ろじ
路地
夜歩きが好きだった頃ロゴ
 昔、住んでいたアパートの、裏手が騒がしくなるとすぐにピンと来た。また、彼らが骨のもとへと舞い戻ってきたのか。
 そこは墓場。だのに陰鬱ではない。
 私は知っていたからだ。そこの住人たちが、偶にこうして酒盛りをする、いかにも陽気な連中だということを。改めて敬意を表して旧知の友と呼ぼう。
 彼らは害のない輩。闇をこよなく愛する者。同じ属性を持つからこそわかるのだ。私も闇をこよなく愛していた。
 闇を失いかけたこの町にも、そんな陽気な連中は数知れずいるのだ。彼らもまた、旧知の友。彼らはただ、夜を楽しんでいる。この夜を、この闇を、誰にも気兼ねなどせず、ひたすら楽しんでいたいだけなのだ。
 場末の酒場の路地裏は、思いの外、闇が濃い。置き去られたゴミたちと、ゴミを漁る野良猫たち。それ以外の大きな影が突如として蠢いた。
「よぉ、兄弟。やるかいぃ?」
 酔っ払いか。
 薄暗くて良くは見えないが、男は随分とくたびれた格好をしている。ボサボサの髪に無精ヒゲ。よれよれのスーツには照りも折目もない。目はどんよりと虚ろで、酒臭い匂いが彼を取り巻いていた。
 差し出すビンはウイスキー。しきりに勧めてくるのを丁重にお断りした。
「なんでぇ。飲めねえのかよぉ、だらしねえなぁ」
 彼はそう言うとビンを喇叭(らっぱ)に呷った。格調高いウイスキーも不本意な飲まれ方だと思っているに違いない。しかし、どうだ。この男は何と美味そうに酒を飲むのか。ビンに口をつけ、喉を鳴らし、溜息を吐く。満足げな口元で陽気に笑った。
「ぷはー、いいねえ、酒はいいねえ。百薬の長、命の水だ。だから酒は止められねえんだよぉ」
 こちらが釣られるほどの陽気な笑顔。人生を楽しんでいるといった印象を受けた。
「こんな美味いもんが飲めねえなんて可哀相だねえ。お前さん、人生の半分は損してるぜぇ」
 そう言う見方もあるだろう。人それぞれ。主観の相違ではあるが。
「ま、飲まなくてもいいから話に付き合えや。偶には一人で飲むのが味気ない夜もあるんだな、これがさ……」
 男が私を見上げてくる。ゴミの山の陰にだらしなく座り込み、レンガの壁に身を任せ、私が同じようにするのを暗に待っている。
 この男に興味を持った。彼は別に場所に縛られているわけではない。行こうと思えばいつでも行けるのだ。何故、彼がここに居たがるのか理由が知りたくなった。そう――
 彼も旧知の友か。
 私は彼の隣に座り込む。レンガの冷やりとした感触が背中に伝わってきた。
「お。お前さん、なかなか話がわかるじゃねえか」
 男の笑顔に釣られながら私は言う。
「あんた、呼ばれる方へは行かないのか?」
 一瞬眉を顰め、次の瞬間には何もかも理解したとでも言わんばかりに、にやりと笑った。
「ああ、当分行かねえなぁ。俺は俺の好きなようにやる。何か文句あっか?」
「いや」
「だろうな。お前さんだってわかるだろ? 人間は自分に正直に生きるのが一番だ。自分を誤魔化して生きるなんざ、味気ないじゃねえかよぉ」
 また、酒を呷った。それから酒瓶を振り翳して不敵に言う。
「俺はさ、コイツがなくちゃ生きていけねえのさ。俺からコイツを取り上げるという事は死ねと言うのと同じ事なんだぜ。それなのに俺の家族はアル中だアル中だって、病院なんかに入れようとしやがったんだ。そんなトコロに入れられちまったらよぉ、俺は愛するコイツと引き離されて生ける屍同然になっちまう。冗談じゃねえ、ってんだ」
 と、再び酒を呷る。
「だが、家族の言うように病院で治療をすれば、もっともっと長生きできただろうに」
 くたびれてはいるが、この男、どう見ても四十を過ぎたばかりではないか。まだ働き盛りだったはずだ。
「馬鹿言ってんじゃねえよ。好きな物を取り上げられた上、監視されて暮らさなきゃならないんだぜ。そんなの生きてるって言えるのか? 言えねえだろ? そんなものは俺じゃねえ。俺の形をした物体だ。俺の心は何処にもなくなっちまう。そんなんじゃ心が死んじまうんだよ」
 男は溜息を吐き、更に酒を呷る。よっぽど酒が好きなのだろう。愛おしく、手にしたビンを撫でた。
「俺はコイツとなら死んでもいい、そう思ったんだ。だから病院を逃げ出して、思う存分コイツと過ごした。それでこんな事になっちまったが俺は後悔なんざしちゃいねえ。むしろ本望さ。生きている間にゃ散々好きな事をやってきて、死んでもコイツから離れる事がねえなんて、正にバラ色の人生だろ? 死に様なんかどうでもいいのさ。物体を失うだけなんだからな。それよりも大切なのは魂だ。魂が満足してなきゃ生きてたって死んでたっておんなじ事だろ? この世の中に自分が納得できる生き方をしてる奴が一体どのくらいいる? 俺はその少数派の一人だ。幸せな人生だろ?」
 私は頷いた。
 確かに。人と云うものは、世間という足枷の中では自分に正直に生きることができない。常に周りを気にし、自分可愛さの余りに自分の心を殺してしまう。周りの全てに合わせ、自分というものを見失ってしまったら、幸せな人生とはお世辞にも言えないではないか。何故、人間は、周りと同じところに自分を置かなければ安心できなくなってしまったのだろう。
 それを言えば、この男は実に稀有な存在だ。いや、稀有な存在と言える人間はもっといるはずだ。闇の中でなら人は正直になれる。闇は自分を取り戻す最良の空間。縛りつける足枷を取り払ってくれるのだから。
「あんた、この場所であちらの世界へ行った訳じゃないだろう? 何故ここに居座っている?」
 彼は照れ笑いで言う。
「決まってるだろ。好きな女の側にいたいだけだ」
 と、場末の酒場の裏口に目を留めた。
 裏口は細く開いている。そこから洩れる複数の話し声。時折聞こえる笑い声。アカペラで、囁くように歌う、綺麗な女の声。
「ここのママは優しいんだぜぇ。まだ若いんだけど、人の痛いところを知っていて包んでくれるような女なんだ。ま、俺にだけじゃなくて誰にでも優しいんだけどなぁ。だから余計に掻き立てられるのさ。この歳まで独身を守って良かった、いつかこの女を連れて旅に出よう……って、な」
 男は笑いながら頭を掻く。ボサボサ頭が、更にボサボサになった。
「いい歳して何を言いやがる、って思うかも知れねえけどよぉ、俺ぁ結構本気だったんだぜ。ママにプロポーズしたい男は客の中には五万といるだろうさ。ママがそいつらの誰にも心を動かさない、ってのも本当はわかっているんだよ、俺を含めてな。それでも、扉を押し開ける度にママにニーッコリとされると、忘れられなくなっちまってここに来ちまうんだなぁ。……ここのママは酒とおんなじで、クセになっちまうのさ」
 酒か照れか判別できない赤い顔をして、男はいきなりビンを呷る。勢い余って、口元から酒が少し溢れた。
「ぷはーーーーー! 酔っちまったか、照れ臭えなぁ! こんな話、誰にもした事ねえよぉ。全く、お前さんといると、ついつい口が滑っちまわぁ。けどよぉ、本当の話なんだぜ。きっと俺はママがこっち側に来るまではここから離れられねえなぁ。呼んでる奴も俺の気持ち、わかってくれてると思うぜぇ」
 目を伏せ、言葉を繋ぐ。
「ママがこっちに来る頃は、俺と釣り合う歳になってんじゃねえかな? もっともっと年上になってるかも知れねえけどなぁ。けど、俺はママの入れ物に惚れた訳じゃなくて中身に惚れたんだから、そんな事ぁどうでもいい。ママがこっちに来たら俺は彼女について行く事にする。そう決めたんで、未だに俺はここにいるのさぁ。わかったか? 兄弟」
「その女が来たとしても、あんたの想いは独りよがりでしかないだろう? 女にとって、あんたは既に過去の人間になってしまっているんだからな」
 男は目を見開き、次におかしくて堪らないといった風に笑い転げた。
「そんな事、当たり前じゃねえか! 俺は想いを遂げたい訳じゃねえ。もう死んじまってるんだからな。ただあの女の側にいたいだけなんだ。俺は俺の好きなようにやる、そう言ったじゃねえか。な? 兄弟」
 思った通りの答えが来た。私はまたも、男の笑顔に巻き込まれる。そうして薄暗がりの中で、私たちはいつまでも笑い続けた。
 
 その夜。闇が密かに、腹を抱えて転がった。
−Fin−
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