医療過誤事例報告
動脈血採取の際大腿神経を損傷した過失を認めた事例
仙台弁護士会 弁護士 坂野智憲
仙台地方裁判所平成23年(ワ)第561号損害賠償請求事件
第1 当事者
原告は、30歳代の男性。
被告は栗原市立栗原中央病院(以下被告病院という)を設置管理する地方公共団体である。
第2 診療の経過
1 原告は、平成22年5月30日、突然呼吸が苦しくなり、被告病院に救急搬送された。搬送後、被告病院において酸素濃度を計測するために右鼠蹊部の動脈から血液を採取することとなり、注射針を同部分に刺したところ、原告は右足股関節からつま先まで痺れ・激痛を感じた。
その後、胸部には異常は認められなかったため、一時帰宅することになったが、診察後から足の痛みがひどく、翌日には歩行ができない状態となった。
2 その後も足の症状は軽減されなかったため、原告は被告病院整形外科、H整形外科、T整形外科に定期的に通院していたが、H整形外科からは針刺し事故による「右大腿神経損傷」との診断を、T整形外科からも「右股関節部刺傷」との診断を受けている。
3 なお、原告は当時労災事故で休職中であったが平成22年6月11日から復職予定であったところ、同年7月31日付で、本件による障害により復職ができなくなったこと及び身体的能力が業務復帰後耐えられないとの理由で、稼働先を解雇されている。
第3 前提となる医学的所見
1 注射麻痺
注射針による機械的神経損傷では、針先によって神経線維の一部に断裂を生じたり、perineurial (※神経周膜) windowを生じたりする。注射針によるものは、局所の疼痛と支配域の異常感覚が愁訴となる。診断にあたっては、注射の際の電撃痛の有無、直後から麻痺を生じたかどうかなどを問診する。
2 末梢神経損傷
末梢神経に病変が起こり、その機能障害が存在する状態を神経障害と呼ぶ。
発症機序によって、急性発症と慢性発症とに区分される。急性発症では外傷等によるさまざまな外的要因によって引き起こされた神経障害をさすことが多い。本件のような注射針による刺傷も、急性による末梢神経障害の要因のひとつとされている。
神経損傷による機能障害として、支配領域の運動麻痺と知覚脱失がみられる。診断を下すうえでは臨床的な症状が最も重要で、基本的には徒手筋力検査法に基づいて運動麻痺を評価し、ルーレットなどを用いて知覚障害の範囲と程度を捉える。
通常は一過性の症状として時間経過とともに改善することが多いが、難治性のことも少なくない。
第4 責任
採血を行う医療従事者には、患者の身体に異常が発生しないように十分 に注意して注射針を穿刺すべき注意義務がある。
原告は平成22年5月30日の採血時に電撃痛を感じ、その直後から本件損傷神経が支配する大腿部に痛み・しびれを感じるようになった。また、これらの症状が事故後現在まで持続しており、運動機能・知覚機能がいずれも障害されている。また、本件採血後直ちに神経損傷との診断が行われており、その他に神経損傷の原因となるような事象は認められない。
以上の事実からすれば、原告の現在の症状が被告病院担当医師の過失によって生じたことは明らかである。
第5 後遺症の残存
等級14級9号該当性
1)等級14条9号にいう「局部に神経症状を残すもの」とは、「労働には通常差し支えないが、医学的に説明可能な神経系統又は精神の障害を残す所見があるもの」を指す。12条13号にいう「局部に頑固な神経症状を残すもの」という場合とは異なり、医学的に証明されない場合であっても、受傷時の態様や治療の経過からその訴えが一応説明つくもので、単なる故意の誇張ではないと医学的に推定されるものであれば足りるとされている。すなわち、等級14条9号に該当するというためには、客観的所見が見られることは必ずしも必要ではなく、また自覚症状を裏付ける客観的な医学的所見がなくとも、受傷時の態様や治療の経過からその訴えが一応説明つくものであれば足りるとされている。
2)神経伸張試験、徒手筋力試験(MMT)
末梢神経や脊髄に対し、徒手的に緊張を与えるとその障害神経領域に沿った放散痛が再現できる。これを神経伸張試験陽性とし末梢神経幹の圧迫ないし絞扼の指標とされる。神経伸張試験には下肢挙上試験(SLR)、大腿神経伸展試験(FNST)がある。
原告は6月3日にH整形外科でこの試験を受けたが、SLRは右60で病的、FNSTも右が陽性とされている。8月24日に再び両試験が行われSLRは陰性であったがFNSTは陽性とされている。
MMTは6月3日が右腸腰筋、大腱四頭筋、大腿二頭筋についてMMT3と低下が認められている。8月24日は腸腰筋のみの結果しか記載されていないが正常に回復している。9月16日のT整形外科でのMMTでは前脛骨筋MMT4と低下が認められ、11月10日の検査では正常に回復している。
3)自覚症状自覚症状としては、6月3日のH整形外科では右鼠径部痛、右大腿〜足趾のしびれ、8月24日も右鼠径部痛、右下腿しびれがあるとされる。9月16日のT整形外科では右足関節背屈減弱、右下肢のしびれ、11月10日は右大腿内側のしびれがあるとされる。
4)後遺症の残存
かように本件では神経伸張試験によって右下肢の末梢神経幹の圧迫ないし絞扼が裏付けられ、その後時間の経過により徐々に改善されたものの、結局右大腿内側のしびれは残存したことが明らかである。T整形外科では11月10日で症状固定と判断され治療は中止された。診断書では後遺障害残存見込み有り(右大腿のしびれ、長距離の歩行困難)と記載されている。従って局部に神経症状を残すものに該当する。
第6 損害総額:4,138,184円
<裁判所の判断>
「採血の手技時に強い疼痛があり、その後に支配領域のしびれや痛みがある場合には、原則として大腿神経損傷が生じたと推認される。そしてこの場合には、他に神経損傷の原因が認められない限り、神経損傷の原因は大腿動脈からの採血にあると推認するのが相当である」。
「大腿動脈からの採血においては、拍動を感じた部分に対して注射針を皮膚に対して垂直に刺入するという手技を適切に行えば、大腿神経を損傷することはほとんどないことが前提とされているものと考えられる。そうであるとすれば、大腿動脈からの採血が原因で神経損傷を生じた場合には、適切な手技によっても不可避的に神経損傷が生じたなどの特段の事情がない限り、採血の手技を担当した医師において、大腿動脈の拍動を正確に触知し、注射針を皮膚に対して垂直に刺入すべき注意義務に違反したものと認めるのが相当である。」
「被告担当医は、注射針を一番奥まで刺入したが血液の流入がなかったため、完全に針を抜くことはせずに皮膚近くまで針を戻した上で微調整をしてもう一度注射針を垂直に刺入したところ血液の流入が認められたというのであって、このように刺入箇所を変更することなく垂直に刺入し直した結果採血に成功したという経過に加え、原告が肥満体型であったことを考慮すると、被告担当医は第1刺入時において大腿動脈の拍動部位を正確に触知せず、あるいは注射針を皮膚に対して垂直に刺入しなかったと見るのが相当であるから、被告担当医は本件採血における手技上の注意義務に違反したと言うべきである」
と判示して、374万8328円の損害賠償を命じた。
<コメント>
いわゆる針刺し事故にあっては医療機関側から不可避の合併症であるとの主張がなされる。また手技の内容が記録されていることはなく再現は不可能である。そして医師は当然のことながら尋問では適切に手技を行ったと証言する。従って医療事故の中でも困難な類型の訴訟である。
本件では大腿動脈からの動脈血採取の際に大腿神経を傷つけることはほとんどなく(被告は皆無と主張した)、そのことが逆に不適切な手技を事実上推認させることとなった。通常想定されないことが惹起された場合にその原因について説明できない以上「大腿動脈の拍動部位を正確に触知せず、あるいは注射針を皮膚に対して垂直に刺入しなかったと見るのが相当」との裁判所の認定は常識にかなったものと言える。
ともすれば原告側に不可能な立証を強いがちな医療訴訟において、医学的知見を基礎としながら、常識にかなった適切な推認をすることで妥当な結論を導いた裁判所の判断は高く評価できる。
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