ぎしき 儀式 |
啓子〔けいこ〕が、“変な子”と告げ口されているのを知ったのは、新しい母親が来てから三ヵ月後だった。 その頃、彼女は実母の妹に預けられていた。再婚直後のごたごたが高校受験に悪影響を及ぼす、という理由で。 だから、偶々学校の帰りに必要な物を取りに戻っただけなのだ。目的さえ果たせば、すぐに叔母のマンションへ向かうつもりでいた。自分の家にも拘らず、長居をする気持ちは微塵もなかった。 父は、体調不良か何かで会社を休んだのか、いるはずのない時間に寛いでいた。リビングのソファーに寝そべる父に、あの女が覆い被さるようにして囁いている。 「あの子、少し変じゃない?」 「啓子が何だって?」 「ちょっとだけね、お部屋をお掃除してみたの。そしたらね、何だか気味の悪い本が山ほど隠してあったのよ。ベッドの下に」 細く開いたドアから洩れ聞こえる声に、啓子は廊下の陰で身を強張らせた。 「気味の悪い本って何だ?」 「わからないわ。黒魔術とか書いてあって、悪魔だか魔女だかの奇妙な絵が一杯なのよ。あなたの娘なのに何だけど、やっぱり問題あるんじゃない? 精神的に」 余計なお世話だ――啓子は拳を握り締めた。父が娘を庇うのを期待しながら。 「俺もあの子のことは良くわからん。前の妻に任せきりだったからな。女房には少し夢想癖があった。妙なところが似てしまったのかも知れないな、あの子は」 「そうね、奥様、随分妄想に苦しんでいたみたいですものねぇ。その挙句、あんな死に方を――」 「よせよ。死んだ女房の話なんか、これからの俺たちには関係ないだろ。もう済んだことは忘れようじゃないか」 父の言葉は、啓子の中に残っていた僅かばかりの躊躇いまで、粉々に打ち砕いた。 ――あんな女の言いなりになって! 父が憎い。それ以上に元愛人が憎い。母が生きている間は裏切り続け、遂には自殺に追いやった奴らに、この手で報復をしてやりたい。しかし、たとえ憎くても実の父。直接の標的にする決心はつかない。 息を殺して佇む娘にも気づかず、汚らわしい連中が、新婚夫婦としての痴態を演じ始めた。 俄かに胸がむかつく。絶望を抱え、怒りに震え、啓子は音を立てずに玄関を出た。 夜半過ぎ、そっと部屋を抜け出し、マンションの裏の林へ向かう。叔母の娘の杏子〔きょうこ〕も一緒だ。 「ちょっと怖いね……」 「人の来ない鬱蒼〔うっそう〕とした場所じゃなきゃ、効き目がないって言ったでしょ」 臆病風に吹かれた杏子に、冷たい返事を投げつける。 「わ、わかってるけど……」 弁解する従妹を無視して啓子は訊いた。 「あれ、持ってきた?」 「う、うん……」 虫篭に入れた小さなハツカネズミを、杏子が嫌々差し出した。 「ペットのチョロちゃん……ほんとにいいのね?」 「だって、啓ちゃんが、大事な命ほど効き目があるって……」 「そうよ。大事な物を引き換えにするほど効果が上がるんだから。だけどね、何度も言うけど、どんな小さな命だって――虫けらだって、大切な一つの命。それを犠牲にするんだから、よっぽどの願い事じゃなきゃダメだよ。……儀式が終わったら、きちんと葬ってやらないとね」 忠告に次いで、準備に取りかかった。平たい場所を探し、少し草を抜き、本から書き写した魔方陣を広げ、地面にピンで止める。蝋燭とペーパー・ナイフと聖杯代わりのグラス。その前に虫篭を置いた。 「魔方陣に入って。何があっても絶対に出ちゃダメだからね!」 啓子の鋭い指示が飛ぶ。 杏子が震え上がった。幾度も儀式を目の当たりにしたはずなのに。最初のうちは、野原で捕まえた虫を生け贄に使い、人のいない静かな場所で、時刻は夕方が多かった。彼女はただ見ているだけ、呪う相手もなしに。こんな深夜、しかも当事者として儀式を行うのは、これが初めての体験なのだ。緊張ではなく、恐怖が先立つのも無理はない。けれど、ぎくしゃくと指示に従い、魔方陣に蹲った。 怯える従妹を尻目に、啓子は淡々と呪文を唱える。活字からでは得られない発音は自己流だが、念の強さが尋常でなければ、それなりに通用するものらしい。今までに失敗と思しき例はない。 詠唱を終えると、啓子は低く呟いた。 「誰を懲らしめたいの?」 逃げ出したい衝動を必死で堪え、杏子が声を絞り出す。 「……湯浅篤子〔ゆあさ・あつこ〕……うちのクラスの委員長」 「ああ。あの性根の腐った女ね」 杏子は篤子に陰険な虐めを受けている。啓子にしか事情を話せず、仕返しも侭ならないでいた。だが、この儀式が積年の恨みを必ずや晴らすに違いない。 「あれは? 手に入れられた?」 杏子が無言で小さな紙包みを渡す。出てきたのは長い女の黒髪。それを無造作に聖杯に入れた。 「これから捧げる生け贄の命に代え、我らの願いを叶えたまえ。――湯浅篤子に災いを!」 啓子の手に握られたペーパー・ナイフが、ハツカネズミを無残に引き裂いた。 「さあ呪って、杏ちゃん! 湯浅篤子を呪うのよ!」 愛するペットの死に様に動揺し、杏子が固く目を閉じた。雑念を振り払おうと懸命に呪う。ひたすら呪いを口にする。合間に響く断末魔の叫びが、ちりちりと心を揺るがせた。 「ゆっ…湯浅、篤子に災いを!」 「湯浅篤子に災いを!」 引き裂かれたネズミの血と内臓を聖杯に入れ、啓子はナイフを高く掲げる。短い自己流呪文に続き、 「我らの望みを叶えたまえ――」 更に長々と呪文が尾を引いた。 かくして儀式は終わり、哀れな遺体は冷たい土に葬られた。 「なんか憑き物が落ちたみたいな顔してるね、杏ちゃん」 「え、そう?」 ペットの死を悼んで泣き腫らした目で、しかし多分にさばさばした調子で、杏子が答えた。 「呪いが発動するのは何日も後なんだからね。気を緩めちゃダメだよ」 「あ、うん……わかった」 「それから――」 「わかってる。誰にも言っちゃダメなんでしょ」 啓子は厳しい眼差しを向け、ゆっくりと頷いた。 五日後。儀式の効果はまだ出ない。 杏子は相変わらず、篤子の嫌がらせに怯えていた。廊下で擦れ違うと縋る瞳を向けてくる。その中にある、ほんの僅かな疑いの色を、啓子は本能的に見抜いた。 ――杏ちゃん、気を確かにね……でないと……。 目で呼びかけたとしても、杏子には伝わらないだろう。もともと臆病者の彼女をここまで駆り立てたのは、日々の苦渋から逃れたい一心だった。打開策が期待できないと感じれば、自分を惑わした従姉に、恨みは向けられるのかも知れない。 啓子だって、本当は手一杯なのに。 だからこそ、学校帰りにわざわざ寄り道をして、こんなストーカー紛いの真似までしているのだ。 電信柱の陰から覗く。未だに近所の医院のドアは開かない。入ってから随分になるというのに。 諦めが背後に忍び寄る。迷いが啓子を揺さぶる。この刹那に何の意味があるのかと。扉の向こうには、決して有難くない結末しかないのでは……と。 やっとのことでドアが開いた。あの女が、いそいそと手帳をバッグにしまい、にやにやと締りのない顔で去っていく。 嫌悪を篭めて背中を見送りながら、啓子はふらふらと医院の戸口に歩み寄った。看板に書かれた文字を見間違うわけがない。 産婦人科―― 密かに怖れていた結末。その先を想像する度、絶望感に苛まれる。 彼らの両方と血の繋がる存在があれば、啓子は二度と省みられない。一人娘であるはずの啓子は、彼らにとっては、負い目を感じさせるだけの忌々しい者。今の境遇がまざまざと物語っている。厄介払いしたいのだと。 「時間がない……」 迷いを振り払え――! 啓子は全速力で走り出す。 決意を固めろ――! 部屋に飛び込んで必要な道具を掻き抱き、一目散に林へと向かった。 未来に今以上の願いは、無い。 これが最後の儀式だ。 杏子の儀式の鮮烈さが薄れた頃、漸〔ようや〕く効き目が表れたらしい。血相を変えて部屋に飛び込んできた従妹の様子に、啓子はほくそ笑んだ。 「啓ちゃん、どうしよう! アイツが!」 「望みが叶ったでしょ?」 杏子が一瞬、啓子を睨んだ。 「何言ってんの、啓ちゃん。アイツ、死んだんだよ。朝、ベッドの上で死んでるのが発見されたんだって! 原因不明だって!」 「望み通りになったじゃないの。明日から虐められないよ」 「あたし、そんなこと望んでない! ちょっと怪我をすればいいと思っただけなんだから」 「杏ちゃん!」 啓子の一喝で、杏子がたじろぐ。 「あんた、呪いをなめちゃいけないよ。念が強ければ、それだけ呪いの力だって強いんだ。こうなるのは薄々でも想像できたんじゃないの? 今更びびったってどうしようもないんだからね」 「でもっ……死ぬなんて……」 「杏ちゃん、気を確かに持たないとダメだよ。弱みに付け込んで呪いが撥ね返ってくるから」 「えっ!!」 「あんたずっと怯えてたよね……もう――手遅れかもね」 杏子の顔つきが明らかに変わった。追い詰められた手負いのネズミにも似て……。 「撥ね返るって――どうなるの?!」 「よく言うでしょ、『人を呪わば穴二つ』って。つまり、呪った相手と同じになる」 「そんな! ――嫌よ! あたし死にたくない! どうにかして!!」 「無理よ。呪ったのはあんたなんだから」 意地悪ではなく、個人の心が齎す作用は、啓子の手に負える問題ではない。期待させても無駄なことは、はっきり言ってやった方が良い。 杏子は泣き続けた。「死にたくない――死にたくない」と繰り返して。やがて声が涸れ、嗚咽も尻窄まりになった。だが、震える肩先が心の乱れを執拗に訴えている。 ――杏ちゃん、大丈夫。あんた一人じゃないからね。 床に崩れ込んだ杏子の身体を抱いて、啓子は心の中で慰める。何度も、何度も。 望まず穴に堕ちる者。 望んで穴に堕ちる者。 最後の儀式の夜、啓子は最大の呪いをかけた。愛する者を奪われるのが、どういう気持ちかを思い知らせてやるために。 己の命と引き換えにして―― 呪いが成就する暁には、父は二人の家族を失うのだ。 いや――もしかしたら、もう一人いるかも知れないけれど……。 −Fin−
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