篠山(しのやま)907m 附・小坂山(こさかやま)


 天気も良いし信州百名山をと思ったが体調も自信が無く、先週の冠着山に引き続いて、登りやすい山、ということで篠山を選んだ。私はこの山の麓の稲荷山という町で生まれ育ったので文字通り故郷の山である。しかし高校卒業頃引っ越したので、それ以後この山に登ったことは無い。麓を通った時、今この山はどうなっているのだろうと思いつつ眺めるだけで三十数年ぶりの登山となってしまった。現在の姿はどうだろう。多少楽しみを感じながら登り口に向かった。(写真は千曲市、屋代地区の千曲川土手から見たもの。右下の辺りから登りだして、崖の上あたりから尾根状を登り右から二番目の鉄塔の下を通り、小坂山へ。小坂山は写真の中央上部に左に平らに伸びている尾根状の場所。篠山はさらに奥の一番高い場所。猪平は小坂山と篠山の間、写真右上にある。千曲川は右手が下流。)
 家から40分位で登り口に到着。10時少し前に登り出す。この遊歩道ということになっているのは前から知っていたが、最近ネットで「信州山岳日帰りの旅」というHPに小坂山や篠山の紹介もあり、そこにも載っていた。案内標識もきちんとした物がついていそうだった。登る最中、稲荷山町づくり推進会議という標識が要所要所に立っていた。  登り口には昔、花火工場があり、その火薬庫があったと思ったが、立入禁止の古いブリキ板がまだついていて驚く。登り口から少し登った場所から南を見下ろすと、昔、小中学校や校庭のあった場所が見える。現在は市の公民館や市営住宅が建っているようだ。家の田んぼもこの辺りにあって、稲刈りをすると校庭から飛んできた野球ボールが何個か出てきたことを思い出した。学校の行き帰りの道には田んぼが広がり、田の水路で夢中になって小魚を捕まえていた。また、花火工場が爆発した事もあって、あわてて校庭へ逃げ出した思いでもある。周辺には住宅地が広がり、当時の面影はほとんど無い。
登りだしてすぐにお稲荷さんとよんでいた稲荷社になった。昔はもっと距離があったような気がしたがこんなに近くだったんだ。この付近の様子は昔と変わっていなかった。この辺りは子どもの頃虫取りをしたりした遊び場だったが、おそらく今は不審者などを恐れて子どもなど近寄ってはいけない場所になっていると思う。昔ここの境内ですもう大会などもやっていた記憶があるが、私の小学校高学年くらいには無くなっていたのではないかと思う?  お稲荷さんの横を抜けて右手の斜面を登り出すのだが、その前にお稲荷さんのすぐ西を走っているJR篠ノ井線の線路に出てみた。ここには山裾を南北に抜けるトンネルがある。子ども達にとってはこの線路周辺も遊び場の一つで、針金などを線路に置いてペッチャンコになるのを喜んだり、トンネルに入ってみたり、抜けたりなど、その冒険心を満足させていた。臆病な私は、人よりそのレベルは低かったような気がする。でも色々そんな事もしたと思う。六年生の頃には友達とレールぞいに歩いて、高雄山の所で紹介した佐野の滝辺りまで黄鉄鉱を取りに行ったが、途中鉄橋のような場所も歩いて渡っていった記憶があるが、今なら絶対許されない遊びであろう。
お稲荷さんの左手斜面を登りだしたが、もう夏草のような草が生えだしていて、こんな山へ今のシーズンに来たことを少し後悔しだした。昔松林で、下がざらざらの山の赤土の斜面で遊んだ記憶があるが、そこも今は松が枯れたりしているようで、他の木々が鬱蒼と茂りだして、ヤブもあり、とうてい子どもが遊ぶような斜面ではなくなっていた。一番上の写真のガケ(昔石切り場だったのだと思う)の上に立つと、昔よりザックリ切り取られていて恐ろしいようだった。今は廃棄物など埋められる場所に利用されているようでもあった。
 尾根にすぐ出たが、昔畑だったような記憶がある場所はアカシアの林になっていたり、尾根からの展望も鬱蒼とした木々にさえぎられてよく見えなくっていて、昔の記憶とほとんど一致しない。
 尾根から赤沢城という標識があったので、行って見たが、城跡らしい地形があったが標識が無く、確認できずに戻ってきた。尾根状を登りきると、やや平らな地形になるが、そこに「越将軍塚古墳」があった。昔は通っていても古墳がこんな場所にあるのは知らなかった。長野道のトンネルがこの下辺りを通っているので、高速道路通過による遺跡発掘などと関連してちゃんと調べられたものだろうか?ここを過ぎると、やや記憶にある風景の場所に出る。
、昔からこの辺りまで南の方からの農道が登ってきていて、りんご畑などが広がっている手入れされた山の果樹園地帯だった気がするが、現在は、農道はさらに広がっているようだが、畑は荒れかけている。りんごの木は無く、庭木の苗木のようなものが畑に植わっているような場所が多かった。以前のような山間の手入れされた果樹園や畑の美しい風景は無い。ここから黄砂で霞み始めた冠着山が見える。  ここに小さな円墳があって、中に入れた場所があったが、行って見ると、入り口が埋まりかかって、小さくなっていた。周りの様子も草に覆われて分かりづらくなっていた。狐穴古墳と説明版にあった。学校から線路を越えてこの辺りまでが、いわゆる子ども達の山の遊び場であり、きのこ取りの場であり、これから上は当時の我々小学生の意識では「山奥」という感じだった。
 案内板表示に従い、農道をしばらく行くと行き止まりになり、桂馬平、篠山、方面の表示があり、山道になった。この辺りからやっと「山道」という感じで付近の植生も、山の植物が増えてきた感じがした。ハルゼミの声も盛んにしている。しかし昔の記憶は蘇ってこなかった。しばらく登ると篠山方面と小坂山方面の分岐となる。小坂山も今日の目標にしてあるので、寄っていくことにする。この辺りは、昔は私たちは「二つ石」と呼んでいて、事実か知らないが昔死人を焼いた場所だ、などと聞いた記憶があって、何か恐ろしい場所というような感じで中学生になるくらいまで行ったことがなかった。現在来て見ると、ここは桂馬平という山城の一部のようで相当平らであった。昔こんなに平らだった場所あったかなあ?二つ石の標識もあった。  しばらく行くと、小坂山の石祠と三角点があった。小さいので四等三角点のようだった。標高660m。ここにはおそらく私は初めてきたのだろう。弟達が「二つ石」できのこを取ってきた事があったが、お年寄りに聞いて見たらそれは「いっぽんしめじ」というので食べられると言われた。当時生物に興味を持ち出した私は、「いっぽんしめじ」は毒だと言って、食べなかったが、ウラベニホテイシメジを昔の人はイッポンシメジと言っているのであった。家の人達が食べてももちろん何事もおこらなかった事もあった。
 分岐から、篠山まで一時間とある。猪平の池まで行って一息いれようと思い、のぼり出す。猪平は子どもの頃はその意味は知らずなまって「エンテラ」と言っていた。「エンテラ」には池があり、その周辺に山の田があり、篠ノ井地区の民家が何軒かあった。しかしそれはよその村であり、子ども達の意識では、探検家が奥地に入りこんで、原住民の集落を見ている時のような気分だった気がする。聞きなれない野鳥の声が聞こえたりするちょっと山の雰囲気の道から下りだして、小屋があったり、カエルの声が聞こえて、「エンテラ」が近づいてきた事を感じさせた。ところが、池が出てこなくて、だんだん登りになる。池辺りはゴルフ場のようだから避けて篠山直登コースにしてあるのかな?標識は無くなり、田んぼの雀避けテープの印が所々についていた。  そのうち、篠山の山頂部に近い感じの場所に出た。すると何と舗装された車道があり、折りしも軽トラに草刈り機を積んだ人達が大勢車で登っていった。なあんだ、こんな上まで車で来れるんだ。少し登ると、歩道もあり、今草が刈られたばかりというような道をどんどん登って行くと、大きい駐車場もあり、広場に先ほどの人達が集まって最後の挨拶をしているところだった。「公民館の」というような言葉が聞こえてきたので、下の地区の方々の作業日だったのだろう。塩崎地区を車で通ると、「長野市民猪平ふれあいの森」というような標識があって、猪平あたりなのかと思い、車で行って見たことがあったが良く分からず引き返した事があったが、それがこの篠山の山頂部だったのだ。
 頂上の三角点は、表示は無いので、道から見当をつけて行ってみたらあった。三等だった。時間は11時40分頃か、周囲はカラマツや笹で展望は全く無かった。西のピークへ道が続いていたので、もしかしたらそっちに展望場所があったのかもしれない。そちらの方がちょっと高そうだ。篠山に初登頂したのは、中学三年くらいだろうか?高校生になってからだっただろうか?弟達を連れて結構探検気分で登ったような気がする。山頂に立ったら、西側の信更町あたりの田や家が見えて何となくガッカリしたような気がする。山頂を踏まず山頂部の南横を抜けて、大田原への車道へ抜けていくコースは、もっと小さい頃だれか多分年上の従兄弟に連れられて行ったような気もするし、弟や年下の従兄弟と行って、途中の湧き水で飯ごうで御飯を炊いて食べたような気もする。そんな私にとっての奥山探検の場所であった。  山頂部は本当に、公園のように整備されていて、まさにふれあいの森という感じではあった。篠山は幼稚園の子に最適の山となってしまった。地図を見ても車道表示があったが、二万五千図の常で、林道が開かれても、荒れ果てたりして車が行かないようになっているのだろう等と想像していたのは間違いだった。
 篠山の山頂部は昔は「ガクリン」と呼ばれていた。学校の林があったらしい。(後日、千曲を読んでいたら、学林と呼ばれ、大正期から昭和10年代までの冬期暖房用ストーブの燃料として使用され、当時の稲荷山の児童生徒はその山出し作業を経験した。苦しくも楽しい作業だった、とありました。)地区の方々が帰っていって静かな森となったが、そこは昔を思い出させるものは何もなかった。「エンテラ」の池を確認すべく車道を下っていった。
 間もなく、ゴルフ場が見えてきた。池は埋め立てられてゴルフ場になっているのかな、と思ったがそのまま残っていた。地図を見るとゴルフ場は北側の下の方からこの池辺りが一番上で広がっている。池の周りは整備されたゴルフ場になっていたが、道からは柵で囲われていて、ゴルフ場の土地となっていた。  池の周りは柵がされて、池の土手までがゴルフ場の敷地になっていた。昔、春休みなどよく畦でふきのとうを取った田んぼも、池の周りにあった家も全く跡形が無く、整備されたゴルフ場のみが存在していた。写真を撮り終わって出ると、ゴルフ場の中を移動する車にのった人達がこの土手を移動していった。
 元に戻る道も分からなかったが、昔の道の跡のような道を戻ると、すぐに登りの時の道に戻れた。「エンテラ」に初めて行ったのはいつごろだっただろう。小学校の低学年頃、年上の従兄弟に連れられて、近所の子ども達の集団と行ったような気もする。必死になってついていったのではないだろうか。
 下る途中、ガケ上の辺りのニセアカシアの太い木が目立った林は、花のシーズンで香りはいいのだが、いかにも荒れた林という感じだ。(一番上の写真でも花のせいか白く見える。)ここは昔は畑があったような気もする。線路脇にあった親類の山の畑を見てみたら、ヤブや木々で昔畑があったことすら分からなくなっていた。この山の畑は親類のお兄さんに連れられて、小学校の低学年頃よく行って遊んでいた場所だった。
 子どもの頃のあの楽しい思い出や体験、瞼に残っている風景は中山間地の人々の生活や里山と人々との関わりが曲りなりにも存在していたからであった事を今回実感した。やはり人々が山間地の田畑、果樹園、林等を維持させていたので、その適度に管理された自然空間で子ども達が遊ぶことが出来たのだ。
 もちろん自分も含めて人々は、かってのそういった生活を捨てた現在の方が、便利で楽な生活を送っているので文句は言えないわけです。故郷は遠きにありて思うもの、まず自分の住んでいる場所で、少しでもそういった中山間地の農地とか、里山の景観について考えていく事が必要なのではと思った。。
 
 1時少し前下山、登り口には有名な善光寺地震の石碑がある。漢文で書いてある。
 篠山は頂上付近まで車で行け、途中のポイント猪平池がゴルフ場の敷地に入ってしまっていて予想していたとはいえ、昔の姿はもう思い出の中にしか残っていないのを実感した今回の登山であった。
 「追憶の山埋められてゴルフ場」 「ホタル見た田んぼもつぶれテニス場」
(2007,5、26)
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