かみ
白い物語ロゴ
 ――おばあちゃんの髪はキレイだ。
 祖母の髪は真っ白で、陽に透けて銀にキラキラと煌いていた。まだそんなに老婆というほどの年齢ではない。度重なる苦労が、若い頃からその髪を全く白く変えてしまったのだ。
 幼い息子を二人も亡くし、祖母の心痛は絶えることがなかった。残された何人かの子供の内、光輝(こうき)の父だけが唯一の男子。跡取り息子としてどれだけ大切に、また期待をかけていたかは、今、祖母が光輝を誰よりも可愛がってくれるところからも、ひしひしと伝わってきた。
 それでも晩年は楽しい思い出もあったのだ。亡くなった祖父と暫く海外で暮らしていた経験があり、その身に何処かしら英国じみた風を漂わす。光輝にとっては、世界で一番、上品で美しい自慢の祖母だった。二つ年上の従姉の千秋(ちあき)が余計な一言を言うまでは。
 
 
「おばあちゃんってさあ、どうして白髪染めないの? おばあちゃんキレイなのに、白髪だと何だかババくさくってヤダよぉ」
 遠慮のない一言が光輝の耳にまで突き刺さった。祖母は無言で苦笑している。
 小学校を卒業した千秋のために、中学入学祝いも兼ねて祖母が催したささやかなパーティー。その席で、悪びれもせず言ってのけたのだ。周りの人間は一瞬固まった。しかし、千秋は無邪気に言葉を綴っている。
「おばあちゃん、ほら、茶髪にしてみれば? あたしの大好きなアイドルが茶髪なの。キレイだよぉ」
 千秋の母が少し離れたところで、しきりに顔を顰めたり手を振ったりしている。やめなさい、と言う合図なのだが当の本人には伝わらない。昔から感じていた。この従姉は女の子でありながら、人の心の機微を少しも理解しようとしない。何て鈍感なのだろうと。
 あれやこれやとしつこく言い募る孫に、遂に祖母は口を開いた。
「そんなにおばあちゃんの白髪、嫌いかい?」
「そうだよぉ。だってまだおばあちゃん、五十五でしょ? 真っ白なんてすっごく老けて見えるよ。おばあちゃんキレイなんだから、もっと若々しくするべきだよぉ」
 祖母の白髪はとてもキレイだ。今でも充分祖母はキレイだ。光輝の心に、ちくり、と憤りが宿った。
「そうなのかい? そんなに老けて見えるのかねえ?」
 祖母が視線をこちらに寄越した。物問いたげに光輝を見つめている。もちろん彼は言うつもりだった。はっきりと、
「おばあちゃんは白い髪の方がキレイだ!」と。
 だが、千秋の眼差しが気になった。
 何かで祖母に窘められると、千秋は隠れたところで光輝を殴ったりする。光輝が告げ口をしたからだと理不尽な言いがかりをつけるのだ。自分の思い通りにならないと何でも人のせいにする短絡思考の持ち主。余り利発でないのだろう。気に入らないことがあっても言葉で返せないから、すかさず手が出るのに違いない。
 千秋に怯えていたわけではない。けれど、いつにも増してギラギラする従姉の睨みに、一瞬答えが遅れた。すると祖母は、
「そうかい。染めた方がいいのかねえ……」
 光輝の躊躇を賛成の意思表示と受け取り、一人で納得してしまったのだ。
 違う。慌てて否定しようとした。が、千秋が祖母に甘えるように抱きついて、
「ね、おばあちゃん。あたしが色、選んだげるよ。今度一緒にショッピング行こっ!」
 勝手に話を進めてしまう。もはや光輝の入る余地はなかった。祖母が納得して行うのなら誰も責められはしない。たとえ光輝がどんなに失望したとしても。
 
 
 それ以来、祖母は髪を栗色に染めた。
 陽に透ける、銀の煌きは何処にもなくなった。前ほど祖母が美しく思えなくなったのは何故だろうか。
 一度見てしまった。祖母が洗面台で髪を染めている場面を。シャワーですすぐ指の隙間から、茶色い液体が流れ落ちる様に、そこはかとなく悪寒を覚えた。汚れた湯水がひどく汚らしい物に思えてならなかった。
 その瞬間、光輝の中で、祖母に対するイメージの何かが壊れるのを感じた。それまでは、暇さえあれば祖母の部屋に足を運んでいたが、もう側に近寄る気にもなれない。自然に光輝は祖母から離れていった。
 光輝の家の一角に祖母のための部屋がある。南向きの日当たりのいい場所。広い洋間と和室。和室には祖父の仏壇があり、洋間には、祖父との思い出の品が数限りなくあった。そのどれもが英国で暮らしていた頃の物。祖母の中で一番輝いていた人生の象徴。
 光輝はその品々を眺めながら祖母の思い出話を聞くのが好きだった。小さい時から暖かい膝の上で、幾つもの輝く記憶を、まるで物語のように心に焼きつけていったのだ。それこそ与えられたお話の本よりも、もっと物語に思えたのは、祖母の煌く記憶の断片。何もかも全てがこの部屋から連動している。
 それは余りにも謎で、余りにも非現実で、心の中に祖母に対する確実な印象を形作っていった。こんなに近くにいながら何処か遠い存在に感じさせられる。触れることのできる身近な祖母は、確かに光輝の血の繋がった『おばあちゃん』だ。だが非現実の記憶の祖母は、光輝にとっては、神であり、魔女であり、精霊であり、物語の登場人物以外の何者でも有り得ない。
 少しずつ形作られた幻想が、深く脳裏に刻まれている。果てしない憧憬。畏怖と尊敬。現実から解き放たれた物語の世界。いつかきっと、同じ輝きを手に入れるのだ。そんな漠然とした未来への希望。それが全て祖母へと繋がっていく。祖母の白い髪はまさに、光輝が抱く非現実の在り処だったのだ。
 けれど既に失われてしまった。光輝の非現実は栗色に台無しにされた。もう一度祖母の部屋で思い出の品を眺めたとしても、きっと物語は元通りには煌かないだろう。早々と心の中でそう決めつける。物語を失った時から心の拠り所の一部も失った。空虚が支配し始めるのを止める術など知らない。
 光輝の変化に祖母はいち早く気づいた。あからさまに避ける態度。そして笑わなくなった最愛の孫。
 祖母に呼ばれ、渋々ながらも足を運ぶ。あの思い出の部屋へ。憧れ続けた物語の原点へ。
 光輝が部屋に入った時、陽射しの中で祖母は笑っていた。期待したところで髪は銀には煌かない。失望の表情をまざまざと浮かべ、招かれるまま、側まで歩み寄った。
 不思議な香りがする。香水だろうか。母親がつけているような香水とは違う。もっと濃厚で、それでいて控えめな印象。すぐ側から香るのではない。見回して気がついた。出窓に置かれた、煙を細々と上げている品物。英国のアンティーク・ショップで祖父にプレゼントされた香炉だと前に聞いた。そこから香りが顔を覗かせている。思い返せば、祖母の部屋にはいつもこの香りが漂っていた。光輝の記憶の奥底で、物語が頭を擡(もた)げ始めた。
「おばあちゃん、光輝の嫌がる事をしたんだね?」
 一言で的を射ていた。
「もしかして、光輝はこの髪の色が嫌いなのかい?」
 見透かされている。何もかもお見通しだった。そこにいるのは千秋の言葉に困っていた祖母ではない。物語の中で、余すところなく人の心を言い当てる占い師。そんな役割の祖母がそこにいた。
「おばあちゃん、僕……」
「いいんだよ。本当の事を言いなさい。この部屋では隠し事はできないんだって、前に二人で決めただろう? 何でも言っていいんだよ、光輝」
 柔らかい声が光輝の心を後押しした。
「僕……僕、そんな色嫌いだ。前のおばあちゃんの方がいい。白い髪のおばあちゃんの方が、ずっと、ずっとキレイだよ!」
 祖母は笑っていた。
 後になって気がついたのだが、祖母は知っていたのだろう。光輝が祖母に対してどんなイメージを抱いていたのか。だからこそ、彼のために永遠に物語の人物でいようとしてくれたのかも知れない。
 この日から、祖母は二度と髪を染めようとはしなかった。陽に透けて輝く銀の光を纏い、いつまでも光輝の非現実を維持してくれた。最愛の孫が、未来へ希望を持ち続ける手助けをしてくれたのだ。祖父が迎えに来るその日まで。
 
 
 葬儀は曇り空の下、しめやかに行われた。色とりどりの花に囲まれた祖母と最後の別れの時がくる。光輝は真っ白なユリの花を捧げた。祖母は口元に笑みを湛え、安らかに眠っている。
 棺が車に乗せられた。門を滑り出ていく。これから祖母を見送る儀式があるのだ。親族一同も後に続いた。厚い鉄の扉の中に棺が収められてからは、光輝たちはただ茫然と時を過ごすしかなかった。祖母の抜け殻を、大切に持ち帰らなければならないから。
 待合室の外に出て空を見上げた。煙突から白い煙が立ち昇っている。あれは祖母が天へ昇るための道だ。光輝はただ黙って、煙が揺れるのを見つめていた。
 ふと側に目をやると千秋の姿。隣に立つ千秋も空を眺めていた。すぐに視線を下ろすと光輝に言う。彼女はずっと、孫の中で一番大事にされていた光輝が気に入らなかったのだ。
「光輝、残念でしょ、おばあちゃんがいなくなって。もうお小遣いいっぱい貰えないもんね」
 彼は不機嫌に返す。
「いい加減にしろよ、千秋姉。おばあちゃんはもう死んだんだぞ。二度と僕たちに笑いかけてくれなくなったんだぞ!」
 真剣な光輝の態度に千秋は怯んだ。すぐ手が上がったが、力なく下ろす。ふんっ、と勢い良くそっぽを向いたかと思うと、待合室に向かって駆け出した。
 今ほどデリカシーに欠けた従姉が憎らしく思えたことはない。祖母に対する考え方が違うからと言って、時と場合によっては許されない言葉もある。前にも増して千秋が嫌いになった。恋人にするなら絶対こんな女の子だけはごめんだ。
 待合室の前でまた何かをしでかしたのか、千秋は両親に叱られていた。いい気味だ。少しは大人しくなればいい。そう思いながらも、何処か心の片隅がちりちりと痛んだ。
 救いを求めたくて空を見上げる。祖母の煙が天を目指していた。白い煙は高みに近づくほどに細くなり、やがて雲との境がなくなってしまう。まるで雲に姿を変えていくみたいだ。
 その時、厚い雲から太陽が顔を覗かせた。幾筋もの光が、煙を、雲を照らしている。白い煙も、白い雲も、銀の光を纏って輝き出した。それはさながら、祖母の白い髪のように。
 脳裏に柔らかい笑顔が過ぎった。物語の祖母が今まさに微笑んでいる。祖父との思い出を語る祖母がまざまざと蘇った。長い長い時を経て、漸く祖父のもとへと辿り着けたのだ。そして、祖母は光輝の中で永遠の物語に変化した。
 ――おばあちゃん。やっぱりおばあちゃんの髪はキレイだよ。
 空の彼方で祖母の幻影が微笑んでいた。綺麗に編み上げられた白い髪を、銀の光に煌かせながら。
−Fin−
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