もん
夜歩きが好きだった頃ロゴ
 昔、住んでいたアパートも、こんな静かな住宅地にあった。かの建物の裏手は墓場。必要以上に静かだったのも、なるほどと頷ける。
 残念ながら今時の住宅地では、あちらの世界の者との共同生活は考えられないらしい。裏手が墓地という建物はおろか、近所に墓所らしき空間は影も形も見当たらない。そんなに永眠の住宅地を疎かにして良いものだろうか。いずれは住民の仲間入りをする日が来るというのに。
 私には彼らを粗末に扱えはしない。彼らは私の旧知の友。属性が同じだからだろうか。彼らが古巣で和む気配を感じると、私も共に和んでしまうのだ。人々が、暖かい我が家で団欒(だんらん)を味わうのと同じように。
 ふと一軒の家が目に止まった。門の傍らに蹲る小さな影。ほとんど身動きをしないが……
 私は徐に近づいていく。少しずつ、影の実体が明らかになる。小さな影はその場を全く動かないが、気配に気づいて顔だけは上げた。行儀良く座ったつぶらな瞳の小犬。茶色い短い毛並みと、ピンと澄ませた三角の耳。こちらを見て、ひどく寂しそうに鼻を鳴らせた。
「おまえ、捨て犬か?」
 小犬は顔を逸らせた。
「そうか、この家の飼い犬か。御主人様の帰りを待っているんだな?」
 今度はこちらを見上げ、鼻を鳴らせた。
 私は家を見る。どう見ても空き家になってから何十年も経っていそうな様子だ。その間、この小犬は独りで主人の帰りを待ち侘びていたのか。既に主人も還らぬ者となっているだろうに。
「おいで。旧知の友」
 小犬は素直に私の側へ来た。抱き上げる。空気のように軽い。それが小犬の運命を物語っていた。彼はきっと、主人が迎えに来なければここから解放されたりはしないのだ。永遠に……
「おまえ、名前は?」
 小犬が私を見つめている。
「ポチか? ハチか? タロウ?」
 違う、と言いたげにそっぽを向いた。
「コロ」
 とたん、嬉しそうに鼻を押しつけてくる。この犬はコロという名らしい。今では呼ぶ者もいないだろうに。余りに彼が喜びを表現してくれたので思わず情が移る。そっと抱え、門の階段に座り込むと、膝に乗せ両腕で包み込んだ。愛らしい二つの瞳はもう二度と主人に甘えることはできない。少しだけでも代わりになるならと、無言で彼を抱き続けた。
 と、何処からともなく靴音がする。女の足音だ。それはこちらへ近づいてくる。闇の中に物悲しく、虚ろに響き渡る細い足音。ゆっくりと、ゆっくりと、この家に近づいてくる。
 俯いた私の視界に女の足先が入り込む。見上げると、中年過ぎの、どちらかと言えば老齢に近い女が佇んでいた。懐かしい眼差しで古びた家を見上げ、少しずつ視線を落として、やがて私の腕の中を見た。女の口元が緩んでいく。だが、すぐに顔を曇らせ小犬から目を背けた。肩が震えている。泣いているのか。
 コロが私の腕でもがいた。鼻を鳴らせているのか吠えているのか中途半端な声を上げ、しきりに目の前の女に視線を据えている。この女が彼の主人なのだろう。と言うことは……
 彼女も旧知の友か。
「この犬は、ずっとここであんたの帰りを待っていた。何故、今まで帰ってきてやらなかったんだ?」
 一瞬、女の肩が動きを止めた。振り返り、こちらに向ける眼差しは疲れ果て、顔には気苦労の証が深々と刻まれていた。女は声を出さずに忍び泣いている。時折すすり上げる音が、コロの甘える鼻音と共鳴した。
 あちらの住人になって間もないわけではないだろう。一つ所に縛られていない様を見ても、長い間あちこちを彷徨っていたに違いない。何故、すぐここへ戻ってきてやらなかったのだろうか。お互いが擦り切れる前に、明るい場所に、共に旅立てたはずなのに。
「あんたがもっと早く迎えに来ていれば、この犬は、こんなに影が薄くなったりはしなかった」
 私はそっと、足元にコロを下ろす。彼はまっしぐらに主人のもとへと走っていった。
「コロ……コロ……!」
 女はついに声を上げ泣き始めた。足に纏わりつく小犬を悲しげに見つめながら。
「許して……許してちょうだい、コロ。ごめんね。おまえを置き去りにして行って。辛かったろうね。可哀想に……身勝手な母さんを許しておくれ……」
 力なくその場にくずおれる。コロはただ、泣き崩れた主人を励まそうと、懸命にその手を舐め続けていた。それが一層苦しいらしい。女の涙は止め処ない。
「置き去りにしたとは、どういう事だ?」
 俯いた姿勢は変えない。消え入りそうな声で女は言う。
「……主人の会社が倒産し、この家を手放さなくてはならなくなりました。その頃には息子も娘も成人しておりましたから、私たち夫婦が何とか暮らせる場所を探して引っ越す事にしたのです……漸く見つけた場所はアパートで、犬を飼う事は許されなかった。仕方なく息子か娘にコロを引き取ってもらおうと思ったのですが、二人ともマンションで暮らしていて、やはり犬は飼えませんでした。……だから、この子を……」
「置き去りにしたのか?」
「いいえ……知り合いに引き取ってもらったのです。余り親しくもない人でしたけれど犬を飼いたいと言っていたのを思い出して……だけど、私は良く知らずにその人にコロを預けてしまった。その人はすぐに犬に飽きてしまって、コロを捨ててしまったのです……この子は迷わずここに戻ってきて、私と主人の帰りを待っていた。何日も、何日も……近所だった奥さんに教えていただいて私はその事を知っていたのです。時折様子を見に来たりもしました……でも、私は、コロを連れては行かなかった。見捨てたのです! この子がある雪の朝、門の階段で冷たくなってしまうまで……いいえ、今まで……何一つしてあげなかった……この子がここにいたのを知っていながら……」
 女がしゃくり上げたため言葉が途切れた。コロは不思議な顔で、懐かしい主人を見つめている。
「何故、長い間彷徨っていた?」
 虚ろな眼差しが私を見上げる。弱々しい光が不安を言い表していた。女は喉を震わせ、声を絞り出した。
「恐かったのです……この子が私を恨んでいるに違いないと思って……恨まれるのが恐かった。憎まれるのが辛かった……そうされてもしようがない事をしておきながら、それでも、失望するのが恐くてここに戻ってこられなかった。無責任にこの子を見捨ててしまったくせに、それでもこの子に慕われていたかったのです」
「身勝手な話だな」
 諦めの色が女の瞳に宿る。涙はいつの間にか枯れ、彼女は静かに俯いた。一切を捨て、一切を受け入れる。女はそんな心境になっていたのかも知れない。
「わかっています。何を言っても言い訳にしかならない。人は身勝手な生き物ですね。自分の為なら結局は弱い者を犠牲にしてしまう……どんな罰でも受けましょう。この子を不幸にしてしまったのですから……」
 殊勝な心掛けだが、そんな決心を私に話したところでしようがない。
「勘違いされても困る。私には何をしてやる事もできない。それに興味もない。あんた罰を受けると言うが、あんたはここに戻ってきた。結果的には戻ってきたんだ、その犬を見捨てられずに」
 茫然とした女の横でコロが甘えた声を出していた。主人の膝に身を寄せている。
「その犬はどうだ? あんたを恨んじゃいないだろう、その様子を見れば。ただ主人を待っていた。そしてやっと主人が帰ってきた。それだけの事だ。罪だの罰だの関係ない。あんたたちはやっと、二人揃って行くべき場所へ行けるようになったんだよ」
「私たちは……」
「呼ばれる方へ行くといい。もうここに用はないだろう。お互いの望みが叶ったんだから」
 女は微かに笑い、立ち上がる。そっと小犬を抱き上げた。コロは主人の胸で安らかに目を閉じる。求め続けた安らぎの場所にやっと辿り着いたのだ。
 彼女は空を見上げた。何処かで光の蠢く気配がする。二人はそこへ向かっていくのだろう。そしてまた、この町から旧知の友がいなくなる。
 
 その夜。闇が背中で、旅立つ友を見送っていた。
−Fin−
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