めいわくなだいや
迷惑なダイヤ
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 光が凝縮された鉱石の中に、天使と悪魔が棲んでいた。
 青味を帯びた巨大な宝石は、数多〔あまた〕の人生を彩り、数多の人間たちを不幸に陥れてきたという。
 それも道理。宝石の中に巣食う連中が無類のギャンブル好きなため、持ち主や周りの者の行く末を、すぐにルーレットで決めたがる傾向にあるからだ。
 さて、このところ何事もない日々が続いていたせいか、そろそろ退屈の虫が騒ぎ出してきたらしい。よせば良いのに、またぞろ一勝負始めようとしている。
「けっ、気に入らねえ。ここに来てからおまえの一人勝ちじゃねえか」
 と、悪魔が毒づくと、
「ふっ、所詮実力が物を言う。私の方が君より上だといい加減思い知りたまえ」
 と、天使が嘲笑で返す。
「やるか!」
「望むところだ」
 天使が眉を動かすと、彼らの間にあるテーブルでルーレットが軽やかに回り出した。加速度がつき、赤と黒が判別できなくなったと見るなり、悪魔が派手に指を鳴らす。何もない空間から湧いた小さなボールが回転するホイール上に、落ちた。
「赤の三十二だ」
「ブラック」
「またアウトサイドの低倍率か。赤黒の二択なんざ芸がねえぞ。少しは冒険してみろってんだ、天使さんよぉ」
「インサイドは高倍率だが当たらなければ意味がない。君のような賭け方では無謀の極みだな」
「なんだと!」
 気色ばむ悪魔を、天使は静かに制した。ホイールの回転が緩やかになり、ボールがカラカラと身の置き場を決めかねている。仕方なく、悪魔は浮かしかけた腰を落とした。
「黒だ」
 白いボールは天使の言葉通り、黒の二十で止まった。
「げっ! また俺の負け? マジかよ……」
「シングル一点張りだから臍〔ほぞ〕を噛む結果になるのだ。コーナーでもラインでも滑り止めを用意しておけば良いものを」
「ふん。俺の賭け方にケチつけんじゃねえよ。賭け事なんざ時の運だ、勝つときゃ勝つし、負けるときゃ負ける。それに、おまえが勝ったところで生温いだけだが、俺が勝った日にゃあ歴史が変わって痛快だろうが」
 天使があからさまに嫌な顔をした。言葉もなく辟易した視線を投げかける彼に、悪魔は続けて言い放つ。
「そりゃ何故か、ってぇと倍率が高いからだ。その分、外側に作用できる力を手に入れられるからな」
 確かに。悪魔がうっかり勝ったがために、時の持ち主たちは滅法どえらい目に遭わされてきた。十八世紀に、倍率三十五で連続勝ちした暁には、フランスの命運が引っくり返ったほどだ。
 三十五倍が狙えるのは色と数字を限定するシングル・ナンバーだけ。歴史の大変革に酔い痴れて、悪魔はそれ以来、病みつきになってやめられないのだ。
「おまえさんの賭け方じゃ世界の歴史は変わらねえぞ。一度くらいシングルで勝ち逃げして、ローマ法王を世界征服者にでもしてみたらどうだ? さぞかし平和な世の中になるだろうよ」
「口を慎みたまえ」
 互いに身を乗り出し、天使と悪魔はたっぷり五分間くらい睨み合った。口元からキリキリと薄ら痒い音が洩れる。が、
「次、行くか」
 という悪魔の一言を機に、何事もなかった素振りで席についた。
 再びルーレットが踊り出す。
「次は……そうだな、黒の三十五だ!」
「イーヴン」
「今度は偶数ってか。無難な線から抜け切れねえ奴だなぁ。面白くもねえ」
 お手上げという動作の後で、悪魔は指を鳴らし、主役を呼ぶ。白い小さな塊がホイール上で楽しげに身をくねらせている。ボールのダンスがなかなか終わらないためか、彼は拳でテーブルを小突き始めた。
「君は少し落ち着きというものを学んだ方が良い。ここの安穏な生活を手に入れるまでは、随分君には振り回された。無駄な時を過ごしたものだ」
「無駄だと! はっ!」
 どうやらこの悪魔は血の気が多い。激しくテーブルを叩いた反動で立ち上がり、小憎らしく頬杖をついたまま首を傾けている天使を睨みつけた。
 怒る相手を尻目に、衝撃で少し鈍った回転舞台を、天使は落ち着き払って見つめている。足取り軽いボールがやがて踊り疲れた頃、彼の口の端に薄い笑いが宿った。
「偶数だな」
 皿も負けるほど丸々と目を見開いた観客の前で、赤の三十六番に納まる白い姿が、カタリとお辞儀をした。俄かに脱力した悪魔は椅子にくずおれる。
「……ちくしょう」
 天使が追い討ちをかけた。
「無難な線も悪くないだろう。勝率なら私の方が圧倒的に高い。不当な細工を加えたところで君に勝ち目はなかったしな」
「不当な細工とは聞き捨てならねえ」
「回転中に振動を加えたのは不当ではないのか? 私は寛大だから大目に見てやるが」
 悪魔は、ぐうの音も出なかった。
 奴を遣り込められたと悟った天使は、冷静に挑発を開始する。いつもなら、彼の作戦に陽動された悪魔が熱くなりすぎて正常な判断力を失うのだ。パターン化されているとはいえ、単純な輩にはこいつが一番効く。
「元いた場所から盗み出されたのは致し方ないとして――」
 瞳には憐れみを、口先には嘲りを含ませ、悪魔が最も嫌悪する慈愛に満ちた微笑で、天使は穏やかに話を続ける。
「君は持ち主に過剰な理想を抱きすぎるのだ。商人が気に入らないと王族に乗り換え、興を失えば、宝石商やら実業家やらの間を転々と渡り歩く。挙句の果て、面白半分に落馬させたり自殺させたりするから、持ち主たちは堪ったものではなかろう」
「けっ! 奴らの生き死になど知ったことか! 私利私欲に駆られて、この惑星〔ほし〕を踏み躙る虫けらじゃねえか。情けをかけてやる暇があったら、世界を面白可笑しく作り変えてやりゃあいいのさ。奴らだって、内心ではそれを望んでやがるんだからな」
「おやおや横暴なものだ。君の言う虫けらがいるから、この世界に彩りが生まれるのではないか。彼らがいなければ君もさぞかし所在無いに違いない。少しは彼らの存在を有難く受け止め、偶には褒美を与えるくらいの大らかな心を持ちたまえ」
 これには悪魔も徹底的に頭に来た。何の因果で人間などに感謝しなくてはならないのだ! ――と、腹の底から煮え滾りながら強引にルーレットを動かした。
 最初からスパートをかけるホイールに、無言のまま指を鳴らせて白い玉を叩き込む。ボールは息せき切って走り始めた。乱暴に、容赦なく、激しい回転に翻弄されていく。
 まんまと悪魔は策略に嵌った。愚かにも無謀な賭けを繰り返すに相違ない。
 天使はほくそ笑み、
「レッド」
 飽くまでも無難な賭けをキープした。
 苛々と爪を噛み締めながら、それでも努めて沈着に、悪魔は考えを巡らせていた。
 これ以上負けが込むのは性に合わない。何が何でも今度こそ勝って、この隠居めいたぬるま湯生活から足を洗ってやるのだ。
 満を持して、低い声で告げた。
「黒の二十」
 そして彼は、実に悪魔らしい邪な相貌〔かお〕で天使の瞳を覗き込む。キヒヒヒヒ――口元からは総毛立つ、おぞましい息を洩らして。
 カラカラと忙しないボールの足音、背筋を引っ掻く悪魔の軋み声。天使は急降下で最悪の不愉快さに達した。天使得意の慈愛に満ちた微笑を悪魔が嫌うのと同じく、悪魔特有の邪悪に満ちた笑い顔は、天使が何よりも忌み嫌う悪魔の表情だった。
 相手を睨み据え、天使は歯噛みする。姑息な心理攻撃に対して毅然とした態度で念を送った。あらん限りの力で。負け犬の遠吠えは迷惑だ――と、言わんばかりに。
 しかし最も迷惑を蒙〔こうむ〕っていたのは、誰あろう、彼らに居候を決め込まれたダイヤ自身だった。静謐〔せいひつ〕を好む隠遁主義なダイヤは、流転の生活にほとほと嫌気が差していたのだ。
 悪運の始まりは、偶然にも何処ぞの農夫に掘り出され、積年の眠りを無理やり覚まさせられた時から。見事なブルー・ダイヤだったのも不幸の一端を担っている。それが災いして神像の額に埋め込まれ、有難い像に引き寄せられた天使と悪魔に押し入られてしまった。
 そこからは転落の一途。頼みもしないのにカッティングされ、一回り小さくなっても放浪の旅は終わらなかった。
 ダイヤには為す術がない。ダイヤは有るがままに存在するだけだから。不本意にも微々たる意思は捻じ伏せられ、うんざりするほど長い時代を彼らの好き放題にされてきた。
 何ができよう、ダイヤに。祈るくらいしかできない非力なダイヤに。
 そこで今も祈ることにした。
 ――天使様、お願い勝って!
 ――この安定した生活を手放したくない!
 天使と悪魔が視線を戦わせている間も、白いランナーは大ダッシュを続けていた。ぜいぜい息を吐きながら。ダイヤはやはり祈るのみ。
 ――お願い天使様! 絶対に勝って!
 ――悪魔なんかに力を渡さないで!
 そろそろゴールが見えてきた。ホイールの音が微妙に変わり、蛇の目に並ぶ赤と黒が分離していく。ダイヤは必死で祈り続けた。
 ――お願い、お願い、天使様!
 ――ボールよ、赤に! 赤に!!
 息も絶え絶えの白い玉が、二度三度跳ねて終着地点に転がり込んだ。天使と悪魔が一斉に眼差しを貼りつける。彼らの顔色がみるみる変わっていった。
「なっ……」
「やったぜ、ざまあ見ろ!!」
 驚くべきか、べからずか、ボールは黒の二十で力尽きていた。何という運命の悪戯だ。およそ半世紀近くもの間、悪魔は一度たりとも勝利を収めたことはなかったというのに。名残惜しげに惰性で回るホイールが、天使を嘲るかの如く。
「ば、馬鹿な……」
 天使がゴクリと息を呑み、悪魔は嬉々として立ち上がる。
「ハーッハッハッ、ざまあ見やがれ今度は俺の番だ! 思う存分、世界を引っ掻き回してやるぜ、虫けら共め! あんまり久し振りなんで腕が鳴るってもんだ。ハーッハッハッハッハッハッ!!」
 愕然と蒼ざめる天使とダイヤの前で、悪魔の邪悪すぎる哄笑は、執拗に轟き渡った。
 もはや三食昼寝つきの安穏な暮らしは、残忍で横暴な悪魔の手にもぎ取られたのだ。天使は唇を噛み、悔しさに震えている。哀れなダイヤは衝撃の余り倒れ伏した。
 そして一言、ポツリ。
 ――バカァー! 天使様ったら、肝心なところで役立たずぅ〜!!
 
 数日後――
 世界的に有名な博物館から、世界的に有名な呪われたダイヤが、世界的に有名な怪盗によって盗み出された。
 その後の行方は杳として知れない。
−Fin−
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