いしきふめい
意識不明
白い物語ロゴ
 「危ない!」と言う声が聞こえた時には、既に後頭部にサッカーボールがぶち当たっていた。誰だか知らないが全く声をかけるのが遅い。などと思いつつも、意識が白い世界に包まれていくのを止められなかった。
 
 
「ねえ、大丈夫?」
 聞き覚えのある声が耳元でする。はっきりと聞こえるとなると意識は戻ったのか。ズキズキする後頭部にウンザリしながらも、何とか身体を起こしてみた。耳元の声がまた言った。
「あんなボールも避けられないなんて、反射神経、鈍ってるわねえ」
 余計なお世話だ!
 むかっとして相手を見た。そして首を捻る。何だか見覚えはあるけど、誰だっけ? 暫く口が利けずにいると、またもや相手は言葉を続ける。
「また考え事とかしてたんでしょう。子供の時から注意力散漫なんだから」
 相手の顔をジロジロと見たところで誰だか思い出せない。だが妙に親しげな口振り。しかも子供の頃の千秋(ちあき)を知っているとは、一体、何者なのだ。腑に落ちずにやはり穴が開くほど凝視した。
「何とか言ってよ」
「あんた誰よ?」
 同じ制服を着ているから同じ学校なのだろう。クラスにこんな少女がいた記憶はないのだが。別のクラスでも彼女に見覚えはない。
「呆れた! こんな身近な相手を掴まえて何言ってんの?」
 彼女は大袈裟に目を見開いた。必要以上に大きな溜息を吐く。
「勘が鈍いとは思ってたけど、ここまでとは知らなかったわ」
 何だか物凄く不愉快な相手だ。それなりに可愛いが、遠慮なんてありゃしない。雰囲気が何処となく自分に似ているから親しみが持てるような気がしたのに、その不躾な態度は頭に血が上るというもの。初対面のクセして生意気。
 初対面? そんなはずはない。
 考えてみれば、いくら千秋と同じくらいの少女だからって、初対面なら余りにも失礼すぎる。自分も少々礼儀に欠ける部分はあると思うが、彼女の態度はそれすら上回る。
 もしかして……千秋の脳裏に嫌な想像が横たわった。もしかして、強く後頭部を打ちすぎて記憶の何処かが欠落してしまったのか。
(ウソっ! 記憶喪失ってこと?)
 自分の名前は覚えている。親兄弟、親族に到るまで忘れてはいない。子供の頃の記憶もしっかりとあるし、こないだのテストの点数も覚えている。忘れてしまえれば気が楽だったのに。
 友達だって忘れてはいないはず。クラスの連中、幼なじみ、いつも寄り道に買い食いをする悪友たち。誰も忘れてない、誰も足りなくない。それなのに、この子は誰? 混乱する記憶の中で彼女だけが明確でない。
「もう高一なんだから、いい加減、落ち着きなさいよ。小学生だって車に注意しながら歩けるのよ。自分に向かってくる物くらい、気がついて避けられないはずないでしょ」
 千秋の目が釣り上がる。コイツの口調、すっごいムカツク。
「あんた何様? 何でそんな偉そうなのよ」
 相手は少しも動じない。予期した反応といった感じ。千秋を見つめる瞳には他人の冷たさはない。
「随分ご挨拶じゃない、いつも一緒にいるのに。何だかやっぱりあんたって、そう言うところ、心配でほっとけないのよねえ」
 まるで子供扱い。どうにもこうにも頭に来る。
「さっきから何よ、大人ぶっちゃってさ! あんただって私と変わんないくらいじゃないよ。人を子供扱いするのはやめてよ!」
 彼女はまた、大仰に溜息を吐く。
「全く進歩がないわねえ。すぐ頭に血が上るその短絡思考は、一体幾つになったら治るのよ。そんなだから年下の従弟にまでバカにされるのよ」
 だめだ。唯でさえ相手の存在を思い出せなくて腹立たしいのに、忘れようとしていた過去の汚点まで引き摺り出されては、一発や二発では済まない。自然、両手の拳に力が篭もる。
「光輝(こうき)は今だってあんたが大嫌いだわ。おばあちゃんのお葬式での思いやりの無い態度を、未だに根に持ってるのよ」
 そんな事情まで知っているなら、この子は身内じゃないか。しかも千秋といつも一緒にいると言っていた。何故……そんな身近な人間を、何故思い出せないのだ。やはり後頭部への衝撃はかなりのものだったに違いない。
 祖母の葬式で、確かに千秋は失態をしでかした。それと言うのも光輝を羨んでいたからに他ならない。祖母に溺愛されていた二つ年下の従弟。いつも彼とは祖母の取り合いだったのだ。関心を引きたくて、わざといろんな行動をした。従弟を苛めたことだってある。けれどいつも、どんな時も、祖母は最終的には従弟の味方。最後の最後まで千秋の想いは祖母には届かなかった。だから光輝に八つ当たりしてしまった。そして嫌われ、挙句の果てには謝る機会を逃したらしい。その直後から今まで、後悔の気持ちは少しも色褪せていないと言うのに。
「あんたって損な性分なのよねぇ。単純でバカだけど人一倍思いやりはあるのに。だけど照れ屋だしお調子者なのがいけないのよ。ついつい無意識で思ってるのと反対の事、しちゃうし言っちゃうし。で、結局、嫌われたりするのよね。ホントは誰よりも優しくていい子なのに」
 とたん、千秋の怒りは温度を下げた。変わりに別の部分が温度を上げている。自分でも顔が赤くなるのがわかった。誰だかは思い出せないが、やけにわかってくれているではないか。単純でバカって点だけは引っかかるのだが。
「でも今度ばかりは、良く良く考えて行動しなさいよ。でないと後悔するからね」
 目を丸くする。言っている意味がわからない。
「今度? って一体何が?」
「さっきあんたにサッカーボールぶつけた奴――あ、でも、ワザとじゃないから……要(かなめ)クンよ。ずっと気になってたでしょ?」
 ヤバイ、図星だ。今まで誰にも、本当の本当に誰にも、親友にすら話していなかったのに。もしかして彼女は、やっぱり千秋に一番身近で、一番理解してくれている相手なのかも知れない。そうと思い至れば、何故だか急に心が緩んだ。今なら言えなかった言葉も搾り出せそうな気がする。
「かっ、要クンはただのクラスメートだからねっ……その、今のところは……なんだけど。……あ〜、でも、やっぱ脈は薄いかもぉ……」
 言ってしまって本気で脱力した。
「何よ。当たって砕ける前から諦めるの?」
「だって……要クンは可愛くて優しい子が好きだって前に言ってた。私……大幅にずれてるし……」
「だったら軌道修正すればいいじゃない」
 言うだけならそりゃ簡単だろう。実行に移す側は大変だ。いかにも他人事な言い方が気に障った。
「そりゃあ、さあ、私っておっちょこちょいだし、単純でバカなのかもしんないけどぉ……それに、ムカツクとすぐ手が出るしね……こんな自分、私だってキライよ。でもさぁ、ダメダメいけない、って思ってもやっちゃうんだよねぇ。治らないんだもん」
「全く……情けないほどバカね」
 彼女は理解があるのかも知れないが、何処までも言葉には容赦がない。
「大体ねぇ、心の中で思ってるならともかく、自分がキライなんて言っちゃう奴ってホントは自分が大好きなのよ。人から『そんなことないよ』って言って貰いたいから豪語するのよね。優しく慰めて貰えるのを期待してるの。その方が努力するよりずーっと楽だから。でもさぁ、努力して自分を変えてみて『ホントにあなたっていい人ね』って言われる方が、よっぽど良くない? 上辺だけで慰められるより、心から好かれる方が絶対に確かだと思わないの?」
「なっ、何が言いたいのよ?」
「要は、少しは自分を振り返れ、って言いたいの。ああ、私って嫌な子、自分がキライ、なんてのは言い訳にすぎないのよ。それに早く気づきなさい」
 見直し始めたのに、こうまでズバッと言われると瞬間的に血だって遡りたいだろうが。頭に上った血なんてものは、そんなに簡単に冷めやしないんだぞ、と千秋は拳を握る。
「ほら。今、私を殴ろうと思ったでしょ? そこがいけないのよ。はい、殴ろうと思ったら先ず考える。殴られた相手はどうなると思う?」
 鼻の真ん中を指差され、思わずたじろぐ。
「え、え、え〜とぉ……」
「自分がいきなり殴られたら、どうなのよ?」
「い、痛い。何すんのよ、こんちくしょう! ……って思うわね」
「でしょ? だったら、あんたに殴られた相手もそうじゃないの?」
 『あっ!!!』っと心の中で叫んだ。そんな風に考えたことなど一度もなかったから。
「私の言葉に腹が立つのは、あんたに自覚があるって証拠よ。それならまだ大丈夫。まだまだ自分を変えられるわよ。ほんの少しの勇気があれば、ね」
 そうかも知れない。いや、そうなのだ。普段の千秋からは考えられないくらい、彼女の忠告を素直に受け止められた。
「私……変われるのかな……?」
「変われるわよ、その気があれば」
「どうやって?」
「先ずは自分を振り返りなさいよ。今までの自分を振り返って考えてみて。自分がどんな人間かを知らなくちゃ変えようがないもんね」
 千秋は目を閉じた。
 後悔したことは山ほどある。やり直したいことなんか数え切れない。だけど過去は戻って修正したりはできないのだ。そうやっていつも諦めてきた。どうせ取り返せはしないのだからと割り切るしかなかった。それの何処がいけない?
「……やっぱ私って嫌な奴だ。治んないよ、こんな性格。性格なんて持って生まれたものでしょ? 努力したってどうせ無駄だよ」
「もう〜、何処までもバカな子ね。いじけないでよ。あのね、『どうせ』なんて言わないの。努力する前から諦めない。今までの自分を振り返っていかに嫌な奴かって思ったんだったら、そのまま後ろを見るのは終わりにするのよ。後は前に向き直る。まだまだやる事はいっぱいあるんだからね」
 一瞬落ち込んだものの、キビキビ言葉を紡ぎ出す彼女に励まされた。嫌いじゃないな、この少女。むしろ共感できる。
「あんたに足りないのは、行動を起こす前に考えるってところよね。さっきみたいに瞬間的に行動したくなったら良く考えてみてよ。相手の立場で考えてみれば、少しは気持ちも掴めるでしょ?」
「難しい……」
 呻きともつかない声が、千秋の口から漏れた。
「さっきみたいに、あんな風に言われたら、不意を突かれて考え込むかもしんないけど」
「そりゃまあ、そうね。誰だって自分が可愛いのは当たり前。先ずは自分を考えるから、なかなか相手の気持ちって掴みにくいものよね。だったらこう考えればいいのよ。自分がされて嫌な事は人にだってしちゃいけない、ってね」
「あ、そっか。自分がされて嫌な事なら、確かにすぐ思いつくわね」
「でしょう? それを自分がされるところを想像するのよ。ああヤダな、って思った段階で行動が止まるから」
 なるほど。それならできるかも知れない。順序立てて考えればできないはずはないのだ。回転は鈍いのだろうが、頭が悪いわけではないのだから。
「後、あんたに必要なのは思い切りよね。ほんの少し勇気を持って踏み込めば、今までだって成就できた願い事なんて山ほどあっただろうしね。願い事が叶わなかった時に人のせいにしてばっかじゃ進歩ないわよ」
 全く。痛いところばかりを突いてくる。
「そんなこと言ったって……」
「ほらほら。情けない声出さないの。あのさぁ、今までだって後になって悔やんだ事ってないとは言わせないわよ。後悔するくらいならさ、ガツーンとぶつかって行くべきよ。自分がその時やれる限りやったんなら絶対後悔なんてしないはずだもん。中途半端にやってるから後で嫌な思い出になるのよ。要クンの事だってそう。全力で当たって砕けろ! ダメで元々! もしかして上手く行ったら儲けもんじゃないの」
 よくもまあ簡単に言ってくれる。けれど彼女の言葉には信憑性がある。どうしよう、どうしよう、と戸惑いながら何かをやってみたとしても、自分が心の奥から納得していなければ結果なんてそれなりにしかならない。やってやる、という気持ちで全力投球してみたら、きっとスッキリできるだろう。ダメだと思ってぶつかって、上手く行ってしまえば確かに儲けもの。そんな感覚、今まで感じた記憶がない。どれだけ中途半端に生きていたのだろうか。今からだって変われる。遅くはないのだ。
「やってやる!」
 すっくと千秋は立ち上がった。と少々よろめく。目を閉じて頭を左右に振ってから、もう一度目を開けた。
「あれ?」
 辺り一面が真っ白だ。そう言えば話をしている間、気にも留めなかったが、周りの風景はどんなだっただろうか。慌てて振り返る。
「ちょ、ちょっと……」
 あの少女がいない。それどころか誰もいない。見回しても一面の白。何もない。ここは何処……?
「ちょっと、ちょっとぉ! 何処行っちゃったのよ、私を置いてかないでよっ!」
 
 
「良かったぁ、気がついた……」
 いきなり上から声がした。目をぱちくりさせてみる。白い。が、さっきまでの一面の白さではなく、天井や壁が白い。良く見回すとここは保健室じゃないか。
「あれ? あれれぇ……???」
 視線を巡らせると、ベッドの頭の方に誰かいる。しかも聞き覚えのある声。
「千秋がこのまま目を覚まさなかったら、俺、どうしようかと思った」
(かっ……要クンだっ!!)
 千秋はベッドに跳ね起きると、何故か正座をした。
「わ、私……あの、私〜……」
「あ、とりあえずゴメン。俺がボールぶつけたんだ。声かけたんだけど、何か考え事してただろ? 駆け寄った時にはもう気を失ってたみたいだし。見事にここだったからな」
 と、自分の後頭部をはたいている。俄かに顔面の筋肉が強張ってしまい言葉が引っ張り出せない。口元をひくひくさせながら、ただ彼を見つめていた。
「俺のせいだし……俺さ、心配で、心配で、先生に頼んでずっと側についてたんだ。だってさ……このまま千秋が目を覚まさなかったらって思って……そしたら急に焦っちゃって……まだ言いたい事も言ってないからなぁ」
「はぁ?」
 いつの間に、彼は千秋を呼び捨てるようになったのだろう。そんな些細な疑問が横切りはしたが、深く認識はしていない。普段にない要の親しげな態度は何を表している? そっちの方が気にかかった。
「ずっと迷ってたんだけど、やっぱ言うよ。その、俺、千秋の事、ほっとけないなぁって思っててさ。何て言うか、危なっかしいトコあるし、でも、けっこう気が強くてしっかりもしてるし……それに、おまえお人好しだからな。面倒見いいし……そういうトコ全部……好きなんだよ」
 ――な、何ぃーーーーー!!!
 またもや後頭部に衝撃を感じた。いや、サッカーボールがぶち当たったわけではない。これは一体どうしたことだ! 確かめるにはこれしかない。千秋はいきなり己の頬をつねった。
「い、痛い! 夢じゃないっっ!」
「何してんだよ? ……やっぱ俺じゃダメか……」
 急に俯いた要を見て、千秋は心の中で叫んだ。今だ! 今こそ告白するんだ、千秋!
「そっ、そんな事ない! だって……だって、私の方から好きだって言おうと思ってたのに、先に言うんだもんっ!」
 叫んだとたん、顔中に血が上ってクラついた。要が見開いた瞳で自分を見つめている。
「じゃ、……じゃあ千秋、俺のコト避けてたんじゃなかったのか?」
「そう言う要クンこそ、何で急に?」
 見開いた瞳が少し緩む。ほっとしたように笑いながら要は言った。
「それはさあ、思わず千秋をノックアウトしちゃったもんだから急に不安になったんだよ。俺が告白する前に千秋にもしもの事があったら、って。それに迷ってた時、俺の兄貴が言ったんだ。迷って迷って、迷うだけで結局何もしなかったら後悔するぞ、ってさ」
「それって……」
 誰かも同じことを言っていた。その誰かは、一体全体本当に誰だったのか。白い空間に急に溶けてしまった、見知らぬ身近な少女。彼女のおかげで一大決心をした瞬間、歯車の動きは確実に変わり始めていた。まさか告白される側になろうとは。気遣う要の気持ちが照れ臭くて、何気なく、視線を逸らせた。
 と、目についた傍らにある洗面の鏡。映り込む姿を見て気づいた。あの少女。あれは千秋そのもの。顔も声も、まさに千秋のものだった。もしかしてあれは、千秋の中に千秋自身が作り上げたもう一人の自分。自己嫌悪に悩む時、自然と理想の自分を心に描いた。あの少女は理想の自分に非常に似ているのではないか。
 そうか。と千秋は思う。だから、妙に親しみを感じたり腹立たしく思ったりしたのか。それが理想の姿なのだから好ましく思うのは当然。腹立たしいのは、今の自分にないところを彼女が持っていたから。子供じみたジェラシーに相違ない。
 ずっと感じていた。今の自分が不甲斐ないと思いながら、何もできない、やろうとしない。何かのきっかけがあったなら理想の自分に少しでも近づこうと思うのに。変わりたいと思いながら、変われないと思い込んでいた。だから彼女がきっかけになったのか。決して人生を後悔で終始しないために。
 今は実感している。人は変わろうという前向きな気持ちがあれば、幾らでも理想の自分になれるのだ。その道のりが遠くても険しくても、諦めさえしなければ決してできないことはない。その証がこの瞬間の千秋。
 
 ――変わりたい。自分を心から好きになるために。
 ――変われるよ。明日を夢見る心があれば。
 
 自信に満ちた顔で千秋は微笑んだ。
 鏡の中の千秋も笑っていた。満足そうな笑顔で。
−Fin−
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