がいとう
街灯
夜歩きが好きだった頃ロゴ
 夜更けて、街灯が町に瞬いている。
 昔、住んでいたアパートの側にも、古びた街灯が立っていた。裏にある墓地の入口のすぐ側。面倒臭げに佇む街灯は、面倒臭げに墓地の住民たちを見ていた。
 彼らは私の旧知の友。裏と表に住むご近所さんだ。
 今となっては夜を漂う彼らにも、明るい光の下、様々な人生があった。喜びも、悲しみも、苦しみも、数々に経験していたはずだ。遂には闇の中の安らぎを手に入れた者たち。私と同じで闇に愛されている。属性が同じということは、わかり合えるということだ。
 闇を求めて夜を歩くのが私の日課。生きるものが寝静まり、しん、と更ける夜は、一日のうちで一番心が落ち着く時。夜や眠りが、昼間に削り取られるパワーを取り戻してくれるのだ。近頃の町は全くの闇を失ってしまったが。
 一昔前は、こんなにも街灯の数はなかっただろう。一つの光が途切れる前に次の光が重なってくる。闇が忌々しく光の筋の合間を縫っている。そこに蠢くモノも、時折、光の中に見え隠れする。そう。あの、角に立つ街灯の側に、何気なく隠れながら佇む男のように。
 彼も旧知の友か。
 真剣な面持ちで傍らの旧型マンションを見上げる男。眼鏡をかけ、きちんとしたスーツを着込んでいる様を見ても、生真面目で朴訥(ぼくとつ)な印象を受ける。容姿は四十代のサラリーマン。会社での地位は部長か課長といったところか。
 何があると言うのだろう。男はマンションから視線を外さない。その先にあるのは灯りの消えた三階の窓。カーテンも掛かっていない。磨りガラスの向こうは無表情な黒だけだった。
 この古ぼけたマンションには、既に余り住人もいないようだ。見たところ、カーテンの色彩を映す灯りの点いた窓など数えるくらいしかない。男の見上げる窓も、主を失った哀れな部屋なのではないかと、私にはそう思えた。
 だのに男は黙って窓を見上げている。男がその部屋の住人、もしくは住人だった人間を知っているのは想像に難くない。興味が湧く。他人の事などどうでもいいのに、時々、訳のわからない好奇心が私を支配する。
「知り合いの部屋か?」
 男は穏やかな口調で返す。突然声をかけられたことには、少しも驚いてはいない。
「全てを捨てて愛した女の部屋です」
 全てを捨てた……結果が急速に姿を現した。だから彼は、この期に及んでもここに縛られなければならないのか。
「そんなに良い女だったのか?」
 男はすぐには答えない。中年の表情に、少年のような切なさとひたむきさが現れた。彼は口を開く。穏やかで沈んだ口調が、闇の中に溶け込んでいく。
「……少なくとも、私にとっては……」
 痘痕(あばた)も靨(えくぼ)と言う。他人にとっては大した価値ではなくても、この男にとっては最高評価なのだ。だが、今となってはその女もここにはいない。いや、住んでいたとしても既に男の年齢を越えているだろう。男はここに縛られてから随分になるはずだ。男がいなくなってから、当たり前のように結婚し引っ越していったとしても、誰に女を責めることができようか。女にとってこの男は遠ざかった古い出来事に過ぎないのだから。
「未練だな」
 男は黙って頷いた。自分がしている行為の理由を、多少なりとも自覚してはいるらしい。
「女はあんたを失ってから、綺麗さっぱりあんたを忘れてしまっただろうさ。たとえ忘れられなかったとしても、忘れようと努力し諦める事に徹しただろう。そうしなければ生きていけない。それが昼を生きる者の宿命だからな」
 男は黙って首を振った。いったい何に対して首を振ったのだろうか。
 やがて男が口を開く。闇に沈み込む暗い声。男は独り言とも取れる口調で、呪文を呟く魔術師の如く、静かに、長々と語った。
「いいえ……いいえ、彼女は最初から私を愛してなどいなかったんですよ。私にもそれはわかっていた。それはそうでしょう。二十も年下の若く美しい女性が、こんなくたびれた男を本気で相手にする訳がない。……忘れるどころか、私がいなくなってせいせいしたに違いない。彼女が私にいなくなれと言ったのですからね……」
 自嘲気味な溜息が微かに流れた。
「ほんの気まぐれだったのでしょう、彼女にとっては。公園で独り寂しく、買ってきた弁当を食べるやもめ男が珍しかったのか、興味本位で情けをかけてくれたんですよ、きっと。ある日、手製の弁当を抱えて私の隣に座ってね、『交換しませんか?』と声をかけて来たんですよ。驚きましたね、そりゃあ。私のような中年男に、声をかけてくれる若い娘というだけでも驚きなのに、彼女は私の為に弁当をこしらえて来たと言ったのですからねぇ」
 闇に溶ける溜息が、一層微かに響いた。
「私はすぐ彼女に夢中になりましたよ。娘ほども歳の離れた女性。身の程知らずとはわかっていました。……彼女がどういうつもりだったのか今では良くわかりません。毎日のように弁当を携えて、時には昼休みギリギリまで話し込んだりして……束の間でも楽しかった。楽しい時間をくれた御礼に、彼女を夕食に誘い、プレゼントもしました。心から喜んでくれているように思えましたよ、私には。その夜、彼女は私を部屋に誘ったのです。あの、部屋にね」
 男が視線で指し示した。あの三階の暗闇。
「彼女は私に抱いてくれ、と言いました。そんな事、できる訳がない。私はそんなつもりで彼女と付き合っていたのではなかったのです。拒んだ瞬間、彼女が見せた恨みがましい眼差し……。けれど、私たちはそれからも昼休みに語り合い、時には夕食を共にし、誕生日やクリスマスにプレゼントを贈り合い……前と変わりのない、ささやかな交際を続けていたのです。彼女は何も変わらず優しかった。私は彼女と会って話をするだけで良かった。私といる時に笑ってくれる、彼女の笑顔を見られるだけでいいと思っていたのです。……それ以上は望まない。それ以上は望めませんよ。彼女は前途ある若い娘。だから、彼女がもう二度と会いに来ないで、と言えば、本気でそうするつもりでいたのです。……ある夜、彼女が別の男といるところを目にするまでは……」
 暗闇の窓に吸いつけられたのか、男の視線は全く動かない。最初とまるで変わらないペースで独白は続いていた。
「街で偶然会ってしまったのです。彼女は酔って、連れの男にしな垂れかかっていた。相手の男は私と変わらないぐらいの歳でした。端から見てもとても親しげに見え、昨日今日の付き合いでない事はすぐに理解できました。ショックでしたよ。若い青年ならともかく、相手は私と変わらない……もしかしたらそれ以上の年齢の中年男でしたから……。私は気づかない振りをしようと思った。でも、声をかけてきたのは彼女の方からです。彼女は男にしがみつき、私を嘲るようにこう言った。『あんたみたいに使い物にならない男はもういらないのよ!』と」
「使い物にならない……?」
「ええ。こうも言いました。『私を女と見ない男なんて男じゃない。そんな役立たずは私と付き合う資格なんかない!』と……。その時、初めて気づいたのです。私が彼女を拒んだ事が、彼女の女としてのプライドを激しく傷つけていたのだと……」
 男はやっと視線を下ろし、両手で顔を覆った。
「その女、やっぱり本気であんたに惚れてたんだな」
「そうでしょうか……? 私はもう少し冷静にならなければいけなかった。彼女の望みを聞いてやろうと思っていたのに……彼女の言葉にどうしようもなく腹が立って、相手の男が見ている前で、私は彼女を殴りました。彼女は泣きながら叫んだ。私に向かって。『二度と会いたくない、あんたのような男! 早く目の前から消えてよ! この世からいなくなってよ!』……私は……私はだから……彼女の望みを叶えてやらなければならないと……それが、彼女を傷つけた償いだからと……」
 男の言葉が途絶えた。
「あんた馬鹿な人だ……その女、きっと心とは裏腹な事を言っていたのだろう。あんたに拒まれた腹いせに、つまらない男と付き合っていただけだ。それに気づいてやれなかったあんたは、何て愚かな事をしてしまったんだろうな」
「そうでしょうか? ……本当に……本当に、彼女は私の事を……?」
「腹いせに選ばれた男が、あんたと変わらない年頃の男だというので証明されているだろう?」
「そんな……」
 力なくその場に男は崩れる。また、三階の窓を見上げていた。
「どっちにしろ、その女はもういない。真相を教えてくれる者は今となっては誰もいない。あんたは待つしかないだろうな。女の心が変わらなければ、あんたに引き寄せられるだろうさ。だか、そうなるかどうかは誰にもわからない。ここで待ち続けるか、呼ばれる方へ行くかは、あんたが決める事だ」
 男は飽きもせず、窓の暗闇を見つめ続けている。もう話は尽きてしまったようだ。私は徐に歩を進め、男の前を通り過ぎた。街灯に照らされた影が揺れる。次の街灯が足早に影を走らせた。
 ふと振り返る。男がいた辺りの街灯はとても古ぼけていた。苦しげに点滅を始めている。その闇と光が交互に繰り返す空間に、やはり男は佇んでいた。古ぼけたマンションを見上げながら。
 
 その夜。闇が力なく、ゆっくりと目を閉じた。
−Fin−
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