えいがかん 映画館 |
墓場の表がアパート。昔そういうところに住んでいた。 窓から覗く暗い夜の墓場は、いかにも恐ろしげに見えるが何のことはない。そこらに漂う者たちは、元は明るい光の下を闊歩していた人々。肉体を失って闇が好きになっただけだ。 彼らと同じく私も闇が好きだ。属性が同じためかも知れない。闇は深ければ深いほど良い。身を投じれば安らぎが得られる。 闇で出遭う者たちは、私にとっては旧知の友。或る者は場所に縛られ、或る者は辺りを漂いつつ決して思い出を忘れはしない。墓場の住民たちと同じで初対面でもしっくりと来る。古い馴染みの場所のように。 古い馴染みの場所と言えばここもそうだ。随分と昔に建てられた旧式の映画館。町中に在りながら闇が濃い。闇を失った町にしては珍しい建物だ。 重い扉を押す。 スクリーンが瞬き、褪せた映画を映している。とても古い映画だ。当時流行った恋愛物だろうか。客席を見ても誰もいない。そうだろう。常連は私だけだ。と言っても映画を観にきたわけではない。建物も闇も、私を暖かく迎えてくれるからだ。 真ん中の真ん中。いつもの席に腰を下ろす。長い間身じろぎもせず、そうしてスクリーンの裏に潜む闇の声に耳を傾けるのだ。至福の時。私は愉悦の溜息を洩らした。 その日はいつもと時間がずれていた。そのためか、私以外の常連がいたらしい。突然、覗き込んでくる小柄な影。小さな声を洩らすと丁寧に頭を下げてきた。 「ごめんなさい。人違いでした」 女はそう言うと淋しく目を伏せた。いや、女と言うよりはまだ少女だろう。中学生か、高校生か。ピンクのカーディガンにピンクのロングスカート。肩より長い素直な髪に、小さな赤いピンを幾つも綺麗に留めていた。斜めに下げたポシェットも赤。赤い靴はピカピカに磨き上げられている。これからデートといった様子だ。 しかし、こんな時間にこんな寂れた場所で、こんな少女に何の用があると言うのか。 ああ、そうか。 彼女も旧知の友か。 納得する私の隣に彼女は座る。聞きもしないのに言葉を繋げていた。 「ここで人を待ってたんです、ずっと……」 過去形だ。 「それで?」 闇の声を妨げられるのは好まないが、気まぐれに相槌を打ってしまった。 「彼は来ませんでした。ずっと待ってたんだけど……」 語尾が消えていく。 「何故?」 「来れなかったんです、火事に巻き込まれて。とうとう会えなかった」 「火事と言うと?」 「亡くなりました、彼。最後に会えたのは、ここで会う約束をした日でした」 意外な答えだ。私の勘違いだったのか。 「何故こんなところへ来た? 彼はもう来ないのだろう?」 少女は私を見て笑った。その瞳には涙が浮かんでいたが。 「わかりません。わからないけど、ここに来ればいつか彼に会えるような気がするんです。まだ彼が生きていて、私との約束を忘れずに来てくれるって、そう思えてならないの……気休めにしかならないけど。だからここに来てしまうんです」 ポシェットからハンカチを出して涙を拭う。懸命に笑う姿がいじらしい。 「想いが強過ぎると、彼を繋ぎ留めてしまう事になるぞ」 「えっ?」 「遺された者の未練が、旅立とうとしている者を引き留めてしまう。逝くべき所があるのに逝けずに縛られてしまうんだ。余り良くない事だぞ」 「良くないって、どうして……?」 少女に視線を合わせず、スクリーンに目を留めたまま答える。 「逝くべき所に逝けないと彼は楽になれない。月日が経てば経つほど、苦しみは深くなる。それでも彼は留まるだろう、おまえが望むから」 「私のせい?」 「そうだ」 彼女は俯き、スカートの膝の辺りを握り締めた。ポツリと涙。膝にシミを作る。 「わかってるんです。わかってるけど止められない。彼にもう一度会いたい、どうしても会いたい、そう思うと足が勝手にここへ向かってしまうの。もう一度、彼に会えればそれだけでいいのに!」 悲しく震える声。丸まった肩も震えていた。だが私にしてやれる事はない。彼女自身の問題だ。 暫くして、顔を上げた少女が言った。 「帰ります。……でも、きっと、またここに来てしまうと思うけど……」 「仕方ないだろうな」 涙に濡れた瞳で、それでも彼女は笑った。 彼女の足音が遠ざかり、重い扉が閉まる気配がした。とたん、興が冷めてしまった。 私は立ち上がり、外へ出る。 ロビーですれ違う男。彼は突然、振り返り、訊ねてきた。 「あの、今、ここから出てきましたよね?」 頷く。 「その、もしかして、中に女の子がいませんでしたか? 中学生くらいの……」 そう言う彼も中学生か高校生だろう。まだあどけないところが表情に残っている。 「知り合いか?」 目を伏せて、くぐもった声で言う。 「僕の彼女です。……ここで会う約束をしていて、先に彼女が来ていたんだと思うんです。いつもそうだったから。で、火事に巻き込まれたんです。僕は間に合わなくて……」 語尾が消えた。 「死んだのか?」 言葉もなく頷く。彼の瞳から光る物が零れ落ちた。小刻みに震える肩。 「僕がもっと早く来てやれば良かったんだ。約束の時間にならなくったって、会えてさえいれば、こんなに後悔なんてしなかったんだ。僕がいれば助けてやれたかも知れないのに……」 「今さら言っても遅いだろう」 少年は目を見開き、少し怒ったように言う。 「だってそう思わずにはいられないんだ。ここで待ち合わせようって言ったのは僕だから。時間だって僕が決めた。あいつはいつでも僕に合わせてくれたんだ。その結果がこれだよ。後悔するなって言う方が無理だ。……この場所にしなければ、あの時間にしなければ、会えてさえいれば、僕が助けてやれたならって……! もう、遅いのはわかってるよ! でも、もう一度、会いたいんだ。会って謝りたいんだ、待たせてゴメンって……!」 拳を握り締め、薄黒くなった壁を叩く。血が滲んだが彼は止めなかった。 「ここに来ればきっと会えるって信じてる。彼女が何だろうが構わないんだ。あいつはあいつだから。あいつ以外の何者でもないから。だから、噂を聞きつけてここに来たんだ。それなのに未だに会えないんだよ……こんなに、会いたいのに……」 「そうやって繋ぎ留めてしまうのは良くない事だ」 「でも会いたいんだ!」 即答する彼には、もはや理屈は通じない。少女に会いたい一心で、今、ここにいるのだから。 「そうか。仕方ないな」 「あいつに会えるまで、僕はここに来るのを止めないよ。僕はまだ言ってない、あいつに。一度も言ってないんだ、好きだって……」 無言のまま彼を見遣る。ふらふらと漂う少年の姿。彼は扉を押し開け、中に入っていく。先ほどまで少女がいたはずの場所に。 彼を置いて映画館を出る。私の心に残る疑問。 彼女はやはり、旧知の友だ。だが、しかし…… ああ、なるほど。 彼も旧知の友か。 振り返ると、一瞬だが、炎が揺らいで見えた。 火を出したのは映画館。映写室が火元だったろうか。彼も彼女もその時いたのだ。確かにここにいて、でも会えなかった。出会う前に煙にでも巻き込まれたのに違いない。 もう一度会いたい、その想いだけで留まる二人。未だに出会えていないとは。肉体を失った時と同じ、何かが微妙にずれているのだろう。 このまま彼らはもう二度と会えないのだろうか。あれほどまでに惹き合っているというのに。だが、それは私の関知するところではない。闇のみぞ知る、だ。 その夜。闇が夜風の向こうで、くすりと笑った。 −Fin−
|
【萬語り処】 ← 感想・苦情・その他諸々、語りたい場合はこちらへどうぞ。 |