はなよめ
花嫁
白い物語ロゴ
 明るい窓の側で姉が着物に袖を通す。白い、何処までも白い花嫁衣裳。眩い光の中で薄っすらとした笑顔をこちらに向けた。
 舞(まい)はドキドキしながら、そんな姉の様子を見守っている。十五も離れた姉は、姉と言うよりは母に近い。幼い時に両親を亡くし、ずっと二人きりで暮らしてきたから尚更だろう。誰よりも美しく、誰よりも優しく、誰よりも頼りにしているたった一人の姉。そして今、舞の姉は世界一美しく輝いていた。
(お姉ちゃん、きれい……)
 声もなく見つめ続ける舞に、姉は明るい声で言う。
「どう? 変かしら?」
 急いで首を左右に振り、やっぱり声もなく見つめ続けた。
「馬鹿を言わないで、変な訳ないでしょう。こんなに綺麗な花嫁さんが他にいるものですか。ねえ、舞ちゃん?」
 笑いながら叔母が仮縫い中の着物の合わせを確かめている。叔母の問いに、はにかみながら頷いた。
 愛想のいい笑顔と人懐っこい表情。きめ細やかに姉妹の世話を焼いてくれる、母の弟である叔父の奥さん。まだ若々しい叔母が、可愛がってくれる叔父共々大好きだった。
「本当に、響子(きょうこ)は姉さんの若い頃にそっくりだ。姉さんや義兄さんが生きていれば、どんなに喜んだだろう……」
 沈んだ声で言った後、叔父は思わず口篭もった。姉の笑顔が途切れ、目を伏せてしまったからだろう。しかし舞も姉も、両親のことを言われたところでもう諦めはついている。気にする必要などない。そう思い、叔父の顔を見つめた。
「あなたったら……おめでたい話に水を差すような言い方をしないで……」
 叔母もそんな風に言う。
「叔父さん、叔母さん、どうかお気遣いなく……」
 姉の笑顔は元には戻らず、目は伏せたままだ。
 舞は思う。
 両親がいないのは仕方がない。二人とも交通事故で、あっと言う間にこの世を去ったのだから。舞はその時、五歳だったろうか。成人していた姉が大学を辞め、家計を支え続けてきた。幼稚園の入園式も、小学校の入学式も、母の代わりに姉が一緒にいてくれた。参観日だって、運動会だって、学芸会だって、みんなみんな姉の笑顔があったのだ。小学校の卒業式も姉が出席してくれるはずだ。今度は多分、義兄も一緒に。今さら両親がいない事実を悲しんだところでどうにもならない。その分、姉が愛情を注いでくれている。両親の分と姉自身の愛情を。舞はそれをひしひしと感じていた。密かに感謝もしていた。
 この五年間、自分の幸せなど省みず、姉は舞のためだけに生きてきた。その大好きな姉がやっと幸せを掴もうとしているのだ。嬉しくないはずがない。そして姉が新しい生活を始める頃、舞には叔父の家での楽しい生活がやってくるだろう。何しろ姉妹の身寄りは叔父しかいないのだから。そう信じて疑わなかった。それも密かに嬉しい事。
 叔父は明るく楽しい人で、気の利いた面白い話をしては姉妹を元気づけてくれた。叔父の家には男女揃えて子供が五人もいて、賑やかなことこの上ない。二人きりの暮しに慣れた舞には羨ましくて仕方がなかった。従兄妹たちの騒がしさも兄妹喧嘩も、ずっと憧れていたのだ。叔父の家族の一員になれれば、一気に新しい兄妹が五人もできる。どんなに楽しいだろう。ワクワクしながら、叔父がその話を持ち出すのを心待ちにしていた。
 だがこの日、叔父が初めてその話をした時、姉は申し出を断った。叔父がどんなに説き伏せようとしても、頑として受け入れようとはしなかった。
 叔父と叔母が困った顔で帰ってしまってから、舞は窓を見つめ、ポツリと呟いた。
「お姉ちゃん、どうして……? 私、叔父さん家に行くの、嫌じゃないのに……」
 夜空の窓に映る姉の顔は申し訳なさそうで、小さい頃友達が飼っていた犬を見て欲しがった時や、ピアノを習い始めた友達に誘われて習いたいと言った時の、心苦しそうな表情を思い起こさせた。
「ごめんね……舞……」
 やっぱりあの時と同じく姉はそう言った。
 舞のささやかな夢はいつも経済状態に阻まれて叶わなかったが、今度ばかりは違うだろう、そう思っていたのに。
 その後、叔父は何度も舞を引き取りたいと訪ねてきたが、姉はどうしても首を縦には振らなかった。
 
 
「ねえ、響子ちゃんたら結婚してすぐアメリカに行って住むんだって?」
 アパートの前の曲がり角で、舞の足は竦んだ。
「旦那さんになる人のお仕事の関係だそうだけど」
「じゃあ、舞ちゃんはどうなるんだろうねぇ。こないだから叔父さんが来て舞ちゃんを引き取るのどうのって話だけど、響子ちゃんは嫌がってるって言うじゃないか」
 近所の小母ちゃんたちの声だ。アパートの前で立ち話をしている。その内容は愕然とするものだった。
「まさか、施設にやろうってんじゃないよねぇ」
「そんなひどい事、響子ちゃんがする訳ないじゃないか。でもねぇ……」
 小母ちゃんの一人が舞の影に気づき、言葉を呑み込んだ。
「あ、あら、舞ちゃん、お帰り……」
「た、ただいま……」
 そそくさと、小母ちゃんたちが自分の部屋に引っ込む。舞は、今の話を振り払うように首を振り、慌ててアパートの階段を駆け上がった。
「お帰り舞ちゃん」
「コ、コウキお兄ちゃん……こんにちは」
 玄関を入ったところで声をかけられ、真っ赤な顔で挨拶をした。
「久し振りだね、舞ちゃん。また宿題見てあげようか?」
 舞の顔がぱっと明るくなり、元気な声が言った。
「うん! ありがと!」
 もうすぐ義兄になる光輝(こうき)が、舞は何故だか大好きだった。初めて会った時からインスピレーションで気に入ってしまった。何よりも姉が選んだ人なのだから、嫌いになんてなれない。だが、そんな義務感を吹き飛ばすほど、光輝は優しくて頼りがいのある兄貴振りを発揮してくれた。今では一日も早く、光輝が本当の兄になってくれる日を待ち望んでいる。
 姉が夕食の仕度をしながら、仲睦まじい二人を時々振り返る。微笑んで舞を見つめる姉の表情は、まるで陽だまりのように暖かだった。
 ちらりと先程の小母ちゃんたちの話が脳裏を掠めた。アメリカなんて話は、今まで姉の口から一言も聞いたことはない。けれど姉の笑顔を見ていると、小母ちゃんたちが口走っていた話など嘘っぱちに違いないと思えた。きっと舞と離れたくないから、一緒にアメリカに連れてってくれるんだ。アメリカ……どんなところだろう? どんなところだって、姉と義兄が一緒なら楽しいはずだ。
 光輝も交えて三人で食卓を囲む頃には、すっかり小母ちゃんたちの話は気にならなくなっていた。宿題が終わってからも光輝は一緒に遊んでくれ、もう舞が床に就かなくてはならない時間になって、漸く玄関へ足を向けた。
 夢うつつの微睡みの中、姉と光輝の会話が耳に入り込んできた。
「叔父さんの話、断ったんだって?」
「ええ」
「でも舞ちゃんをアメリカなんかには連れて行きたくないって言ってたじゃないか」
「それで、あなたにお願いしたい事があるの……」
 玄関の扉が閉まる音がして、その後、二人の声は遠ざかっていった。
 蒲団に包まりながら震えが止まらなかった。今の話はいったい何だったんだろう。アメリカには連れて行きたくないって、姉が言っていた……そんな! 叔父さんの話も断り、一緒にも連れて行ってくれない。なら舞は? 姉が結婚式の後アメリカに行ってしまったら、舞はどうすればいい? 舞は何処に行けばいい?
 施設――小母ちゃんたちの言葉がぶり返してきた。ウソだ! お姉ちゃんは舞を見捨てたりなんかしない! 舞を置いてったりなんかしない!
 だが、明確な答えも得られないまま、日々は残酷に過ぎていく。刻一刻と近づく結婚式。姉はいつもと変わりなく、舞の世話と結婚の準備に明け暮れる毎日。姉の笑顔を見ると束の間の安堵は感じるけれど、夜になり、暗闇がやって来る度、行く末の読めない現実が思い返される。捨てられるのが怖い。姉に確かめるのはもっと怖い。結婚式が終わって姉が行ってしまったら、舞は独りぼっちでこの部屋に置き去りにされるのだろうか。それとももっと、ひどい結末が。……施設……どんなにいいところだって、独りぼっちなら行きたくない! 現実と夢の狭間で心が乱れて揺れ動いている。やがて押し潰されそうになる。今まで感じたこともないほどの不安感で。
 答えが欲しかった。とにかく答えが欲しかった。自然と途切れがちになる笑顔。それを案じる姉の姿。姉を心配させまいと無理にでも笑うしかなかった。側にいたかったから。いつもいつも、姉を身近に感じていたかったから。
『お姉ちゃん、置いて行かないで!』
 夢の中で、何度もそう叫ぶ夜が続いた。
 
 
 爽やかな光に包まれた六月の朝。姉の結婚式は舞の誕生日でもあった。
 式場のロビーで舞は黙って俯いている。綺麗なドレスを着て、頭に幾つも花を飾って。
 姉が晴れの門出の仕度をする間、深々としたソファーに身を埋め、ピカピカの赤い靴を見つめながら不安に怯えていた。この期に及んでまだ姉の口からは何も聞かされてはいない。式が終わったら舞の居場所は何処にもなくなってしまうのに。
 終わらなきゃいいんだ……ううん、始まらなきゃいいんだ、結婚式なんて。時が止まってしまえばいい――目まぐるしく回る想いを振り払い、泣き出しそうな顔で必死に不安と戦っていた。
「舞ちゃん?」
 不意に声をかけられ、驚くと言うより怯えて顔を上げた。綺麗な着物を着た、優しそうな小母ちゃんが舞を覗き込んでいる。着物よりももっと小母ちゃんの方が綺麗だった。
「やあ、君が舞ちゃんだね? 響子さんに聞いていた通り、とても可愛い子だ」
 小母ちゃんの隣に小父ちゃんがいた。やっぱり優しそうで、何処となく光輝に似ていた。舞は言葉もなく二人を見上げている。
「本当はもっと前にご挨拶するはずだったのよ、この小父ちゃんがお仕事でなければね」
「済まないね、会うのがこの日になってしまって。私たちはね、光輝のお父さんとお母さんなんだよ」
「そして、これからは舞ちゃんのお父さんとお母さんでもあるのよ」
「えっ?」
 信じられない言葉が耳に飛び込んできた。訳もわからず戸惑う瞳を見て、光輝の母はとびきりの笑顔で言った。
「まあ、響子さんはまだ舞ちゃんに伝えてなかったのね。そう言えばお誕生日だから驚かせたいとは言っていたけど。……あ、私たちの口から言ってしまっても良かったのかしら?」
「言ってしまったものは仕方ないじゃないか。光輝のお蔭で私たちには娘が二人もできたんだ。これからはもう、舞ちゃんは私たちの可愛い娘だよ」
「そうね。結婚式が終わったら、舞ちゃんは私たちの家で暮らすのよ」
 非現実な言葉が展開され、頭は混乱するばかりだった。いったい何が起こっているのか理解できない。戸惑いは舞を硬直させ、瞳は瞬きもせず、唇は動かない。舞の戸惑いを感じた光輝の母は、
「舞ちゃん。お姉ちゃんのお仕度、見に行きましょうね」
 と、手を差し出した。そして光輝の父も。
 二人に手を引かれ、舞はそろそろと歩き出す。不思議な感覚がそこにあった。幼い頃から夢に見続けた風景。決して叶うはずがないと思っていた瞬間。誰が見ても、彼らの姿は親子にしか見えなかっただろう。
 花嫁の控え室には、眩いばかりの姉が花嫁衣裳に身を包み、静かに佇んでいた。光輝の両親に深々と頭を下げ、舞を引き寄せて言う。
「ごめんね、舞。舞の不安が痛いほどわかっていたのに、今まで何も言わなくて」
 黙って姉の顔を見上げた。
「アメリカにね、連れていくのが怖かったの。だって、言葉もわからない国で、舞が独りぼっちで淋しい思いをするんじゃないかって……心配で、心配で……」
 姉が舞の手を握り締めた。握り返しながら言う。
「じゃあ、どうして叔父さん家じゃダメなの?」
「だって……」
 部屋の片隅にいる叔父の視線を捉え、姉は遠慮がちに言葉を紡いだ。
「叔父さんのお家だって大変なのに、舞をお願いする訳には行かないじゃない。これ以上、叔父さんにも叔母さんにも迷惑かけたくなかったの。私たちだけになった時、いろいろお世話になったのだって心苦しいのに……」
 舞は考えたこともなかった。叔父の家だって、そんなに裕福なわけではない。ましてや高校生を筆頭に五人も子供がいるのだ。小学校も卒業していない舞が一人増えるだけでも、その負担は大変なものだろう。姉は早々とそんなことを憂慮していたのだ。
 控え室の片隅で、叔父が済まなそうな顔で姉を見つめている。叔母がハンカチで目を押さえた。
「本当はね、舞がもっと大きくなるまで結婚はしない、って思ってたの。でも光輝さんがアメリカに行くことになってしまって、どうしても急がなくてはならなくなってしまって……お義父さんとお義母さんにお願いしたら、是非、舞と一緒に暮らしたいと言ってくださって……そうでなければ、このお話はなかったことにしようと思っていたのよ」
「私のせいで……私がいるからお姉ちゃんが結婚できないなんてヤダ!」
 ついに舞は泣いてしまった。姉がこれ以上、自分の幸せを捨て犠牲になるなんて我慢できなかったのだ。いや、それよりももっと、姉がそんなにまで舞の将来を考えていてくれたのが嬉しかったに違いない。それなのにこの数日間、姉の結婚式が始まらなければいいと思い、姉を恨んだりもした自分が情けなく思えてならなかった。
「ゴメンね、お姉ちゃん……ゴメンね……」
 舞は一つの言葉を呑み込んだ。『お姉ちゃんを信じなくて、ゴメンね……』と。代わりに涙が止め処なく流れていった。
「舞、お姉ちゃんこそごめんね。こんなに舞を不安にさせて……」
 姉の涙が舞の頬に落ち、混ざり合って床に消えた。
「あらあら、せっかく綺麗にお支度ができたのに、花嫁さんが泣いたりしちゃダメじゃないの。舞ちゃんも、可愛い顔が台無しよ」
 光輝の母がいい匂いのするハンカチで、舞の涙を拭ってくれた。叔母が涙ぐみながらも姉の化粧を直し始めた。降って湧いたような幸運に喘ぎ、実感がないにも拘らず、光輝と同じようにインスピレーションで、光輝の両親にも親近感を覚えた。それまでの底なしの不安感が一気に粉砕される。
「舞ちゃん、ピアノ習いたかったんですって? 家にはピアノがあるのよ。光輝は途中で止めてしまったけど、舞ちゃんにはずっと教えてあげたいわ」
 舞の胸がどきりと鳴った。
「小母ちゃんが教えてくれるの?」
「ええ、喜んで」
 幸せの実感が、一足一足、舞に近づいてくる。
「それだけじゃないぞぉ。舞ちゃん犬を飼いたかったんだって? 家には小犬が三匹もいるよ」
 耳に聞こえるのじゃないかと思うくらい、胸が高鳴っている。
「ホント? どんな犬? 幼稚園の時、お友達がとっても可愛いマルチーズを飼っていたんだよ。すっごく羨ましくて、ずっと欲しいって思ってたの……家はアパートだから、犬なんて飼えなかったから……」
 語尾が沈む舞の頭を撫で、光輝の父は笑った。
「マルチーズじゃないけど、とっても人懐っこくて可愛いんだ。舞ちゃんならきっと気に入るさ。可愛がってくれるだろう?」
 ぱっと明るい笑顔を咲かせて、元気な声が言う。
「うん! 大事にする!」
 いつの間にか、扉の側に光輝の姿があった。花嫁と義妹を暖かく見守っている。
 姉は光輝を見つめてから、舞の手を取って言った。
「舞、お誕生日おめでとう」
 舞にとって十番目の誕生日が、永遠に忘れられない誕生日になった。姉が幸せを掴んだ日。そして、舞自身も幸せを――諦めていた夢を掴んだ日。姉に、光輝に、叔父と叔母に、そして新しい両親に、舞は感謝の気持ちを篭め、『ありがとう』と心の中で呟いた。姉の手の温もりを確かめながら、舞は力強く言った。
「お姉ちゃん、コウキお兄ちゃん、ご結婚おめでとう!」
 幸せの実感が、舞のすぐ側で微笑んでいた。
−Fin−
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