いぬ
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 麻里子(まりこ)の家に小犬がやって来た。
 やっと買ってもらった念願の小犬。真っ白でムクムクのマルチーズ。芸の無い麻里子はそのまま『ムク』と名づけた。
 ムクは元気いっぱいでやんちゃな小犬。麻里子の行くところは何処にでもついて来たがった。一度は幼稚園のお迎えバスにまで乗り込もうとして、園児たちに囲まれてくしゃくしゃにされた。
「もぉ〜ダメよ。ムクはおるすばん」
 言われて玄関で麻里子を見送る。切ない声でムクは鳴いた。
 その時にはもう、麻里子は気づいていた。
 ムクがいれば誰もが寄ってくる。ムクがいれば、麻里子は人気者になれる。友達の誰もムクみたいに可愛いペットを持ってはいない。友達の中で麻里子だけが、自分のペットと呼べるものを持っているのだ。
 六歳にして麻里子は、優越感というものの小気味良さを覚えてしまった。
 それからは、いつでもムクを連れて歩くようになった。残念ながら幼稚園には連れて行けないけれど、帰ってきて公園で遊ぶ時には、はしゃぎながら歩くムクを足元に纏わりつかせていた。
「まりこちゃんのワンちゃん、かわいい!」
 誰もがみんな口を揃える。そうして羨望の眼差しを向けるのだ。麻里子自身が誉められたのでないにしても、小気味がいいことに変わりはない。取り分け大好きな智也(ともや)がいるところで、
「まりこちゃん、いいなあ」
 を、連発されるとひどく快感に思えた。
 おまけに、それを聞きつけた智也がサッソク飛んできて離れなくなる。人気者の彼がいつも側にいることが、ますます麻里子を鼻高々にさせた。
 他の子には気軽に抱かせないムクを、智也になら簡単に抱かせる。それを見て、周りの子供たちは一斉に声を上げた。
「まりこちゃんずるぅ〜い。あたしたちにもだっこさせてよ」
「ダメよ。ムクはおもちゃじゃないんだから」
 そう言って不器用にムクを抱き上げると、得意げな顔をする麻里子。
「まりこちゃん、いいなあ……」
 一番後ろで呟いたのは、舞(まい)だ。彼女の家はアパートなのでペットなんて飼えない。
「ふふ。いいでしょ」
 とたんに舞は寂しそうな顔をする。横目でそれを見ながら心の中でほくそ笑んだ。麻里子にとって、彼女は優越感を最大に刺激する存在だったのだ。
 
 
 麻里子の幼稚園に小犬がやって来た。
 しきりに見せびらかせたムクのせいで園児たちが大騒ぎになり、思い余った父兄の誰かが寄付でもしたのだろう。
 ムクとは全く違う、茶色い毛を持つクリクリとした目の柴犬。物怖じ一つせず、誰彼なしに鼻を寄せてくるやんちゃ者。
 もちろん園児たちは夢中になった。麻里子のケチケチした態度にうんざりしていたから余計、他人の犬にではなく、自分たちの犬に夢中になるのも無理はない。
 ムクを連れて公園を散歩しても、もう誰も集まって来ない。みんなは幼稚園が終わると、おやつを手に手に、親に内緒で小犬のところに向かうのだ。公園になんか留まってはいない。
 偶に声をかけるのはいつも大人。ムクの頭を撫でてはすぐに何処かへ行ってしまう。呆然と佇む麻里子の足元を、ムクが纏わりつくのさえ何よりも疎ましく思えた。
 帰り道で麻里子は、あらぬ方向へ行こうとするムクのリードを、苛立たしく乱暴に引っ張った。
 
 
「麻里子。ムクにゴハンあげなさい」
 キッチンで母が言う。
「やーよ。めんどくさいもん」
「ま、なーに? ムクは麻里子の犬でしょ? 自分から面倒見るって言ったのは麻里子じゃないの」
「だってムク、きれいにゴハンたべないもん! それに、まりこのだいじなクツ、くわえてボロボロにしちゃったんだよ。ムクなんか、キライ!」
 麻里子はそっぽを向いてふくれっ面をする。その足元で、ムクは不思議そうに首を傾げていた。
 次第に麻里子はムクから遠ざかり、散歩の時間になってもゴハンの時間になっても部屋から出てこなくなった。ムクがどんなに可愛くせがんでも、もう、これっぽっちも相手をしない。麻里子が部屋から出てくるまで、ムクはゴハンも食べずに蹲る日々が続いた。
 麻里子の不機嫌の理由は智也にもあった。
 幼稚園に小犬が来てから虜になった園児たち。智也もきっとその一人。前みたいに麻里子やムクと遊んでくれない。幼稚園の犬に智也を取られたと思ったのだ。
 そればかりではない。
 智也のお誕生会に麻里子は呼ばれなかった。他の子は次々と招待を受けるのに、いつまで待っても声がかからない。イライラと智也を見つめても、全くこの思いに気づかない様子。彼は麻里子をお誕生会に呼びたくないのかも知れない。
 麻里子は悲しくなった。智也に相手にされないだけでこんなに悲しくなるなんて。だからと言って、涙なんか流したくない。俯いていた顔をきりっと上げる。
 そこに智也の姿があった。人懐っこい笑顔が言う。
「まりこ。きょうおれんちで、たんじょうかいするんだ。くるよな?」
 麻里子は耳を疑った。
「だって、ともやクン、まりこのコトさそわなかったじゃない」
「ばっか。だからいまさそってるんだよ。きてくれるよな?」
 暫く考え込む。今さら取ってつけたように誘われても余り嬉しくなどなかった。
「まいちゃんは、まっさきにさそったくせに……」
 一番の不満が呟きとなって出た。
 麻里子にとって舞は、いつも自分より下でなければならなかった。両親のいない貧しい家の子。麻里子を常に羨ましく見つめている。麻里子は舞から見れば理想の家庭の子なのだろう。本当は仲良くしてやれば良いのだろうが、どうしても舞に敵意を抱く理由があった。
 原因はやっぱり智也だ。彼が舞の顔を見て可愛くて好きだと言ったために、幼いヤキモチで素直に舞と仲良くできなくなったのだ。
 一番大切な、智也のお誕生会に誘われるという栄誉を、よりによって舞に先を越された。その事実がひどく麻里子を傷つけていた。
「まい? ああ。まりこ、まいのコトすきだろ? いつもいっしょにいるじゃんか。だから、まいがくれば、まりこもうれしいだろ?」
 麻里子は答えない。拗ねた目で智也を見つめる。
「だって、まりこ、ひとがいっぱいいるほうがすきだろ? だから、まりこをさそうまえに、ほかのヤツラをさそったんだ。いちばんさいしょにまりこをさそったら、ほかにだれがくるのってきかれたとき、いえないもん」
「だからいちばんさいごなの?」
「そうだよ。いちばんだいじだから、いちばんさいご。かえったら、すぐおれんちにこいよ」
 一番大事。その言葉だけで麻里子の心は180度転換した。
「うん!」
 麻里子は久々に満面に笑みを湛えた。
 家に帰るとサッソク母に報告する。
「ママ、きょう、ともやクンのおたんじょうかいなの。いってもいいでしょ?」
 母は久し振りに笑う娘にほっとした。ムクのリードをつけながら言う。
「だったらムクも連れてってあげなさい。この頃ちっとも散歩に行ってないでしょ」
「ヤダ」
「わがまま言うんじゃありません。ムクが可哀想じゃないの」
「しらないもん」
 どんなに宥めても言うことを聞かない。母はすんなり諦めたが、ムクは諦めなかった。
 手早く仕度をして玄関に向かう麻里子の足元に、懸命に纏わりつくムク。麻里子は腹立たしげに叫んだ。
「うるさい! ムクなんか、ジャマなんだから!」
 ムクが怯んだ隙に玄関を飛び出す。だがムクは麻里子を追いかけてきた。
 駆け出す麻里子をムクは追う。背中から追いかけてくるムクの声を、努めて聞かないようにした。心はもう、智也の家に駆け込んでいる。
 その直後、背後で響いた鋭いブレーキ音まで、麻里子の耳には入らなかった。
 
 
 動物病院のロビーで、麻里子は智也と寄り添って泣いた。ムクはもう帰ってこない。二度と麻里子を追いかけたりはしない。
 麻里子は自分を責めた。ムクが車に轢かれたのは自分のせいだと言った。構ってやらなかったからムクは死んだのだと、そう思った。
 智也はそれを否定する。麻里子のせいじゃないと言う。ムクを失って一番悲しいのは、麻里子のはずだと強く言う。
 麻里子は泣いた。智也も泣いた。大人たちはそんな二人を遠巻きにして見守っている。
 麻里子は後悔した。
 どうしてもっとムクを可愛がってやらなかったのだろう。構ってやらないどころか理不尽な八つ当たりすらしてしまった。ムクはあんなに麻里子を、いつもいつも待っていてくれたのに。
 失ってしまって初めて、どれだけムクが大切なものかを知る。大好きで大切な可愛い小犬。ぽっかりと胸に穴が空くほど、ムクの存在は麻里子の中で大きく膨らんでいた。
「きっとムクは、まりこのコト、きらいになっちゃったね……」
「そんなことない。まりこがきらいだったら、なんでムクはおいかけてきたんだよ。まりこのコトだいすきだったから、ムクはまりこをおいかけたんだぞ」
 智也の言葉が胸に染みた。
「ムク……ゆるしてくれるかな? あそんであげなかったコト、おこってないかな……?」
 智也は黙って頷いた。
 
 
 それ以来、麻里子は犬を飼わない。ムク以上に可愛い小犬がいるなどと、決して思えないから。
 麻里子は気がついていた。
 ムクは何処かに行ってしまったわけじゃない。今でも麻里子の側にいて、いつでも遊んでもらおうとじゃれ回っているのだ。
 そんな気配がいつもする。小学校に上がっても、通学路の片隅で麻里子の後を追っかける気配。振り返っても風が通り過ぎるだけ。
 それでも信じていた。ムクはいつも一緒。いつでも麻里子の側にいるのだと。
「かまってやらなくてゴメンね、ムク。でも、ムクのコト、ホントは大好きだったんだよ」
 麻里子は心の中で呟く。
 風が通り過ぎる空間で、ムクが嬉しそうに鼻を鳴らせた。
−Fin−
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