第10部 葬られゆく軌跡



 吼えはじめていた風が止んでいたことを、一人のスパイの独白が終わるまで誰も気づか
ないでいた。骨組みをさらす落葉樹が身を震わせる音すら聞こえてくるような無音が時間の
流れすら縛っているかのように。

「ひどい・・・・・」

 春野琴梨は、嗚咽を漏らすこともなく、その双眸から涙をこぼしていた。ある一滴は胸元に
染みをつくり、ある一滴はゆるやかなラインの顎を下り、我が身を堅く抱き締めている両腕を
叩く。

「ごめんなさい」
 それは、日本人以上に日本語の語彙を蓄えていながら、もはやターニャが渡せる唯一の
言葉だった。
 きっと、あの涙は清澄で、熱い。
 もし自分が触れたら、指も腕も欺瞞の皮膚を融かされて腐ってしまうほどに。
 邪で身勝手な願いをしなければ誰も苦しまずに済んだのに、
 新しい故郷と、人並みの日々と、ありふれた恋を願ってしまった代償が、善良な人たちの
血と絶望になってしまった。

 左京葉野香の訪問に応じていなければ。
 葛城梁の生死を確かめようとしていなければ。
 チームから逃げ出していれば。
 セリザワとの接触を拒んでいれば。

 こんなことにはならなかった。

 こんなにも大切な人たちを得なければ、失うこともなかったのに。

 だけど、まだひとつだけ方法がある。
 みんなを静穏な日常へ戻せる方法が。

「ターニャ、違うからね」
 鮎は言ってから、隣の琴梨の頭を優しく胸に抱き寄せた。
「琴梨は、ターニャのことを言ったんじゃないからね。ひどいのは、ターニャにそんなことを
させた連中のことだよ。ここにターニャが悪いなんて思ってる人はいない。絶対に。絶対に」
 繰り返す彼女の瞼の下も、表面張力が臨界直前まで使われていた。
「私が・・・・・」
「私がどうしたって?」
 葉野香の遮断は躊躇い無く振り下ろす白刃のようだった。
「ターニャ。ターニャは私たちが怪我したりしてもいいって思った? 結果的にそうなっても
しょうがないって思ってた?」
 黄金色の髪が左右に振られるよりも素早く、彼女は続けた。
「わかってる。そんなふうに思ってなかったのは。私はターニャがスパイだなんてこと気づきも
しなかったけど、鈍くて、どんなにターニャが苦しんでたのか気づきもしなかったけど・・・・」
 声に悔しさが滲んだ。どうして気づいてやれなかったのかと。記憶を遡航すれば、いくつもの
兆候があったのに。馬鹿な左京葉野香。だけど、なにもわからないわけじゃない。
「それぐらいは、わかるよ。ずっとターニャが私たちのこと心配してたことも、本当のことを話せ
なくて辛かったことも。だからさ、自分を責めるのはよしなよ。責めを負わなきゃならないのは
ターニャじゃないだろ」
 梢も思いを口にする。
「そうだよ。ツガルってとこに生まれたのは誰が悪いわけでもないし、日本に来てスパイを
やめようとしたんでしょ。刑務所に入る覚悟で。それを逆手に取って利用した、その、あれ、
なんだっけ」
「内閣情報調査室。第四部」と鮎が答えた。
「そう。それ。そいつらが悪いんだよ。汚ったない連中だよね。ターニャ。今度は、私たちが
ツケを払わせてやろうよ」
「いいね。それ。このまんまじゃ済ませられない。陰にこそこそ隠れてる卑怯者の集団なんかに
負けられないよ」
 同意の頷きが広がってゆく。いつしか琴梨の涙も絶え、その表情には、激しさのない性格の
せいでなかなか表に出ることのない芯の強さが浮かんでいた。それが親譲りであることを
示すように、春野陽子の微笑みにも決然とした意志が宿っていた。
 意外な話の方向に戸惑うターニャの肩に、席を立った椎名薫が両手を置いた。
「あなたはどこかで何かを間違ったのかもしれない。でも、それは誰にも決められないことよ。
でも、あなたが汚れずに生きてきたことは確か。いろんな人があなたを汚そうとして、汚して
きたかもしれないけれど、あなたは汚れなかった。汚れてしまおうとしなかった。ご両親は
今のターニャを誇りに思えるわ。私が保証する」
「でも、でも、私が最初から梁のことを諦めていれば、そうすれば」
「それは仮定。だから考えてもしょうがないわ。どんな過ちを犯したとしても、過ちというのは
全て過去に属するんだから変えようがないことよ。私だって過ちを犯したばかりなんだから。
あ、そうそう。忘れていたわ」
 薫はセリザワの口を封じていたガムテープを剥がしにかかった。葉野香がナイフで手足の
縛めを絶つ。手首は自転車に乗っていて転んだ膝小僧のように皮膚が裂け、血が滲んでいた。
 ようやく口が利けるようになったセリザワに、薫は深く頭を下げた。
「セリザワさん。あなたを疑ったのは私の間違いだった。殴ったり脅したりして、本当に悪かっ
たと思っているわ。ごめんなさい」
 まだ足が椅子に固定されたままの彼は、暫し彼女の頭頂部をじっと見つめていたが、
やがて何度か首を振ってから「もういいよ」と言った。
「ターニャを守りたくてやったことなんだから。ひどい目にあったとは思っているけれど、
疑いが晴れたのならそれでいいさ。頭を上げてくれ」
 そして手を差し出し、セリザワは薫と握手を交わし、和解を示した。完全に拘束を解かれた
彼は立ち上がり、手首足首をさすったり背筋を伸ばしたりして筋肉の強ばりを軽くしてから、
ターニャ・リピンスキーの告白を聞きながら考えていたことを話し始めた。

「これでやっと、事件の全体像がわかってきた。CIAのエージェント、リョウ・カツラギはターニャを
アメリカ側に取り込むために日本に送られたんだ。彼女の気持ちを掴み、CIAに協力させる
ために。
 何らかの方法で君の存在を知ったCIAは君の知識と能力が欲しくなった。エイムズ事件
以降、ロシア人はCIAを全く信用しなくなったから、新たなスパイの獲得はCIAの急務だった
に違いないし、彼女が日本政府のコントロール下にあるかどうかなんて意に介するような
機関でもない。さすがに同盟国内で拉致誘拐まがいのことはできないから、リョウが送り
込まれたんだ。予めターニャのことを調べ上げ、心理学者による綿密な行動分析のデータを
持たせてね」
 一旦言葉を切った彼は、苦い土でも舌の上にあるかのように口元を歪め、逡巡している
ようだった。
「・・・・・ターニャ。君とリョウが出会ったのは偶然じゃない。全て彼が仕組んだことだ。君の
孤独を知っていたから、自らも孤独だと言った。君の任務を知っていたから、君の過去に
触れようとしなかった。そうやってあいつは、君を騙し、君が愛するように仕向けたんだ」

 ついに下された宣告。
 メンバーの何人かは、理由はわからないまでも、葛城梁がターニャを愛していたのか疑問を
感じていた。鮎などは彼の生存説を聞いた時、「本当に好きなら、一緒に逃げてあげれば
いいのに」と憤慨したほどだ。だが、一途なターニャの想いを知っていればこそ、彼女の前
では葛城梁がターニャを捨てなくてはならない正当な理由を探していた。
だがもはや、それが徒労に過ぎないことだったと、誰もが確信するしかなかった。
 この世界で、スパイがスパイと偶然に出会って恋に落ちるなんてことを確率論で語るのも
莫迦らしい。

 禁じられた愛を求めたターニャ・リピンスキーは、皮肉にも禁を犯してはいなかった。
 それはあまりにも多くの代償を要求した幻想に過ぎなかったのだから。

「そうじゃないかと、思っていました。セリザワさんから、彼がCIAだと聞いたときから。
本当はもっと早くからわかっていたのかもしれません。彼が生きているかもと知ったとき。
いいえ。彼が撃たれて現れたときから。でも認めたくなくて。彼しかよりどころがなかったから」
 喉が苦しかった。
「未練、ですよね。これから自分がどうなっていっても、一人だけはこの地上に私を愛して
くれた人が生きていると思っていたかった。そうすれば耐えていけるなんて、思って・・・・・」
 ターニャの声がかすれた時、何人かはそれは涙の前兆だろうかと感じた。だが、彼女の
瞳に涙はなく、乾涸らびた笑みが全員の視線を反射していた。
「夢は、こうして醒めるんですね」
 国家の力学だけに引きずられて生きてきたターニャ・リピンスキーは、塵よりも儚く散ってゆく
夢の破片を見送った。



 さよなら、私の愛した人。






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