こえなきこえ
声なき声
短篇道場ロゴ
 ――誰か私に気づいて……
 ――誰か私を見つけて……
 
 嵐の夜、山に入り込んだ男女二人。
 正しくは、嵐の中を入り込んだわけではなく、途中から天候が崩れたのだ。山の天気が変わりやすいのは充分承知していたのに。軽い登山のつもりだった彼らは、為す術もなく、道に迷ってしまった。
 辺りは闇。足場が危うい。頼れるものは心もとない懐中電灯のみ。それも激しい風雨に揉まれて、どれだけ通用するのか。
 せめて、嵐が過ぎ去るまで凌げる場所さえあれば……。
「大丈夫か、俺から離れるなよ!」
「もう……もう、歩けない!」
「ダメだ! 諦めるな!」
「でも……足が……」
「前に来た時、この近くに山小屋があったはずなんだ。何とかそこに辿り着ければ……」
 しかし、声を出すのも息苦しい。この最悪の状態で、薄暗がりに目的地を見出せるとは思えない。
 横殴りの雨が体力を奪う。冷え切った身体が感覚を失っていく。見渡す限り水のベール、何処を歩いているのか。固く握り合った掌だけが、生きていると実感させた。
「だめよ、もうだめ! あたしたち、ここで死ぬんだわ!」
「馬鹿なことを言うな!!」
 両手で彼女の肩を掴み、彼は荒々しく揺すった。唯一の灯りを落とさないよう注意して。やがて、啜り泣く彼女をしっかりと抱き締め、落ち着かせるために背中を撫でる。懐中電灯の黄色が、でたらめに揺れた。
「あれは――」
 彼は見つけた。ぼんやりとした光の輪に、煌々と浮かび上がる物を。
「――やった……助かった……」
 彼が動くと、しがみついたままの彼女も素直について来た。先ほど見つけた物の前に立ち、彼は大きく頷く。
「やっぱり間違いない。前に見たのと同じだ。この道標の側に山小屋があったはず」
 もう迷わなかった。
 彼らは、確かな足取りでぬかるみを踏みしめ、程なくして、生き延びられる場所に転げ込んだ。
 暖と休息、僅かばかりの水と食料。疲れきった彼らには、他に何も必要はない。ただただ口にし、炎の恩恵を受け、泥のように眠ることができれば――。
 目を覚ますと、扉を叩いていた風雨が消え、安物のガラス窓から朝陽が差し込んでいた。夜が明けた。まだ生きている。
「空さえ明るければ道がわかる……行こう」
 出てすぐのところに、ぽつねんと、傾いた道標が佇んでいた。生い茂る樹木や雑草に半ば埋もれ、それでも懸命に山小屋の在り処を示している。
「こいつのお蔭で俺たちは助かったんだ。命の恩人だ」
「ええ。きちんと立て直して、お掃除もしてあげましょうよ。このまま放っておくと木々に埋もれて見えなくなるわ。あたしたちみたいに迷った人が困るといけないから」
 彼らは、道標の汚れを丁寧に拭い、真っ直ぐに立て直して足元を石で固めた。見晴らしを良くするために、周りの枝葉も適度に薙いだ。
「これで何処からでも目立つぞ。誰も見過ごすことはないな」
「ありがとう、命の恩人さん」
 彼女がそっと、道標の脇に一輪の花を添えた。感謝の奉仕を終え、彼らは満足感を胸に歩き出す。
 ふと、何か聞こえた気がして二人は立ち止まった。
 振り向くと、朽ちかけていた道標が木洩れ日に輝き、俄かに息を吹き返したように見えた。
 私もまだ役に立つのだ――と、嬉しげに、誇らしげに。
−Fin−
【萬語り処】 ← 感想・苦情・その他諸々、語りたい場合はこちらへどうぞ。 水の書目録へのボタン 出口へのボタン