どうろ 道路 |
昔、住んでいたアパートは、裏が墓場だった。そこらに漂う者たちは言わばご近所さんだ。 人が思い込んでいるほど彼らは恨めかしい存在ではない。偶に骨のあるところへ戻ってきて、世間話をしながら酒盛る連中もいるのだ。むしろ、そういう害のない輩の方が多いのではないか。 近頃はこの町も住みにくくなった。新興住宅とやらが立ち並び、町は一気に進化する。その変化から取り残された者たちは闇にひっそりと漂うのみだ。かく言う私もその一人かも知れないが。 私は夜歩きが好きだった。夜の闇が好きなのだ。闇に紛れ、蠢く彼らも好きだった。 彼らは私の旧知の友だ。墓場に戻ってくる連中とは違い、或る者は場所に縛られて、或る者は気まぐれに通り過ぎていく。初めて出遭った存在だとしても彼らはやっぱり旧知の友だ。属性が同じだからだろう。 この町は闇を失った。夜、出歩いたとしても、灯りのない場所など何処にもない。あの墓場のような落ち着いた闇は何処に消え失せたのか。そう思い、また夜を徘徊する。 急に交通量の増えた道路を見遣る。高速道路の入口が近くにできたせいだ。丑三つ時も過ぎたと言うのに、ヘッドライトがまだ光る。人というものは何と眠りを蔑ろにするのだろうか。 ふと、視線の先に少女を見た。七歳くらいの小さな子。真新しいランドセルを背負っている。 道路の縁に蹲る姿。歪んだガードレールのすぐ脇。時折立ち上がり、道路に下り、また歩道に上って蹲る。遊んでいるようにも見えるがそんなはずはないだろう。こんな時間だ。それに少女の顔は寂しそうだった。 彼女も旧知の友か。 私は声をかける。 「どうした? 一人で何をしている?」 少女は顔を上げ、こちらを見る。少し嬉しげな顔をした。 「おにいちゃん、あたしがみえるの?」 「見えるな。だから声をかけた」 「そう。あたしがみえるひともいるんだ……」 少女は蹲ったまま、道路の縁を指でなぞる。暫く何も言わず、その様子を見守って佇んでいた。 少女がまた顔を上げる。 「おにいちゃんがはじめてだよ。そうやってしゃべってくれたの。ほかのひとはダメ。あたしがよんでもへんじしてくれないんだ」 それはそうだろうな。闇を追い払うのに慣れすぎた者たちに、この子が見えるわけがない。 少女はまだ小さかった。どちらかと言えばランドセルに背負われているかに見えるほどだ。小さな顔で揺れるお下げ髪には、赤いリボンが結ばれていた。白いブラウスの襟にも赤いリボン。赤い吊りスカートは水玉で、プリーツに糊がきいている。晴れの衣装といった感じだ。 「家には帰らないのか?」 訊ねると、悲しい目で返した。 「……かえれないの」 「帰りたくないんじゃなくて、帰れないのか?」 「うん」 「そうか」 ガードレールの歪みは彼女の身に何が起こったかを物語っている。ここに縛られる者。突然押しつけられた境遇に、理解を示さなければ離れられない。 「お母さん、ここにくるよ、おはなもって。あたしのだいすきなおかしも、もってきてくれるの……でもよんでもへんじしてくれないし、かえらないでっていっても、あたしをみてくれないの」 まだわかっていないのだ。自分が母親とは違う世界へ踏み込んだことに少しも気がついていない。いや、説明してもわからないだろう。理解するには余りにも幼すぎる。 「あたし、お母さんのそばにいるのに、あたしのなまえよんでなくの。なかないで、お母さんっていっても、ずっとないてるの。なんでなくの? あたし、ここにいるのに。なんであたしのこと、みてくれないの?」 少女の瞳は困惑に満ちていた。 「あたしかえりたいよ、ウチにかえりたいの。もう、こんなところイヤ。だってだれもあたしをみてくれないもん。かえりたいよ、お母さんのところにかえりたい」 堪りかねて泣き出した。無理もない。まだ母親が必要な年齢だ。 「おにいちゃん。あたしどうしたらウチにかえれるの? どうしたらここからうごけるの? おしえて。おにいちゃん、しってるでしょ? そんなきがするもん」 言ってもわかるのだろうか。諭しても理解できるのだろうか、この子に。 「母親におまえが見えないのは仕方がない。おまえと母親は、もう同じ世界にいないんだからな。おまえは死んだんだよ。生きてる人間とは同じ次元にいられないんだ」 「なあに? しぬってどういうこと?」 やっぱりわからないのか。 「死ぬっていうのは、住んでいた場所を離れて遠くに行く事だ。だから本当は、おまえも遠くに行かなきゃならないんだ。こんなところにいつまでも縛られてちゃいけないんだぞ」 少女は小首を傾げる。私は人に何かを説明するのが苦手だ。 「しぬって、とおくにいくことなの? あたしそんなのイヤだ。お母さんといっしょにいたいよ」 「だからと言って、ずっとここにいると悪いモノになってしまうぞ。母親を困らせる事になるかも知れないんだぞ」 「お母さん、あたしがここにいると、こまるの?」 また、泣き出した。 「そう言う訳でもないが……」 「ここにずっといると、あたしわるいコになっちゃうの?」 「そうだな……」 「わるいコだから、お母さん、へんじしてくれないんだ。あたしがわるいコだから、あたしをおいてかえっちゃうんだね」 順序が逆だ。思考が転倒している。 「でも、あたし、お母さんがだいすきなの。お母さんといっしょにいたいよ」 「おまえは呼ばれないのか? こっちに来いって。おまえを呼ぶ声は聞こえないのか?」 少女は目を細め、私を見る。私の言葉を一生懸命考え込んでいる。 「いまでもよばれるよ。でも、うごけないの、あたし。ここからうごけないの、ちっとも」 そうか。精々動けたとしても、道路と縁の往復ぐらいしかできないのか。この子の心を縛りつけているものが、ここに通い詰めるからだろう。ガードレールの脇には、綺麗にリボンで飾られた花が生き生きと横たわっていた。 「もし動けたら呼ばれた方に行くか? そうすれば母親と離れて暮らす事になるが、悪い子にならずに済むぞ。……まあ、無理にとは言わないけどな」 頼りない瞳が動いた。私を見上げてくる光は、明らかに戸惑っている。 「とおくにいったら、もうかえってこれない?」 「そうだな」 「もうお母さんにあえないの?」 「そうだ」 「そんなのイヤだ! お母さんといっしょにいたい! お母さんといっしょにゴハンたべていっしょにねるの。にちようびはゆうえんちにいって、かえりにえきまえでチョコパフェたべるんだよ。にゅうがくしきには、キレイなきものでいっしょにシャシンとろうってやくそくしたの。このふくだってお母さんがつくってくれたんだから。まだいっしょにシャシンとってない。だからイヤ! いかない!」 少女は激しく首を振ると、向こうを向いてしまった。仕方がない。どう説明したところでわからない者にはわからない。やがて、この子は永遠に、この場所に縛られたままになるのだ。 「おまえが悪い子になったら、母親は泣くだろうな。ああ、今でも毎日泣いているか……」 きっ、と振り返り、私を睨んだ。 「おにいちゃんのイジワル!」 「だが、嘘は言っていないぞ」 彼女は目を見開いた。そして、俯いてしまった。 もうここにいても何にもならない。身じろぎ、私は闇を探しに行こうとした。 「おにいちゃん」 振り返る。 「どうしたら、あたし、うごけるようになるの?」 私は確認するために訊いた。 「呼ばれる方に行くのか? 母親と、もう二度と会えないんだぞ」 「お母さん、あたしがわるいコになったらなくんでしょ? お母さんが、あたしのことキライになったら、そっちのほうがヤダ」 「そうか」 そっと少女の頭に触れる。空間を透かす感触。けれど、少女には私の手の感触が伝わったようだ。 「母親がここに来て、おまえに向かって笑って言えばどうだ? いい子だから、呼んでくれる人について行きなさい、って言ってくれたなら……」 少女は不思議な顔をする。 「おまえがここから動けないのは、ここで母親が泣くからだ。母親が心配なんだろう? だから笑って見送ってもらうんだ。そうすれば、おまえは声が呼ぶ方に行ける」 「でも、お母さん、いつもないてる。あたしがわらってよっていっても、なくんだよ……」 「だから、私が母親に今のおまえの話をしてやろう。それなら母親だって、いつまでも泣いてばかりはいられないさ。母親が泣かなくなったらここに連れてきてやろう」 「……うん」 少女はまた、最初に見た時と同じく道路に座り込んだ。そして私を見上げ、最後に言った。 「ずっとまってるからね、おにいちゃん」 私は立ち去る。少女の家に向かうために。少女の言葉を伝えれば、母親は涙ながらにでも納得せざるを得ないだろう。最愛の娘を悪霊にしないために、無理にでも笑い、こう言うのだ。 『お母さんは大丈夫だから、心配しなくていいのよ。いい子だから呼んでくれる人について行きなさい』 その夜。闇が少しだけ、私に近づいた。 −Fin−
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