山を考える(最近読んだ山についての本の紹介です。)


目次  1 日本の山はなぜ美しい  小泉武栄著  古今書院
     2 超火山 槍・穂高 地質探偵ハラヤマ北アルプス誕生の謎を解くー  原山智+山本明、著  山と渓谷
     3 松枯れ白書  松本文雄著  メタ・ブレーン
     4 剱岳(点の記) 新田次郎著 文春文庫 (小説です。)
     5 山城三十山 日本山岳会京都支部編著
     6 愉しかりし山 本多勝一著 すずさわ書店
     7 私のエベレスト峰 柳沢勝輔著 しなのき書房
     8 ぼくは猟師になった 千松信也著 リトルモア 
     9 生命の多様性 ウイルソン著 岩波書店
    10 いま自然をどうみるか 高木仁三郎著 白水社
    11 奪われし未来 シーア・コルボーン等 著 翔泳社
    12 ダーウィンの思想  内井惣七著 岩波新書
    13 キノコの教え  小川眞著  岩波新書

1、 「日本の山はなぜ美しい」ー山の自然学への招待ー 小泉武栄著 古今書院
  HP「山岳巡礼」の根橋平良さんの山行記はいつも興味を持って読んでいる。その根橋さんがアルプスハイキングに行かれた。日本人の中でも特にたくさんの日本の山を歩き、記録されておられる人の一人と思われる根橋さんが、アルプスの本場であるヨーロッパアルプスの景観などについてどのような感想を持たれるのか、とても興味を持っていた。
 すると、予想に反して?確かにすばらしい景観だが、何か根橋さんの心にはふれるものが少なかったような感じが文章からは受け取られた。(もしかしたら違うかもしれないが)体を使って歩かなかったからかもしれない。やはり、自分には日本の山が向いている、というような事も書いておられた。
 
 そうなのかな、などと思っている時のこと、一昨年の夏休み登山で、南アの聖岳へ登った時、山小屋で、私達の隣で3,4人で話されていた山談義の中で、(自分は横でただ聞いていただけ)ある人が「日本の山はなぜ美しい」という本を読んで啓発された、というような事を言っていたのを思い出した。
 それを聞いた当初、そんな本があるのか、と興味を持ったが、読んで見る事は無く、すっかり忘れていた。
 今回、そんな経過で、また興味を持ち、その本を注文して読んでみた。

 筆者は、小泉武栄(こいずみたけえい)1948年長野県生まれ、理学博士、現在 東京学芸大学教授。
 この本は、日本の山、その「高山帯」の景観、その個性と魅力はどこにあるか、を地形や地質、地球の歴史、植物生態などから総合的に研究している。
 また、著者は、レバノン山脈、アンデス山脈、ヨーロッパアルプス、アラスカ、チベット高原、崑崙山脈、ヒマラヤ山脈、などにも足を運んだり、資料で調べたりして、日本の高山帯との比較をしている。読んでみると、私などが気楽に読みとばせるような、いわゆる読み物という雰囲気は少なく、「じつはこの本は私の博士論文を随筆風に書き直したものである」と書かれているように学術的雰囲気の書であった。
 しかし、所々に、へーそうなんだ、だからそう何となく感じていたんだ、とか、そういうものなのか、などと日本の高山帯や自然への見方が啓発されるような所が、いくつもあった。
 最初の方の章からの引用
 「〜こうしてあげてみると、何ともいろいろなものがあるものだと感心してしまうが、この多様性こそ日本の高山帯の特色であるといってよいであろう。このような高山帯のモザイク状の自然景観はわれわれには見慣れたものであるから、高山帯とはこういうものだと思っている人が多いのではないかと思う。しかし世界的な視野からみると、これはけっしてありきたりのものではなく、かなり特異な存在である。日本の地形は小じんまりしていることから、しばしば箱庭にたとえられるが、高山帯の景観もまさに箱庭的なのである。以下ではなぜこのような複雑な景観ができるのかを考えてみたいと思うが、その前にいったん日本の高山帯を離れ、世界のおもな山岳地の高山景観を見てみよう。」
 まとめの方の章から引用
 「〜この本では、世界的な視野から日本の高山帯の自然を見てきたが、日本の山の美しさは、一口にいえば、高山帯の多様性に富む自然景観に代表されるといってよいであろう。これほど多様性に富む自然景観は、世界中の山を見渡してもほかにまずみられない。自然の多様性こそが、わが国の高山の第一の特色なのである。
 世界的に見れば、日本の山はけっして目立つ存在とはいえない。規模の点でもヒマラヤやロッキーにはとてもかなわないし、高さの点でもかなり見劣りがする。また小規模な氷河地形があっても、現存する氷河はなく、巨大な岩壁も欠いているから、ヨーロッパアルプスやグランドキャニオンのような雄大さにも欠ける。カナデイアンロッキーや北欧によくあるような、氷河湖と針葉樹林のつくりだす絵のようにきれいな景色もみられない。したがって全体としてみれば、わが国の山の自然景観はやや地味で、いささか迫力が不足しているといわざるをえない。
 しかしその反面、わが国の高山では、ブナ帯から亜高山針葉樹林帯を経て高山帯に至る垂直分布帯がよく発達しているし、谷には水が豊富で、清流と岩と樹木はみごとな渓谷美をつくる。また山の植物相と植物群落は世界に例をみないほど豊かで、高山帯にはこの本で紹介したようなモザイク状の複雑な自然景観が発達する。
 このような多彩な自然景観には、いかにも日本的なきめの細かさと「湿り気」が感じられ、私たちの心をなごやかなものにしてくれる。〜」
 自然保護については、
 「〜今私たちにできることは、日本の自然がいかにすばらしいかを明らかにし、それを国民すべてに知ってもらうことだと私は思う。日本人は、日本の自然のすばらしさをあまりに知らなすぎる。この本で私が明らかにしてきたように、日本の山の自然は、世界的にみてもたった一つしかないような、じつに貴重なものである。しかし、そのことは、国民の多くの人たちに伝わっていない。それが自然破壊を食い止められない原因になっているのである。〜」
 
  この本を読んでいると、日本アルプスの高山帯も屋久島や白神山地、知床半島のように「世界自然遺産」にしたらと考えてしまいました。(南アルプスではその動きがあるようです。)(2006,8,20)
2、「超火山「槍・穂高」ー地質探偵ハラヤマ北アルプス誕生の謎を解くー」   原山智+山本明 山と渓谷社
 
  最近書店に入っても、山の本のコーナーはあまり見ないのですが、久しぶりに立ち止まってみたら、この本の題名が目に入りました。手にとってみると注文した人が取りに来なかったのか、1年も期限ぎれの注文カードが貼ってありました。

 槍、穂高が火山?北アルプスは褶曲山脈で、火山は焼岳だけかな、と思っていましたので、どういう事なんだろうかと興味を持ったわけです。
 読んでみると、今までいだいていた北アルプスの地質についてのイメージが大きく変わり、深まったような気がしました。今までいだいていた北アルプスの地質の歴史は、地下で出来た花崗岩のような深成岩が隆起して、それが谷や氷河の侵食によって削れて険しい山になった、というものですが、何となく疑問というか、映像で見るヒマラヤやヨーロッパアルプスと成因が同じなのかなあ?何か山中に温泉がたくさんあるし、ちょっとどことなく雰囲気が違っていて、日本は地下のプレートがもぐりこんでぶつかる場所でちがうからなのかなあ?なんていう漠然とした気持ちを持っていましたが、この本を読んで見ると、そのへんの疑問がなるほどなあ、と解消される思いでした。

 槍、穂高は、超巨大火山のカルデラにたまった火山岩(溶結凝灰岩)が侵食隆起して出来たものであった。笠ガ岳、薬師岳は日本が大陸にくっついていた頃の巨大火山だった。雲ノ平溶岩台地のデコレーションケーキ状の中味は礫や砂利だという話。また後立山の爺が岳〜五竜岳も火山起源のものであった。等々のことが分かってくる。

 (「地表近くといっても、少なくとも深さ4〜5kmはある。その近くまで地下水が浸透しては温められて上昇してくる循環システムが、ここ中房温泉でも成立しているというわけさ」 しかし、ド肝を抜かれたのは探偵の次のコメントだった。 「マグマは温泉地帯のある場所だけではなく、地震波の調査によると、深い浅いの別はあっても北アルプスの広範囲な地下に広がっている。つまり、北アルプスの山々はマグマの上にポッカリと浮いている構造なんだよね」 マグマに浮いているーだって?それではまるで氷山みたいではないか。灼熱のマグマの海から顔をもたげている北アルプスの名峰たち。あまりにスケールの大きい話に、場当たりではなく立ちくらみしそうだ。)

 著者の原山智は現在信州大学理学部地質学教授、1953年長野県岡谷市生まれ。共著者の山本明はライター、編集者、長野県諏訪市生まれ。二人は、高校時代からの友人らしい。その山本明の筆によって、地質探偵ハラヤマホームズが山本ワトソンと一緒に、北アルプスの成因の秘密を解く鍵の問題の場所を巡って、その成因の秘密を解き明かしていくというような風に我々にも楽しく興味を盛り上げるように書かれている。
 また、内容は、よくNHKスペシャルなどの「地球大進化」など科学番組を見ているような壮大なイメージが北アルプスを舞台に浮かび上がってくると思う。(この本は、さらに、NHKスペシャルなどで、CGなど駆使した番組などにぜひ作っていただきたいなあ、そうすればさらに万人に分かるんじゃないか、さらに日本列島に乗っかって生きているという事の意味が人々によく分かる価値ある番組が出来るのに・・などとも思いました。)
 
 また、この本を読んでいると、二人のそれぞれの章の山行が、地質学習のコースのようにもなっていて、登山の話としても興味を持てるように書かれていたり、著者原山智のすさまじい調査活動(登山でもある)が、笠が岳山頂付近で命を失いかけたエピソードなどもまじえて、なまじなものではなかったことも想像されました。
 とても価値ある一冊ではないでしょうか。 (2006、11、11)
3、「松枯れ白書」 松本文雄著 メタ・ブレーン
  昨年、10月から12月にかけて、上田市の夫神岳東丘陵の松枯れ跡地を何回かにわたってハイキングのつもりで歩いてみた。すると丘陵西端に、廃棄物焼却場のようなものがあるのに気づき、以前からいだいていた松枯れの原因についての疑問が再燃してきた。そこで、新たにHPに、「夫神岳東丘陵の松枯れ跡地」というページを作って、今後も考えていこうときめた。勘だけでは何も言えないので、インターネットで松枯れに関する情報を得ようと調べてみるとこの本が出版されている事を知りすぐに注文して読んでみた。

 本の表紙に副題として、(松枯れの主因は大気汚染)とある。著者は松本文雄1939年生まれ、大阪府立大学農学系大学院卒 農業や環境などの学会員 1973年から高砂緑地問題研究会世話人。高校教諭をされていた人であった。

 この本は、1998年4月1日 初版第一刷発行とある。この本が発刊されてからすでに8年ほど時間がたっている訳だ。
 著者の住んでいる場所は、古来松の名所であり、謡曲「高砂」の兵庫県高砂市であり、自宅にある樹齢百余年の松に親しみ、その松を守ることから松枯れ問題に取り組むことになったとの事。そして次々と枯れていく松をただ座視するに忍びず、1973年から地元のメンバーと一緒に松枯れの調査研究をされてきた。元金沢経済大学学長の吉岡金市氏や元岐阜教育大学学長の村松繁樹氏等の指導も受けて種々の調査研究を実践してきた。
 その結果が、「松枯れの主原因は、大気汚染等の環境破壊であり、マツノザイセンチュウは衰弱した松樹にとどめをさすに過ぎないこと」はもはや明白になったとある。
 さらに、林野庁や当局側学者による誤った「虫因説」によって時限立法がされ、1977年1997年まで20年間数千億もの税金を使って昆虫や野鳥に被害を与えた農薬スミチオン等のヘリコプターによる農薬散布がされてしまい、しかもその効果は全く無かった、と怒りをこめて書かれている。
 
 松枯れの原因はマツノザイセンチュウと今も言われている訳だが、この本を読むと、著者らが1974年に高砂市で行った調査によると枯れ松からのザイセンチュウの検出率は52,2%であった。その他広島大学の1974年の調査でも三分の一も検出されなかった。また瀬戸内公害研究所の1982年の調査でも43,75%だった。
 また、吉岡金市博士が第80回国会参議院農林水産委員会で参考人として意見を述べた中には、国立林業試験場によるマツノザイセンチュウ接種結果、熊本県芦北郡では50パーセントしか枯れず、さらに阿蘇山の上の大分県との境の波野村では接種試験結果1本も枯れていないというデータがある。そしてこれらのデータは皆隠しているとのコメントまで参考人として述べられているという事が書かれている。
 マツノザイセンチュウが枯れ松の主原因であるならば、すべての場所で枯れ松に99パーセント以上検出されなければおかしい訳だから、素人にも「虫因説」の誤りは分かる。

 本では、さらに切り株による成長速度の調査により、松の成長が阻害されだしてきた時期が排煙を排出する工場群が出来た時期と一致する事や、地形による排煙の広がり方などの研究が紹介されている。高砂市西部の日笠山の山火事跡地に「松を植える会」などが中心になり、市民からのカンパで購入した四千本もの苗を植樹定期的にボランティアが手入れを行い、無事成長していた。公園にふさわしい立派な松林となっていたが、西側からの排煙の直撃地であったため全滅してしまった。典型的な大気汚染公害による松枯れの例、として1980年植樹〜1991年の枯れ死、までの四つのカラー写真も載っている。
 
 他の樹種に比して松葉が特殊な構造を持っている。松葉の気孔の凹んだ部分へ大気汚染物質が長くとどまることによる松樹の衰弱。酸性雨や酸性霧などで葉や根がやられる事も大きい要因との事。
 マツノザイセンチュウは、衰弱した松樹にはびこる糸状菌を食べて繁殖するので、松材を食べて繁殖するのでない。またカミキリ虫の気孔から体外に出るザイセンチュウをダニ類が食べてバランスが保たれていたのだが、そのダニは硫黄に弱く、大気汚染地域にはいなくなって、天敵がいなくなってザイセンチュウの繁殖をもたらした事、このようなことは1970年代には解明され林野庁も分かっていたとの事だ。

 著者は、松枯れの薪利用運動、松苗植樹運動(前述の枯れてしまったものなど)、ふる里の山名復活運動、を高砂市内で始めている。その中で聞いた古老の山の思い出の中で、高砂市内でマツタケが最後に採集された年が、1968年であり、この頃から高砂市内における松樹の枯れ松率が高くなっていると書かれていた。
 上小の山々、また塩田平の山々でもマツタケは有名である。(私はきのこにも興味があるが、観光園の囲いの中以外でマツタケを見たことは一度も無い)しかし、その数も減っているのではないか?観光園のマツタケの何割が地元産なのだろうか?塩田のマツタケなどとグルメ番組や観光番組のテレビで取り上げられることもあるのだが、松枯れについては取り上げられない。こんな事からも松枯れについての関心がもっと高まればいいのだが。

 昨年登った北アルプスの三俣蓮華岳の東斜面のカールの美しいハイマツも一部元気が無いような気がして登りながら心配になった。中国など東アジアの排出物による酸性雨などが話題になっている。多くの人々の心の中で大切なイメージとして持っている高山帯のハイマツが枯れてきたらどうしよう。それこそ回復は不可能だろう。

 この本を読み、自分がHPを作った当時、地元小牧山の松枯れについていだいていた漠然とした不安感はやはり本当のものなのではないか、という思いが強まった。おそらく、夫神岳東丘陵の松枯れについても、大気汚染が松枯れの大きな原因なのではないか。(塩田平の松枯れは、手入れの行き届かない林の林床の富栄養化などの要素も大きいような気もするので、切り株などもさらに調べてみたいと思った。)この本は、1998年に初版以後増刷されていないので、あまり人々に読まれていないのか?
 以前、大学で林学関係を学んでいた長男に松枯れについての私の考えを言ったところ、マツノザイセンチュウ原因説を言われて一蹴されてしまった事があったが、権力と結びついている御用学者の言っていることが政治的にも流布されていると、世の大勢がそうなってしまう事が多い。地元の生活者や当事者の勘の方が正しい事は、公害問題などではよくある事である。また幾多の薬害などでも繰り返されているパターンだと思う。
 夫神岳東丘陵の整備については、原因がどう判定されてなされたのか知らないが、そんな事についても興味を持った。
 松は大気汚染に弱い、ということで、私も自宅の庭に松を植えてみよう。そして上小三十山の松林についても興味を持って見つめ続けていこう、という気持ちの起こった衝撃的な内容の本であった。
 地球温暖化ももはや猶予の出来ない問題となってきている。松枯れにならない大気のある日本が本当に「美しい国日本」であるだろう。
 (2007,2、3)
4、「剱岳(点の記)」 新田次郎著 文藝春秋 (小説です。)
  新田次郎の小説「剱岳 点の記」の映画化が、この六月に決定、2009年に完成予定との事、そこで久しぶりにこの小説を読んでみました。
 明治40年7月、当時未踏だった北アルプスの剱岳に、陸軍参謀本部陸地測量部の測量官、柴崎芳太郎、案内人宇治長次郎、等の数名が、長次郎雪渓(後に長次郎にちなんで名づけられた雪渓)を登り初登頂した事実をもとにして書かれたフィクションです。
 「点の記」とは、5万分の1などの地図を作るために測量部で行われていた三角測量の基準点の位置を示す花崗岩の目印(三角点)の戸籍のようなもので、現在も国土地理院のHPから閲覧できます。
 フィクションとは言え、細部は別として基本的には事実を基にして、相当綿密に取材されているので今回読んでみても、思わず夢中で読んでしまう面白さがありました。
 (小説のあらすじ)
 陸地測量部の測量官となって三年目の柴崎芳太郎がその年の測量から帰ってきた時、測量部の建物の入り口で、微笑で会釈する銀行員風の男と目が合った。
 その男は、新設なった日本山岳会幹事、小島烏水であった。彼は中部山岳地方の5万分の1の地図の測量部への公開要請の挨拶に来た帰りであった。
 測量部に入ると部長の陸軍少将大久保徳明等から、まだ地図が完全でない剱岳周辺の三等三角点網の完成と、何よりも剱岳の初登頂を命ぜられる。その背景には、今まで日本全国の山頂に三角点を作るため登頂してきた測量部が新設の民間団体である日本山岳会に剱岳登頂で先を越される事で面子をつぶされる恐れがあった。
 柴崎はさっそく準備を始め立山の周辺の二等三角点網も作った先輩の古田盛作を訪ね、忠告を受けるとともに、すぐれた山案内人の宇治長次郎を紹介される。
 九月末、下見として立山へ向かった柴崎は富山駅に迎えにきていた長次郎と出会う。長次郎の家に泊まった柴崎は宮本金作らを加えて芦峅寺を通り入山。室堂へ泊まり、別山乗越を通り別山から剱岳を見たり、剣沢を下降して東面を偵察、別山尾根から登ってみるが、頂上へは至らず引き返す。同じ頃山岳会も偵察に入ってきた。
 山に雪が降り出し避難する帰り、室堂の玉殿(岩屋)に住んでいる修験道の行者を助けて麓まで連れてきて、その行者から「雪をいだいて登り、雪を背負って帰れ。」の言葉を聞く。
 行者は麓で亡くなる。
 次の年、明治40年四月末、柴崎は、測夫、生田信、木山竹吉を伴って、陸地測量部の期待を背負い剱岳周辺の三等三角点網の設置に出発する。
 長次郎ら案内人や人夫と三人は山桜咲く麓を出発し、雪原の大日平で第1日目をすごす。
 その日から選点のための地形偵察、選点、造標(やぐらを立てたり、埋石をしたりする。)、最後の測量が終わる秋までチームでの仕事が始まった。
 翌日は金カンジキをつけて大日岳へ登り山頂からの偵察が始まった。次の日からは、白ハゲの二等三角点へ偵察に行く途中ブロックなだれにとばされ撤退したり、また越中沢岳での偵察では帰りのザラ峠でみぞれの中、ビバークを余儀なくされ、あやうく凍死しそうになった事もあった。
 五月に入り、早月尾根上部へ三角点を設置し尾根をつめて登頂を試みるが、だめであった。山岳会も同様のコースで敗退する。
 次に別山尾根から登ることになり、前剱までは到達するも長次郎以外の人は登れそうになく、こちら側からの造標は無理と判断する。
 途中休養のために立ち寄った立山温泉では県の土木課の役人に部屋を独占されたりもする。
 六月、偵察、造標、などが手分けして次々と進められていった。七月に入り、選点が終了し、残るは剱岳のみとなった。
 梅雨の中、柴崎と長次郎はすでに行者なき玉殿(室堂の岩屋)へお参りに行く。そこで「雪を背負って登り〜」のおつげの声を聞く。柴崎は、長次郎が自己催眠の中で発したようにも思ったが、柴崎の考えとも一致し二人の心は長次郎雪渓(もちろん当時はそういう名は無い)を登ってアタックと固まった。
 7月11日、雨が降っていたが、気圧計の示度は急上昇する。梅雨の中休みを察知し、いそいで準備をし、長次郎ら案内人三名と生田測夫が登山を開始した。雪渓を金カンジキをつけ鳶口を持って登り、巨石を左側の雪渓に入り、稜線の鞍部に到達しようとする時、岩壁に突き当たった。四人ははだしになって、岩壁を登りきった。そこに岩尾根から雪田をへて山頂が見えた。わらじを履いた四人は、山頂をふみ、そこに古代の錫杖の頭と錆びた鉄剣を発見した。また山頂に人工的な岩のくぼみと昔の人が残したたき火の跡があった。
 山岳会の登山隊は天候の変化をつかみきれず出遅れたが雪渓入り口で見ていた柴崎らに向かい競争心も無く測量隊の登山技術に心から感心しているのだった。
 7月27日になり柴崎も登頂した。三等三角点は設置が無理なので四等三角点の覘標を建てた。
 現場を知る測量部三角科は登頂を喜んだが、現場を知らず山岳会との面子に最もこだわっていた陸軍測量部の上官は人が登った跡があると分かるとその成果を評価しなかった。
 剱沢の天幕場に人夫が届けた、そっけない測量部からの電報に反して、山岳会の小島烏水からの真の登頂の意味を理解していた祝いの電報に柴崎の目頭は曇った。
 剱岳登頂後も三角測量は本格的に進められていく。その様子実際の計測の様子も小説には細かく描かれている。
 十月、最後の観測点、西大谷山から望遠鏡の中心に剱岳の覘標の白い十字板を観測して終わり、お互いの仕事を感謝し合う。長次郎の目にも涙が光った。
 小島烏水と初めて会った日のような、雪が来る前の日暈のかかる空の下を一行は下山していくのだった。
  (あらすじ終わり)

 作者の新田次郎(本名、藤原寛人)は富士山気象レーダー建設も中心となって行った気象庁の役人だったことから、同じような国土を仕事とする技術者の役人に親近感をおぼえたのではないのかな。そんな気持ちもこの小説の力強さの要素ではないだろうか。剱岳登頂の日時までははっきりしないようだが、明治時代の天気図なども見て、天候から予想して小説に書いたようです。今回読んでみて、やはりその山の天候の表現が的確で詳しく、読んでいるものの臨場感を高めているなあとあらためて思いました。
 また、今回読んでみて、小説に描かれていても今まで意識してこなかった部分に、柴崎芳太郎の妻「葉津よ」の父は長野県の根羽村の素封家で、根羽村の三等三角点を設置に来た柴崎の仕事ぶりに感心して当時、東京で女学校を卒業した娘を紹介した、という話がのっていて、興味を持ちました。
 根羽村の三等三角点の「点の記」を国土地理院のHPから見てみると、やはり柴崎芳太郎の名がありました。
  
 映画では、この読書で湧いてくるイメージが再現できるだろうか?
 せっかくすごい制作費をかけているのだから・・。
  (2007、7、28)
5、「山城三十山」 日本山岳会京都支部 編著
                                 上小三十山を作ったのは、山城三十山を真似したわけですが、その経緯については、このHPの(30山あれこれ)の中の山城三十山に載せてあります。
 さて今回、山城三十山という名で、何となくアマゾンコムの本を検索してみたら、この本が出てきました。
 この本は日本山岳会京都支部が山城三十山を山行シリーズとして取り上げる事になり本にまとめたものでした。出版は1994年。
 これを読むと、私が読んだ今西錦司「山と探検」の中の(山城三十山)の文は、今西が京都一中の山岳部後輩達である、梅棹忠夫や川喜田二郎達の年代の人達に語っていた文であるらしいことが分かる。
 山行記は、現在のごく普通の地元の山岳会の会報のような内容であったが昔、梅棹等が作った「山城三十山記」も同時に載せてあり、また座談会が行われて、梅棹忠夫、大橋秀一郎、斉藤惇生(聞き手)の三名が当時の様子を語っている事、もう一つ川喜田二郎に単独インタビューで当時の様子を聞いている文ものせられている点が貴重な資料となっている。
 その部分を読むと当時の様子が色々とうかがわれて興味深い。

 <座談会からの引用>
 斉藤 いまお聞きすると、例会は山岳部の自分達で計画をたててやるわけですか。先生か顧問なんかおってチェックして、こうやこうやとか。
 梅棹 それは一切ない。
 大橋 それはなかったね。
 梅棹 登る時は生徒の自主、リーダーを決めるのも生徒の間で決める。そういうことですから〜

 梅棹 〜そのルームに休み時間になるとみな集まってくるんです。お昼とか放課後でなくてもね。10分の休みも来たんです。そういう所で相談が始まった。そこにはいろいろな本もあったし、地図類もあった。ワイワイガヤガヤやっているうちに話が出た。そこでは上級生から新入生までみないっしょです。
      (ルームに教科書を置いておいたという事が述べられていて)
     〜勉強なんかいっさいしない。ともかく、うちに教科書なんか持って帰らない。〜

 斉藤 〜しかし一中の校風というのはずいぶん面白い。教育方針は自主性というのか。
 梅棹 それはね、私が入った時の校長が山本安之助という、たいへんな人格者でした。君たちは紳士である、紳士として扱うからそう思えと最初に申し渡された。生徒たちはそういう自覚のもとに行動するんです。まったくの自由放任です。完全に生徒の自主性を尊重する。次第に軍国主義化が進んでくるにもかかわらず、兵隊のまねをするな、という。
 斉藤 そら、勇気ある発言ですね。
 梅棹 勇気ある。今でも覚えていますが遠足の時に、配属将校が前に進み出て、明日の朝はみんながゲートルを巻いてこい、といったんです。そうしたら校長がさっと前に出て、君たちはゲートルを巻く必要はない、といった(笑い)。配属将校は顔面蒼白(笑)。そういう教育ですからね〜  

             (また、山岳部の生徒達の知的好奇心や文化的なものへの姿勢はとても高いレベルのもだったことが述べられていて)
 梅棹 〜山岳部にはそういう文化的、知的伝統はありました。山城三十山というのもそういう文脈の中の産物なんですね。
       <座談会引用ここまで>

  当時の日本の中では、能力や環境に恵まれたエリートの少年達の集団だとは思いますが、自由を尊重され、知的、文化的に高い雰囲気の中で伸び伸びとたくましく成長していった様子がうかがわれます。
   三十山の登山についても、標高は低いが、谷が細かく入り組んでいる北山で地図読みを学んだこと、やぶこぎの事を「ジャンジャン」と言ってさかんに道の無いような山へ登った事、それらが後の探検にも生きていること、また三角点を意識して、それをめざして登り、見つけるとヤッホーをしたことなど面白い話が載っていました。三十山は日帰りのできる山に限ったという事で日帰りギリギリの山は、ハイヤーを利用することを思いついてやっと登ったとの事です。
   これを読んでいて、私は、中、高校生くらいの年代のこういったすばらしい雰囲気を良く表している作品に、本多勝一の「愉しかりし山」があることを思い出しました。
   今手元に無いので、またいつか再読してこの欄で取り上げようと思います。

  今西錦司、西堀栄三郎、梅棹忠夫、川喜田二郎、など、私は表面的な題目くらいしかその業績についての知識はありませんが、日本の中でも特筆されるような創造的な思想や行動をした人々がどのような中高生時代であったかという事は、今日の教育的課題にもつながっていると思いました。
 (2007,8,5)   
6、「愉しかりし山」 本多勝一著
 私が田舎の大学の教育学部にいた頃、1970年代初め。当時は都会でふきあれた学園紛争の余波が田舎にもおよんできて、私たちの周りにも、学園闘争的言葉の流行?があった。それは政治的でなければ価値が無いような雰囲気も持っていた。政治的関心など全く無かった田舎の二流高校出身の私は、寮などで都会出身の他学部の学生がそれらの言葉をたくみにあやつり会話するのをまぶしく感じ、劣等感から追いつこうと読書などもしてみたものだった。だが従来の保守的価値観はすてさるべきものだとは思えたが、それらの新しい革新的言葉にも何か自分にはしっくりこないものを感じていた。

 そんな頃、書店で「はじめての山」本多勝一著という本を見つけて何となく読んでみた。それは長野県出身のジャーナリスト本多勝一という人(新聞も読んでいなかったので知らない人だった。)が高校二年の時登った南アルプス塩見岳の集団登山の記が中心の本だった。その本は政治的な物ではなかったが、そこに書かれている文章を読むと、なつかしいような何か自分にとって本当の言葉を見つけられたような不思議な感覚が持てた。今考えると、自分の本当に感じている事を出発点にすればいいのか、とでもいった事だったかもしれない。
 その後「中国の旅」などの本も出版され、本多勝一が朝日新聞の記者であることも知り、その幅広い活動の本も読むようになったのだが・・。
 この「愉しかりし山」は「初めての山」からしばらくして出版されたような気がするが、はっきりいつ読んだのか記憶は無い。しかしその挿絵も含めた内容はずっと記憶に残っていて今日までいたっている。

 今回あらためて読んでみて、あとがきを見ると、この話は、1970〜1971年にかけて「山と渓谷」に掲載されたものだそうだ。そこには自分自身が青春の山を懐かしむために書いたものであり、個人的なわがままな動機で書かれたものをわざわざ読者が買って読んでくれることを申し訳なく恥ずかしく思っているということが書かれている、またあとがきは北京に発つ前夜とあるから、「中国の旅」を書こうとしている頃なのだろうか、当時の時代背景がうかがわれる。

 この本の内容は、当時飯田東高校(後の飯田高校)の二年生だった本多勝一が山岳班の顧問だった渡辺先生と三年の曽我富士夫、二年の林豊の四人で1948年の秋に南駒ケ岳にオンボロ沢に沿って登り、登山道がはっきりしなくなり、尾根に上がり、尾根上で夜になってしまい不時の露営をし、翌日道の無いけわしい尾根を登って百間薙のカールにたどりついて、その小屋に泊まり、翌日下山した話を中心に、その後の高校生の生物班、山岳班として、南駒ケ岳やそのカールが心の山となった経過も書かれている。高校生と顧問の先生のこの小冒険的登山(天候が悪化すれば遭難の危険もあった)は、私はこんな体験はないのだが、その様子が生き生きと伝わってきて何か映画を見た時のような感動がある。
 私自身、自分自身の責任もあるが、このようなすばらしい中高生時代を送っていないので、こんな体験がうらやましくもある。自分自身の中高生時代の感じといえば、この夏に読んだ高機能自閉症の作家、森口奈緒美さんの「変光星」「平行線」の世界に近いかもしれない。

 1948年というと昭和23年で、戦争が終わって三年目の話だ。今回読んでみて、改めて感じたことの一つに、当時の子どもや高校生の元気さが文章の間から感じられる事だった。(子どもの様子が書かれている部分はほんの少しだが)今でも子どもや若者は元気なのかもしれない。しかし今と比べて格段に貧しかったこの頃の子どもや青年、そして先生の方が、豊かさに取り囲まれ、飽食と与えられた刺激に囲まれて、さらに管理された世界に住まなければならない現代の我々より貧しさゆえに不幸だったのだろうか?
(2007,8,19)
7、「私のエベレスト峰」 柳沢勝輔著
 著者は、71歳世界最高齢(当時)でエベレストに登った方。私は、ヒマラヤとかエベレスト関連の本には、最近は興味が無く、読むこともないのだが、この本の著者は、長野県上田市真田町の元中学校教師。三浦雄一郎のような著名人ではない、私とほぼ同じ土地で職業も義務教育の教員(私は小学校教師だが)。 地区の教員の会などではおそらく一緒の会場にいたこともあっただろう。一体どういう方だろう。私も退職が近づいてきて退職後の生き方も気になっている。そういった興味が大きく、書店で見かけたこの本を購入した。
 
 一読して感じた事は、この方は、私のような中高年になってから登山を始めたようないわゆる中高年登山者ではなく、大学山岳部から勤労者の山岳クラブ、とずっと登山を続けている本格的な登山家(著者は山屋と書いている)であるということだった。ただ、中学校教師という職業柄、登山活動が大幅に制限されて退職にいたってそのエネルギーがやっとヒマラヤへと向かったという感じだ。その辺の事情が書かれている部分を少し抜粋する。 

 <本文からの抜粋> 〜しかし、いったん就職すると、登山の機会は限られてしまった。学校勤めであったから、休暇を利用して夏山や冬山へは行っていたが、日帰り登山では大きなことはできない。勤めを休んで山へ行くことなど到底考えられず、次第に山へ行く機会は限られる結果になっていった。〜中略〜こうした仕事中心の生活ではあったが、山の話がまったくなかったわけではない。自分が決断さえすれば、遠征隊に加われる機会は何度となくあった。しかし、長期におよぶ休暇をとることや休職・退職までして遠征隊に参加することはできなかった。〜中略〜自分の選んだ職業を捨てて、山屋になることはできなかった。山へのあこがれと仕事勤務の狭間で、自分自身の中の矛盾した気持ちを持ちながら、ヒマラヤや高所登山は次第に遠ざかってしまっていた。〜

 著者が信州大学の山岳部で本格的登山を始めたのは昭和30年代。日本山岳会のマナスル初登頂があって日本中の登山ブームの中、ヒマラヤへの夢を育ませていたが、物資の乏しいその時代、履物は地下足袋、冬山のテントのシート替わりに炭俵を使っていたという。第一章の始めにある大学時代の写真にリュックの上に炭俵とピッケルをくくりつけた写真があった。文中に〜「雪なら体力勝負で忍耐強く取り組めばなんとかなる。信州育ちで、雪の北アルプスを味わってきているので、雪面が続いているというだけで、なぜか親しみのようなものを感じるせいか、不安な気持ちが少し落ち着くのである。」「そんなことを繰り返しているうちに、日本の冬山をやっているような気分になって、急な登りを登りきってしまった。」「それでも10日間ぐらいの合宿を我慢のうちに済ませて下山したら、凍傷が進んで靴が履けないほどになってしまった。足を切り落とさずに済んだのは、まったくの幸運であった。」〜など、など、若い頃からの体験、経験の積み重ねが感じられる表現が随所に現われてくる。

 定年退職間際の5000m級のヤラピーク、退職後の7000m級レーニン峰(これは登頂には失敗)、7000m級のハンテングリ峰登頂、8000m級のチョオユー登頂、と挑戦を続け、またチョオユー登山の前には胃がんの手術もしている。夢をずっと持ち続け、段階を踏んで実現させたわけだが、やはりそれなりに基盤があったからこそできたのだろう。そして、教員という仕事を誠実にこなし大切にしてヒマラヤへの夢を抑えつけていたことが、結果として世界最高齢のエベレスト登頂(当時)という記録につながった訳だ。
 
 それにしても、エベレスト(チョモランマ)はツアー登山隊とはいえ本当に死と隣り合わせの世界ということが分かる。7000mを越えたら気持ちはいつも単独行動である。と著者は書いている。体力もあり経験豊富な登山家が間近で死んでいく。文中にもテントの中にいる死者を横に見て登っていく所があったり、他の高所登山でも、体力もあり元気だった人が急に具合悪くなってリタイアしていく場面がかなり出てくる。著者の体験豊富さの外に、先天的に高所に強い体質というものも持っておられるような気がした。一方、私が共感したのは、体調が良く食べ過ぎて下痢をしてしまった、という部分だった。そのため食べる量などに非常に気を使っていた。 そうか、私程度の登山なら食べないでいればいいのだ。明日は登山だと、エネルギーをつけようとたくさん食べていつも下痢をしてしまう私の夏山。今年はあまり食べないでいようと思っている。
 
 この本の内容そのものはヒマラヤなどへの高所登山をされる方にはとても貴重なものではないだろうか。著者は退職後も登山ばかりの生活という訳でなく、生活の中心は本格的農業をしたり、社会的活動もされているように書かれてあった。私の退職後の参考に、などと思って読んでみたが、やはり自分が今まで積み重ねてきたものがなければ、自分のレベルの事しかできないのだろうと思った。私には、「信州百名山完登」と家庭菜園くらいが関の山だろうなと感じた。 (2008、8,6)                    
8、「ぼくは猟師になった」 千松信也(せんまつしんや)
 
 朝日新聞の書評欄に「京大を出てわな猟の猟師になった若者の書いた本」という感じで紹介されていた本である。
 わな猟については以前、勤務していた学校で緑のクラブというのを担当した時に指導にきてくれる役場の林務課の方に連れられ子ども達と一緒にわなのしかけの見学に行ったり、(その町はわな特区になっていた。)とれたイノシシの肉を持ってきていただき焚き火をして子ども達と焼肉をさせてもらったりした事があった。また退職後わな猟の免許をとっていた地元出身の先生が、臨時で学校に来ていた時にイノシシの肉を持ってきてくれて春休み中に皆でいただいたり、わな猟の説明を聞いたりした事、庁務員の方の持ってきた鹿肉を食べた思い出もあり、また長野県では最近、農産物への鳥獣害やその肉の利用などが盛んに言われるようになってきて、鹿、イノシシがとてもタイムリーな話題でもある。そこでさっそくこの本を注文して読んでみた。
 
 著者は33歳の若さ。兵庫県の伊丹市出身。商店や民家のあいだに水田や畑が残り、自然についての伝承も残っている古くからある集落に生まれ育った。家は父親が会社勤めで祖父母や母親が農業をしている兼業農家だった。畑仕事につれていかれ田畑にいる生き物にふれて自然に動物好きになっていく。小学校頃は虫捕りや魚釣りなどに夢中の毎日、夢は動物園の飼育係だった。この辺まではよくある動物好きな子供という感じだが、それからがちょっと違っている。
 小学校の六年の時には、「カブトムシとゴキブリは同じ昆虫で、同じように黒くてつやつやしてるのに、どうしてカブトムシはみんな大好きでゴキブリはみんな嫌いなんだろう。」という題で作文を書くように、動物に対する人間の関係や欺瞞を深く考え出すような少年になっていったようだ。中学、高校と進んでは、伝統的な狩猟採集漁労文化に憧れのようなものを抱くようになっていて、そのための技術を得ようと獣医になろうと獣医学部受験を考えるが止め、その後、本屋で見つけた柳田國男の本がきっかけで民俗学に興味を持った。「故郷に色濃く残っている言い伝えと、自分が考えている人間の自然への関わり方というふたつの無関係に思えていたものが、この時一本の線でつながったように感じました。」という著者は、京大の文学部に入り民俗学を勉強することにした。

 京都大学に合格し住んだのが当時で築80年を越える木造二階建ての学生寮。親からの仕送りも断る。そこで、寮生活にどっぷりつかり様々な仲間に刺激を受け社会問題に関わったり、国内旅行をしたりなど体験をし三年過ぎるが、自分の進む道がまだつかめず、さらに四年間の休学を決め、アルバイトに集中。月収30万くらいになってそのお金でアジア放浪。東チモール問題などに現地で関わった体験から、やはり自分の生まれた土地に責任を持ってそこでくらすべきなんだろうな、という考えがうかんだ頃、休学期間が終わる。

 帰国して翌春から復学しようと以前も行っていた運送会社での作業員のアルバイトを開始。その会社の社員がわな猟の師匠となる人であった。そこから以前から興味を持っていたわな、網の狩猟免許を取得、一年目にして鹿を捕って寮生皆で食べたり、その後、庭に猿やイノシシの出る山沿いのお堂だった場所に住居を構えて、(といっても10分もあるけばコンビニのある京都のある場所との事)水を得た魚のように狩猟、採集の生活に入って行く。網猟の師匠にも出合ったり、猟を通じての人間関係も豊かだ。しかし、基本的な生活費はその運送会社から得ているようであり捕った獲物は自給用の食料であり、身近な仲間と食べたり、保存食料として加工していて、それを収入の足しにしているのではない。そしてこの本の主な内容は、このわな猟の免許をとってからの話であり、鹿やイノシシを捕り、処理し、加工しつくす場面が生き生きと描かれている。また雀、カモの網猟の様子も描かれている。猟が無い時期の、川や海での漁についてや、山菜などの利用にもふれ、その狩猟採集の豊かな生活ぶりがうかがえる。読んで想像しているだけでドキドキしたり涎が出てしまったりする。詳しくは直接本をお読み下さい。

 最近、先生と子どもが小学校でブタを飼って、育てたそれをどうするか、食べるのか、という教育実践の本が話題となり、映画化されるそうである。私は本も、映画もまだ見ていないが、日ごろ人の手で殺された家畜を考えなしに食べている我々にとって、根源的な問題を含んでいる事だと思う。
 ここで、狩猟で動物を殺す事についての著者の考えの出ている文をいくつかこの本の中から引用してみよう。  「動物の肉を食べるということは、かなりの労力を費やす一大事です。ありきたりな意見ですが、スーパーでパック詰めの肉が売られているのを当然と思い、その肉にかけられた労力を想像しなくなっている状況をおかしいと思います。誰かが育て、誰かがその命を奪い、解体して肉にしているのです。狩猟は残酷だと言う人がよくいますが、その動物に思いをはせず、お金だけ払い買って食べることも、僕からしたら残酷だと思います。〜」   いただくという気持ち、という章でアイヌ民族のイオマンテの儀式での動物に対する考え方にふれ「そうした考え方にふれると人間が生態系の頂点に位置していると思いこみ、多くの動物を工場のような施設で飼育・肥大化させ、考えなしにむさぼり食べている現代社会の方が野蛮に思えてきます。〜」とあります。   最後の章では「地球の裏側から輸送された食材がスーパーに並び、食品の偽装が蔓延するこの時代にあって、自分が暮らす土地で、他の動物を捕まえ、殺し、その肉を食べ、自分が生きていく。そのすべてに責任があるということは、とても大変なことであると同時にとてもありがたいことだと思います。逆説的ですが、自分自身でその命を奪うからこそ、その一つ一つの命の大切さもわかるのが猟師だと思います。〜」

 最近、長野県の我が家の付近の山では以前は見なかったイノシシが掘り返した跡の様なものや気配をとても多く感じる。鹿も地域によっては非常に増えて困っている。現代人の生き方、食料自給や中山間地の農業など、非常に今日的な意味がある本だと思う。(2008、10,25)

 この文を書いてから、ちょっとインターネットで調べてみたら、著者のブログが存在していました。「豆狸の狩猟・採集的生活のススメ」。
「生命の多様性」T、U ウイルソン著  岩波書店
 今まで、一般向けの生物学関連の外国の本を読んでみようとしたのは、「沈黙の春」「奪われし未来」の二冊くらいだ。両方とも世の中で話題となり購入したのだが、こういう本に特徴の、実例をあげた詳しい表現、内容に、根気がついていかず、初めから終わりまで、きちんと読んだ事はなく所々つまみ食いのような読み方をしていた。
最近では「捕食者なき世界」という本が興味を引いた。(生物多様性が崩壊していく理由)という風に新聞の書評欄で紹介していたが、まだ読んでいない。この文をHPにのせる時、上の欄の、千松氏のブログを見たら、その本の感想が出ていた。(これで読まなくてもすむかも)でも、またいつか読んでみよう。

 さて、『生命の多様性』だが、退職で暇なので今度は最初から最後まで読んでみた。もちろん私にとっては難しいので、しっかり理解できたとはとうてい言えないが・・。

 本のカバーに書いてある紹介文の一部を引用すると,『 ほとんどの人が気づかないうちに、すでに人類の手によって地球史上六度目の生物大絶滅が開始されてしまった。 〜 生物多様性は進化の中でどのように育まれてきたのか。なぜ人類の未来に決定的な意味をもつのか。どうすれば環境破壊の進行を逆転させることができるのか。ウイルソン博士は、豊富な体験と驚嘆すべき博識にもとづいて情熱的に説き明かしていく。〜』

 私は、ダーウインの進化論など読んだこともなく、進化ということについて詳しく勉強しようと思った事も無かった。自分の進化のイメージは、NHKスペシャルなどの、地球の歴史や自然の番組から得た知識がすべてである。この、「生命の多様性」を読むと、生物が環境に合わせて色々と形や性質を変えていくことは、私が思っていた以上に一般的なことなのだ。ただ、その膨大な進化の試行錯誤の中で生態系の中に生きる、ある種が出来るまでは、とても大変な道のりなのだ。
「五章 新しい種」で 『偉大な生物学的多様性は、地質時代の長い長い期間と、他とは異なるそれぞれ独自の遺伝子の膨大な供給源の蓄積を必要とするものである。最も充実した生態系は、何百万年もかけてゆっくりと築き上げられていくものだ。〜 つまりパンダやセコイアはほんとうに稀にしか見られない巨大な進化の結果なのだ。進化にはちょっとした運と、自然による長い間の探求、実験、そして失敗が必要である。そのような創造は深い歴史の一部なのだ。だがその繰り返しを見ようにも、地球はそのすべてを持たず、私たち人類にはその時間がないのである。』


 私の進化というもののイメージは、何か系統樹のような、他と無関係な、一直線で単純な感じをいだいていたのだが、そうでは無く、進化の試行錯誤の無数のうねりの中からある種が生まれ出てきて、しかもそれが他の種と生存上、不可分に結びついている、というイメージに変わってきた。その結びつきの総体が生態系であるわけだ。だからそれぞれの種は他と変わることのできない、とても貴重なものである。
さらに、その構成員である動物、植物、菌類、原生動物や微生物、など、まだまだ、地球上の、その膨大な種も人類には、はっきり、分かっているわけではないのだ。
 どの種がどう生態系と関わっているかも、分かっている事はほんの一部のようだ。
 しかも、地球で最も種の豊富な熱帯雨林の生態系を中心に、現在、目の前の生活のために樹木を伐採し、畑などに変えたりして、人類がその内容を分かっていないうちに、生態系ごと、様々な種を大量に滅ぼさせつつあるようだ。

 この多様な生物資源は、その一部は今までも食料や様々な薬、など人類を支えていくために大いに利用されてきたのだが、まだ人類に知られず、埋もれたままでいる未知の貴重な価値が、どんどん滅亡させられている。
 この生物的富についての無知という事は、「何でも鑑定団」的に言えば、ちょうど、古伊万里のお皿や白隠禅師の掛け軸など、色々な貴重な物が入っていた土蔵を打ち壊し、中身をゴミとして捨て、代わりに安っぽいプラスチックの食器や価値の無いコピー複製品を買っている人に例えられる。まあ、それは生命に関わらないからまだいいが、生命の多様性の低下は、人類の生存に大きく関わってくる深刻な問題だ。自分の身の回りを考えてみても、私の子どもの頃、どこの田のあぜの水路にも、浮き草の下には、メダカ,ドジョウ、小鮒、タガメやミズカマキリ、ヤゴ、などの水生昆虫、ザリガニ、たにし、などがいた。千曲川河川敷の水溜りでは、きれいなタナゴなどもいて、それらをザルや網でつかまえるのは子どもの私にとって何ともいえない心おどる体験だった。もちろん今は、田の周りのコンクリート水路にそれらの生き物はほとんど無く。河川敷はグランドとマレットゴルフ場と、アカシヤとアレチウリに覆われたものとなってしまった。

 本では、熱帯雨林などの保護をしつつ現地の人が経済的利用が出来るような様々な未来への提案などもなされていて、こういう考え方は、自然を観光資源などに利用している長野県でも重要な考え方だと思う。

 最後に「15章、環境の倫理」にこんな部分があった。『また生物的に貧弱な世界でも、人間がぬくぬくと暮らせることを夢見る人もあるだろう。彼らは人工的な環境が人間のテクノロジーの手の届くところまで来ていると考えている。医薬類はすべての棚の化学薬品を合成して作り、食料は何ダースかの国内産作物で栽培し、大気や気候はコンピューターで操られた核融合エネルギーで調節する。そして地球は作り替えられ、比喩でなく実際に宇宙船と化し、人々は操縦室でディスプレイを眺めたりボタンを押したりしていれば繁栄を続けられるという、〜』
 これに対してウイルソンは、人類は自然の一部であり、他の種の中で進化してきた一つの種であり、私たち以外の生命との一体感を増せば増すほど人間は本当は何なのかという事が分かってくるのだ、と。
 『したがって人類の倫理的義務は、なによりもまず慎重さということである 〜自然環境の修復を始めようではないか。まだ私たちの周囲に残っているすばらしい生命の多様性を再び織り上げるため、修復の時代へと踏み出すこと、これ以上に励みになる目的が他にあろうか。』


 地球の歴史の中で、生命は常に多様性の方向へと広がっている。これは生命の大きな流れ、真実だ。地球の歴史における、過去の、種の大量絶滅の危機以上のものが、今、人類の手によって急速になされつつある事を知り、良く言われるように、地球生命体を死においやって、自らも死ぬ、「ガン細胞」のような人類であってはならないと思った。
(2011,2,27)
10 「いま自然をどうみるか」 高木仁三郎著 白水社

 この本を読もうと思ったのは、3月11日の東北関東大地震とそれにともなって起こった福島第一原子力発電所の大事故があったからだ。
 
私は、今まで、たまに、ふと不安になるていどで、地震とか原発について何も深く考えてこなかった。

 長野県に住む自分の所では、それほど大したゆれは無く、12日朝の栄村の地震とも離れているので被害もなかったが、その後の、この地震にともなう津波の映像を見で大自然の猛威にただ驚き、そこで起こった悲劇を知ったり、原発事故が起こり、そのニュースにおびえたり、現実に放射能の大災害になってしまい、今後への不安も高まる事について、多くの人々と同様だと思うが、何か不安、無力感、自己嫌悪、怒り、のようなものを感じていた。

 そんな中、新聞で反原発の市民科学者、高木仁三郎、という人がいた事を知り、その人の書いた、「市民科学者として生きる」という岩波新書を読んだ。
「市民科学者として生きる」は、この人の最後の著書だった。その本はこの人が自分の人生をふりかえり、日本人に向けて書いた、遺書のようでもあり、原発の重大な事故が現実に起こってしまった現在読んでみると、こんな人が日本にいて、こういう生き方や活動をしていたのだ、と非常に何か心に響いてくるものがあった。

 
さらにこの人の考えが詳しく知りたいと思った。 そこで、この「いま自然をどうみるか」を読んでみる事にした。

 「自然」ということは、何となく自分のHPのテーマの一つでもあると思っていたし、何か自分でもいま一つ、分かっているようで分かっていない事でもあったからだ。

 
パラパラと本をめくってみると、ふだんの自分なら最後までとうてい読まないだろうな、と思うような本であった。しかし、今回の厳しい状況を感じ、少しは努力しなくては、と、一章ずつ読んでブログへまとめていく、そうすれば最後までていねいに読めるだろう、と考えた。

 
読んでみて、この本は、書名どおりに、人間が自然をどう見るか、ということについて書かれた本であった。現代、世界を席巻している西洋的、自然科学的、自然観の本質によって、我々が二つの自然に引き裂かれてしまっている現状(例えば、可視的に今回はっきり目に見えたことで言えば、福島県の自然を生かして農業で生きる人たちが、同じ人間が人工的に作り出した、放射能という第二の自然物質によって追い出されるというような)が起きている事を、西洋の自然観を歴史的にたどることによって、考察していき、その分裂を克服してどのように新しい生き方を求めていくのか考える、という内容であった。
 
 人間がどう自然を見るのか、人間が自然とどう関わっていけばいいのか、自然(地球)と今後、共生していく我々人類の生き方はどうすればよいのか。 そういったことについて、今まで、『自然』ということについて、何となく考えたり、感じたりしていたものに、ある方向を示されたり、その意味を教えられたりした本だった。
 詳しい内容については、
いちおう、ブログの目次のページにリンクをはっておきます。そのページから、18日間にわたって、最初から、最後まで続けて、感想なども少し入れて、写したり、まとめたりして進んでいきました。引用が多く、読みづらいものですので、詳しく知りたい方は本を購入して読まれた方が得策でしょう。(2011、6、2)
      上小30山のブログ 

11 「奪われし未来」シーア・コルボーン  ダイアン・ダマノスキ  ジョン・ピーターソン・マイヤーズ著 翔泳社

「奪われし未来」のこの本を買ったのはいつだったのだろうか?
 この本の後ろを見ると、1997年 初版第4刷発行 と書いてあるので、きっと買ったのは1998年頃かもしれない。
なぜ買ったのかあまり記憶にないが、新聞の書評欄などで興味を持ったのかもしれない。
 書評を読み、何か現代的な先端の問題が含まれているように感じたのだろう。
 
しかし、買っただけで、ちらっと見て、日々の忙しさの中で、読むことはなく本棚の中に眠っていた。

 その後、仕事だった小学校の教員をしている中で、児童の発達障害という問題に現実の課題として出会って、色々と悩んだり調べたりするようになった。

 
そのころ、「子どもの脳が危ない」福島章 という本を知った。これは、子どもの発達障害が脳に原因があって起こってくる。またその脳の異常の原因として合成化学物質が考えられる事を述べていると思う。(今手元にその本がないのでちょっとしっかり言えないが、ネットなどですぐ調べられます。)
 
現実に自分がであっている現象を良く説明していると思った。

 そこで、色々と自分でも講座などに出てその事を勉強するようになった。
また、義務教育の教員の世界でもその頃から、発達障害について、またどうしたら良いかの方法などへ、急激に関心が高まったり、上からの研修などもけっこう行われたりするような時代になってきた。

 
そんな事をしているうちに、私は定年退職となった。仕事をやめ、もう発達障害の事を勉強し続ける必要性もなくなって、正直ホッとした。
 そういった、発達障害の問題についての興味も急激に無くなっていった。


 しかし、「奪われし未来」は、自然についての理解を深めようと退職後読んだ「生命の多様性」ウイルソンと同じ頃、出版され、述べている内容は違うが、生命への危機感といった面で、同じような方向を感じる本という気がして、自然を考えるうえでも、いつか読んで、この欄にのせないといけないな、と思い読み始めていた。

 三章くらいまで読んだ時だろうか、あの大震災と原発事故が起こった。


 そして、上の高木仁三郎の本などを読む事になったのだが、高木仁三郎が亡くなる前に出した本「市民科学者として生きる」を読んだ時に、「沈黙の春」や「奪われし未来」の書名が時代を代表する本として、文中に出てくる事があり、やはりこれらの本は、現代の本当に向き合わなければならない問題について述べた本なのだ、とあらためて実感した。

 そこで、上に取り上げた「いま自然をどうみるか」の次に、ちょうど読みかけだったこの本をちゃんと読みブログに書いていくことにした。毎日続けてやるのは疲れてしまうので、間を置き、時々のせるようにしてみた。一応、間をあけながらも、全14章を載せてあるが、特に私が関心のあった事を書いた二つの章へリンクをはっておくことにする。
     上小30山のブログ (1)
     
上小30山のブログ (2)

12、「ダーウィンの思想」 内井惣七著 岩波新書
 退職後、通い始めた大学の公開講座は生物系のものだ。そこでの先生方の話や、紹介される本などでは、「進化」「自然選択」などというものが自明の前提として話されている。
考えてみると、NHKの「ダーウィンが来た」という生物番組の題名も、違和感なく見るようになった。


小泉首相時代に導入された新自由主義は弱肉強食の「ダーウィニズム」である。日本は今西錦司の「すみわけ理論」。競争主義の西洋的ダーウィニズムは間違っている。西欧科学文明の原発しかり、などと思っていたが、どうも、その感じ方は何か違っているような気がしだしてきた。

そんな事を考えていた矢先、書店で「ダーウィンの思想」内井惣七著 という岩波新書が目に入った。「ダーウィン進化論」なんて、聞きかじりだけでなく、ちゃんと読んでみるか、と読んでみた。
著者の内井惣七とう人は、京都大学名誉教授で専攻が「科学哲学」(科学史科学哲学)であるという。
ダーウィンの思想は、とても難しく書かれているらしいが、この方の解説はとても根本的で分かりやすいのではないかなあ、と感じた。(それでも私にとっては、本当にしっかりは理解できたか自信がないが・・)

良く、ダーウィンはガラパゴス諸島で、進化論を思いついたみたいな事を言われていて、それだけでは、いま一つピンとこなかったが、この本を読むと、ダーウィンの時代のイギリスなど西欧では、日本で言うと江戸時代の末だが、地質学、生物学では、現在のような知見、地殻変動や化石などの知識、また世界各地での詳しい博物学的な知見(例えば地理的に隔離された世界各地の生物のタイプが異なっている)、分類学の発達、などが次第になされて、神が世界を創ったというような考えがまだ強かったが、進化論のような考えも次第に起こりつつあった時代だったのだ。それを、ダーウィンが、掘り下げてしっかりと明らかにした、という感じのようだ。

種の分岐がどのようにして起こるのか、ある種が生存しようとする力により、その環境に最も適したように形質が変化し、最もその環境に適したものをピークとして他と分離され、環境などに合わなくなったものは自然に絶えていき、(その部分では生存競争がある)そして種が形成されていく。環境の色々なプラス、マイナスの変化と、種が増えようとして、その環境に適合させようとする両方の力により、様々な進化が起こり、分散し、競合、様々に適応し、種の多様性が生まれてくるのだ。

内井氏は、ジョナサン・ワイナリーの「フィンチの嘴」という、ピューリッツア賞受賞の本を紹介している。これは、20世紀の後半に、科学者たちが、ガラパゴス諸島のフィンチ()を研究し、実際の進化の現場を実証的にとらえた事が描かれている。何年間にもわたって、ガラパゴスのある島のフィンチ類を追跡調査し、えさのタネの強さ、その種類と嘴の大きさなどとの関係、環境の変化によって繁殖の状況など、ものすごく詳しく調べられてデーターがえられ、進化の細かい様子が分かるようになってきた。
さらに、コンピューターによる計算によって、その適応分散のピークが予測され、それが、実際の観察した資料と一致してダーウィンの考えが証明されたりしている。
これによって、進化の現場が、数的にもとらえられていったということである。

進化という物は、化石の中だけにあるのではなく、日々起こっている事なのだ。現在では、インフルエンザウイルスの変化などによって人類が脅かされる危険も人々にとって、進化のスピードとして実感されているのだ。

内井氏はこの章の最後に、このように書いている。
『 わが国では、かつて、「種の棲み分け」という、競争原理とは無縁に見える現象を取り上げて(そして、棲み分けの原因を探ろうとする研究はせずに)ダーウィン説を否定することがもてはやされた時期があったが、「棲み分け」はダーウィン説できちんと、しかも実証的に説明できるのだ。ダーウィンのアイデアは、それほどまでに含蓄に富むものだったということを再認識すべきだろう。ちなみに、「棲み分け」を提唱した人物は、ダーウィンの「分岐の原理」に気づいてさえいなかった。』と、名前は書いてないが、今西錦司(たぶん)を批判している。

私は、「ダーウィニズム」というと、しっかり読んだ事もなく、聞きかじりで、『弱肉強食』の世界、強いライオンが弱いシマウマを食べる所を思い浮かべ、我々が権力や財力を持っている人から迫害されているようなイメージを思い浮かべて、「ダーウィンはけしからぬ」やはり今西理論だ、などと、今西理論すらも読んだ事もなく、思ってしまっていたようなレベルだった事が分かる。


ライオンもシマウマもサバンナという環境の中でそれぞれ上手に適応して繁栄しているわけだ。
生き物が、その環境の中で、環境の変化や、自分の子孫の繁栄のために、必死で工夫したり、変化しようとして、しかも、その中で、その多様な環境のそれぞれで、最もその環境に適したものが次第に力を得て種へと進化していくようなイメージだ。そして変化は常に進行する。我々が、一生懸命がんばって様々な工夫をして生き抜いていこうと、生活している状況もそんな感じではある。

巨大な恐竜のような原発も、地震の上に成り立っているような日本列島の環境の中で全く適合できず、人々の地方分散型の自然エネルギーへの努力や工夫の力による将来の繁栄により、しだいに滅びていく種だろう。

この本では、最後の方で、人間は動物にない道徳的なものを持っていて、やはり神によって作られた特別な存在だ、という当時の考えをダーウィンが、人間と動物の共通している点を指摘し、その点でも動物から人間への連続性を指摘していたのだが、これは、私は、「裸のサル」とか「攻撃・悪の自然史」などという本をずっと以前読んでいたり、チンパンジーの群れの、政治的?動きなどNHKスペシャル?で印象深く見た記憶もあり、自然な感じで理解していた。内井氏はド・グァールの「利己的なサル、他人を思いやるサル」1996年、がとても良い本で、専門の倫理学者や哲学者の本よりもはるかに内容豊だ、と言っている。また、いつか読んでみたいものだ。

この「ダーウィンの思想」を読んでみて、しっかり本なども読んでみないで、何でも聞きかじりで、物事を判断してはいけないなあ、と思った。
(2012、2、25)
13、「キノコの教え」 小川眞 著  岩波新書

               
 キノコといえば食毒判断のための図鑑くらいしか興味がなかった私も、退職後、通っている大学の公開講座に菌類の専門の先生がいて、菌類というものにより広く興味をいだくようになってきていたからだ。
  著者や本の概要については、こちらを見て下さい。
 http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1204/sin_k648.html

 さて、この本は単に、いわゆるキノコについて書かれた物ではない。
 『環境汚染による森林の衰退現象は東アジアに限ったことではない。過去のヨーロッパにおける樹木の大量枯死や北米大陸で広がっている最近の森林衰退現象を見ると、今や汚染が地球規模に拡大したと思ったほうがよい。膨大な量の化石燃料を燃やし続け、今でもやめようとしないのだから、救いようがない。「放射能で死ぬか、化石燃料の浪費で死ぬか、どちらをとりますか」と、数年前までは講演するたびに話していたが、冗談ではなくなってしまった。』

と語るような人物が、一生を通しての研究や実践で得た真理を、3.11に触発されて語る警告の書でもあった。

 この本で認識を新たにしたのは、菌類も生物の進化と同様に進化してきたという事だ。
 私は、古生代の湿った森林に菌類などが満ちていたような感じに思い込んでいたが、いわゆるキノコ(担子菌)はもちろん、木材を腐敗させる菌類もその頃十分に発達していなかった。

 だから、現在のように木材が朽ち果てる事がなく、古生代の森林は、倒れて積もってそれが地下で莫大な石炭となる事ができたのであるという。
 現在のいわゆるキノコ(担子菌)という感じのものは、中生代、マツ科やブナ科、ヤナギ科、カバノキ科、などが現れる頃でてきたようだ。

 菌類は動物と同じで、自分で栄養を作り出すことができない。古代の海から植物の上陸にあわせて、菌類も地上へと上がってきた。
菌類は、大きく見ると、寄生〜腐生〜共生 という風に発達してきているという。寄生ばかりでは、寄生された方が死に絶えて、寄生したものも滅んでしまう。
 植物が地上に上がって生活するのに、菌類が根について根が水分やミネラルを吸い上げるのを助け、木から栄養分をもらう。それによって、双方が色々な環境で生活できるようになること、これは特別な種類だけでなっている事ではなく、植物にとって基本的に重要なものであるようだ。
 地球上に森林が発達できたのには、菌類の働きが欠かせなかったのだ。

 著者は『動物に比べると、植物に似て移動できなかっただけ、菌類はより共生的な方向へと進化した。この菌類の生き方は、人間も含めて動物が進化していく方向を示しているように思える。人は神というかもしれないが、何か目に見えない大きな力が、地球という星を使って、壮大な実験を繰り返してきたように思えてならない。』と言う。

 地球の歴史は、生物の多様性の方向へ向かって進化してきた事は、私も勉強して理解していたが、こういった菌類の生き方のような物が、色々な生物の間で試行錯誤されていく、それが多様性を作る一つの大きな原動力でもあるのか、とこの本を読んで感じた。

 第6章 「環境異変をつげるキノコ」 では、マツ枯れ、ナラ枯れ、の現状や原因を書いている。
 これは、日本版「沈黙の春」と言ってもいい章だと思う。

 ここでは、マツ枯れやナラ枯れ、など森林の異変がすごい勢いで広まってきている事、その真の原因は、マツノザイセンチュウなどの病害虫というより、一番の原因は、大気汚染や汚染物質であるという事だ。
 今、大陸からの汚染物質が裏日本側ですざまじい被害を出しつつあるようだ。
 樹木やその木の共生菌類双方に被害を与えて木を枯らせているようだ。
 私も、以前、このHPで、地元の松枯れの原因は大気汚染ではないか、と恐る恐る書いていたが、やはり、森林や菌類の権威もそう言っている事に心を強くした、中国や韓国とも連携して早急に取り組むべき問題だろう

 この本では最初の方の章に、キノコが重金属やセシウムを吸収する話が載っている。
 菌がカリウムと混同して放射性セシウムを吸収するらしい。


 『西ドイツでは1968年以降、国の食品管理局が主なキノコに含まれる放射性物質の量を継続して調べていた。ところが、世界で唯一の被爆国、日本では医学的研究はすすんでいたが、ほかの生物や食品についての調査は不十分か、公表されていなかった。今にして思えば、この差は大きい。ヨーロッパではキノコの放射性セシウムの濃度が野菜に比べてかなり高いというのが常識になっていた。』
 こういう所からも日本の遅れが分かる。

 私も、無知から昨年、初めて庭で原木シイタケ栽培をしてとれたので喜んでたくさん食べていた。

 そして、以前行われた大気圏核実験の放射性物質が森林の中で動き続け、30年近くたってキノコに出てきてもいるという。

 最後の章「キノコの教え」では人間の生き方もこの菌類の共生に学ぶべきという事が書かれている。著者は象牙の塔の中だけに生きてきた人でなく、実業ではブナシメジの栽培方法を開発したり、松枯れ回復の炭による事業など環境問題に関わったりしている人のようだ。3,11以後、著者の関係する色々なグループが結び付いてきているという。 (2012,6,28)

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