本の樹が佇んでいる。 『暖かいわ…とても。』 両眼を閉じ、ノアがそう呟くと、彼方にある花も葉さえもなかった銀色の樹は一瞬にして淡い水色の葉を芽吹き、白い花々を咲き誇らせた。 そして、その樹を光源にでもするようにして漆黒の闇の中に白銀の森が誕生した。ノアとユークは柔らかな風に吹かれながら水色の芝生の上に寝転がった。 『ほらね?心配いらないの。わたしの心がどんなに傷ついていても、あなたの側に居て、あなたの温もりを感じていられたら…すぐに癒えてしまうのだから。』 そう言ってノアは無邪気に笑った。 まだ、あどけなさの残る彼女の顔を覗き込みながら、ユークもくすりと笑った。 ノアは黒い瞳をそっと閉じる。 ふわり、と柔らかい感触が彼女のくちびるに舞い降りる。 暖かく優しいユークのくちづけは暖かい日差しの香りがした。 冷たく、かじかんだ心を温めてくれる温もりに満ちた香りが――― 雨は止んでいる。 室内は静まりかえり、恐ろしいほどの冷気と空虚な殺気に満ちあふれていて、その中にほんの僅かに少女の寝息が溶け込んでいた。 夜は、まるで生き物のようにそこにうずくまり、男の姿を飲み込んでいた。月は細く針のように不気味な笑みを浮かべている。 微かな寝息で、そこに彼女が眠っている事がわかる。やっと闇に慣れてきた目で、男はノアの白い顔をじっと見おろしていた。 穏やかで、計り知れぬほどの愛情に包まれているような寝顔。白い美貌はまるで闇の中からでさえも、浮き上がるように美しかった。 「どんな夢を見ている?」 男は音もなくベッドの脇にしゃがみ込むと妻の黒髪をそっと撫でた。 ―――お前はいつも、眠っている時だけはそうやって穏やかに笑うのだな。…そんな顔を私は一度として見た事がない。いつも偽りの笑顔を浮かべて私を見ていた。 微笑を浮かべている少女の、淡く色づいたくちびるを神経質そうな指でなぞりながら、男はうめくようにして低く笑った。 「…ククク。」 ―――お前が私を愛していなかった事など解りきっていた。笑顔を浮かべながら私を拒み続けていた事も。けれどもそんな事は、どうでもよかった。ただ、お前が私の手の中に居て、私の言葉に傷つく様を見ていられるだけで、私には十分だったんだ。 男は優雅とさえ思える動作で、懐から短刀を取りだした。 それは、細い月の微かな光を受けて残酷な光を弾く。 「お前は一体、何に救われている?お前の中には、私以外居ないはずなのに。」 取りだした短刀をそっとノアの首筋にあてがいながら、男は彼女の耳元でそっと囁いた。 「私はお前の全てが欲しい。例え夢の中でさえお前は私の事を忘れて幸せになどなってはならない。…だから、行こう私達だけの世界へ。」 「……。」 ノアはただ、ゆっくりと穏やかな寝息をたてたまま―――男は無造作に短刀を彼女の胸に突き立てた。 『ねぇ、ユーク見て!この花畑とっても綺麗!』 彼女の目の前には一面、深紅の薔薇が咲き乱れていた。むせるような濃い香りに、ほんの僅かな違和感を覚えながら、ノアはユークを振り返る。 『本当に美しい薔薇だ。まるで私達の血のようだな。…私はこの花が大好きだよ。』 そう言って男は卑屈な笑みを浮かべた。 −Fin−
|
作者=【月夜の訪問者】主:じゅう。様..........【月夜の訪問者】紹介頁へ
|
|
【萬語り処】 ← 感想・苦情・その他諸々、語りたい場合はこちらへどうぞ。 |