はし
夜歩きが好きだった頃ロゴ
 闇に蠢くモノ。それらは皆、旧知の友。昔住んでいたアパートの裏の、墓場に潜む連中と同じ。私は闇を求め、夜、歩く。
 全くの闇が無くなったこの町にも、少しなら闇に近い部分はある。やはり全くの闇ではないが、ネオンや繁華街などとは無縁の場所。それは川。
 私は安らぎを求め、橋を渡る。闇は川の中にある。街灯が立ち並ぶがその程度はご愛嬌だろう。品のないネオンよりは遥かにマシだ。
 中程で歩を止める。少し深呼吸をしてみた。ここは河口に近い。だから潮の香りがする。
 橋の手すりに凭れ、道路を隔てた対岸を見る。
 いた。
 近頃、私の他に常連さんができたようだ。その女はいつも同じ場所で、手すりに凭れ、川を覗き込んでいた。
 この女に興味があった。彼女はここに毎日通っているのではなく、縛られているからだ。つまり、ここから動けないでいる。
 彼女も旧知の友か。
 徐に近寄ると彼女が首だけで振り向いた。綺麗な女だ。だが虚ろな目をしている。その瞳に何を映しているのだろうか。少し潤み、焦点がぼやけていた。
「ああ、違う……」
 彼女はまた川を覗き込む。何か歌を口ずさんでいた。その暗鬱なメロディが女の心そのものに聞こえて、気が滅入る。
「誰を待っている?」
 何気なく声をかけた。歌を止めさせたかったのかも知れない。彼女は答えず俯いている。メロディが、風に乗って流れてくる。
 私は踵を返した。長居をする必要はない。すると、背中から女の声が追ってきた。
「あなたは知っている?」
 振り向く。女は肩越しに私を見ていた。
「背の高い人なの。黒いジャンパーに黒いズボン、黒い帽子を被っていて、黒いサングラスを掛けていたわ。知らない? そんな男の人……」
 黙って首を振る。
「そう。私はその人が見つかるまでは、ここから一歩も動けないわ」
 そしてまた、川を覗き込んだ。
「恋人という訳でもないだろう?」
 再び、女は肩越しに振り返る。
「そうね、名前も知らないもの。でも、同じくらい待ち焦がれているわ」
 と、女が微笑った。寂しそうなその微笑み。彼女は随分と長い間、ここで問題の男を待っていたらしい。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
 古い流行を感じさせる衣装が、女がどれだけの年月ここに立ち尽くしていたかを物語っている。そしてその間、一度も待ち焦がれる男には会えなかったのだろう。見つかるまでは動けない、と本人が言っているのだから、望みが叶えばここに縛られることもなくなるわけだ。
「その男はもう若くはないだろう?」
「そうね」
「生きているのかも、怪しい」
「そうかしら?」
「おまえは変わりがないから大して気にも留めないのかも知れないが、相手は随分変貌しているはずだ。それでも確信が持てるのか?」
「持てるわ。出逢ったのはほんの一瞬だったけれど、永遠に忘れられない思い出を、その人から与えられたのだから」
 それまで弱々しく感じていた彼女の瞳が、一気に力を増した。
「それほどまでに……」
「そうよ。彼を待っている。探している。いつかここを彼が通りかかるのを、今か今かと待ち焦がれてきたの。私はここを動けない。だって、彼が私に残していった、たった一つの思い出の品が、まだ川の中にあるのだから。泥の底に埋まったままなのよ」
 それで彼女は、薄暗い川の闇を見つめていたのか。
「私には場所がわかっているのに、今となっては掬い上げる事もできないわ。誰かに伝えたかったけれども、あなたのように私の声に振り向く人は一人もいなかったの。唯の一人も……」
 属性が同じ者は、そうざらにはいないだろう。いたとしても彼女が何者かを悟れば、おいそれと返事はすまい。私が変わり者だったからだ。
「あれが手に入ればきっと彼は見つかるわ。ここに連れてこられて、もう一度私を見るのよ。彼は絶対に私を忘れてなんかいないわ」
「だが、もう手遅れだ」
 女が眉を顰めた。
「どうして?」
「さっきも言っただろう? おまえは気にも留めないが、こちら側の世界はおまえの世界とは違う。時間というものが世の中に影響を与えている。時間は男に味方した。そいつは、とうの昔におまえから逃れてしまっているだろうな」
「どういう事?」
「世の中の仕組みがそうなっているのだから仕方がない。そいつを責める事は、もう誰にもできないのさ」
 女の顔が苦痛で歪んでいく。
「そんな事! ……許せないわ、いいえ、許さないわ!」
 肩越しにではなく、くるりと勢い良く振り向いた。胸元に赤い薔薇。白いドレスが翻る。
「あの人がどんな人生を歩もうが私には関わりのない事だわ。だけど、あの人が私から逃げるなんて、それだけは許せない。私を忘れるなんて絶対に許せないわ! だってそうでしょう? 私はあの人の為に残りの人生を失った。明るいところへも行かず、ここに留まっていたのは、あの人にもう一度会いたい以外の何ものでもないのよ。それなのに、あの人が私を忘れるなんて許されると思う? 私から逃げるなんて、そんな酷い事、許されていいと思うの? 私がこんなに永い間、待っていると言うのに!」
 許せないだろうな、と思いながらも私は言う。
「今更言ってもしようがない。それにもう男が死んでいれば、猶の事どうしようもないじゃないか」
「死んでなんかいないわ!」
 女は即答した。相当の確信があるのだ。
「死んでなんかいないわよ。もし死んでいたら、私に引き摺られて必ずここに来るはずだもの。でも彼は来ない。だから、生きているわ」
「呪いをかけたのか?」
 彼女は笑う。弱々しい奇妙な笑い。美しいだけに、薄ら寒い。
「当然でしょう?」
 見つめる瞳の鋭い光。息を呑む。静かだが、ひしひしと燃え上がる怨念の炎。
「私は女優になりたかった。もうすぐ夢を掴むはずだった。場末の小さな劇団から始め、懸命に演技を学び、貧しいけど毎日が満たされていたわ。好きな事に全身全霊で向かえるなんて、とても素晴らしい人生でしょう? それだけでも私は恵まれている、そう思ってがんばったのよ。お蔭様で、舞台でだんだんいい役を貰えるようになって、とうとう主役を貰えたわ。その上、端役だけど映画の仕事まで貰えるようになったのよ。私の人生はこれから。輝かしい未来が私を待っているはずだった……」
 息苦しそうに胸元を押さえる。薔薇の形が崩れた。いいやそれは薔薇ではない。女の胸が赤く染まっていた。
「そんな矢先だった。輝かしいはずの私の人生はここで終わってしまった、この橋の上で……あの人が、突然、私の未来を奪っていったのよ! 何の前触れもなく、突然に。………私はまだ主役を演じていない。あの芝居はまだ稽古中だったのだから……それに映画もまだ撮り終わってはいなかった。私は、私の夢を何の形にもできなかったのよ! 予兆もなく毟り取られた夢を、だからと言ってどうして諦められるって言うの? そんな簡単に諦められるくらいなら、こんなところに縛られたりはしない! あの人が私の人生を狂わせたのよ。あの人が私の未来を全て奪っていった! だから呪いをかけたのよ! ここに戻ってこさせる為に!」
「人を呪えば、おまえも堕ちるところは同じだぞ」
 動じない。彼女の口元が、緩やかに綻んでいく。
「わかっているわ。でも待っている。もうすぐあの人がここにやって来るわ。もう、そろそろお迎えが来てもいい頃だろうから。……不思議ね。こんなに永く待っていると、まるで恋人でも待っているかのように浮き浮きしてくるのよ。心が弾んでしようがないの。あの人がやって来る、ここに。私の元に戻ってくる。……漸く、漸く私の想いが叶うのよ。彼がここに来たら、もう離さないわ。そして、決して、明るい方へ行かせたりはしない!」
 彼女は、もう話はないとでも言うように、あちらを向き、川の中を覗き込んだ。泥の底にはまだ埋まっている。女の胸を赤々と染めた忌々しい物が。
 女は笑っていた。口ずさむ暗鬱なメロディ。救われない闇の中で女はひたすらに男を待つ。まるで恋しい人を待つ少女の如く、浮き浮きと心を弾ませて。
 
 その夜。闇が疲れたように、溜息を洩らした。
−Fin−
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