第2章 二人をいざなう大地



 12月28日には肩書きがある。
 左京葉野香と鷹条雄吾が、ともに早すぎる目覚めを迎えた日。

 雄吾は自宅からの電車の乗り継ぎを考えた上で、最も早い時間のフライトを選んでおいた。
実際に彼女と会えるのは明日になるだろうが、同じ空気を肺に詰め込むことで、縮まった距離を
実感したいのだ。
 だからといって、夜も明けないうちにベッドから降りる必要はないのだが。
 厚い冬用のカーテンを開けると、結露した窓ガラス越しに街灯と走りゆくトラックのライトが輝いて
いる。
 まだ醒めやらぬ空の彼方に想いを馳せた。

 暖房を入れ、畳んで出しておいた服に着替える。身だしなみを整えてしまうと準備完了。
 もう駅に走ってしまいたい。母親が朝食を作ると言っているのでそうもいかないが。


 葉野香は玄関先から朝刊を取ってきた。
 深夜まで店を開けていた兄夫婦はまだ寝ているので足音にも気を使う。
 まずは天気予報の再確認。
 東京は晴。降水確率10%。よし。
 札幌は曇時々雪。降水確率30%。微妙な数字。
 でも、秋の台風のように飛行機の離発着には影響ないだろう。もうあんなのは御免だ。

 彼にはなにも言っていないが、空港まで迎えに出向くつもり。
 きっと驚くだろう。
 喜んでくれるだろう。

 続いて社会面を開く。
 彼が札幌から去って以来、葉野香は新聞やニュースの記事が気になるようになった。「東京」
そして「高校生」というキーワードに反応してしまうのだ。
 東京のことなんか、道民にとっては外国も同じ事。縁のない話。そう思っていた。それなのに
「東京で高校生がバイク事故」などという見出しを見ると、ついチェックしてしまう。まさか、と思い
つつも不安になってしまうのだ。
 この数日は特にひどかった。
 勉強も手につかない。机に向かいシャーペンを持ち、白紙のノートはずっとそのまま。頬杖の跡が
赤く何時間も残った。
 家の仕事を手伝っても上の空。皿もコップも落とすは割るわで清美さんに「手伝いはいいから、
少し落ち着きなさい」と笑われる始末。
 こんなことじゃいけない。そう自分を戒めても、続くのは「こんなことじゃ、雄吾が呆れてしまう」と
いう理由。そして結局思惟は今日の再会へと漂ってゆく。


 この日が仕事納めの父は、いつもより出勤にゆとりがある。のんびりと食卓の席についた時には
もう、息子は旅立っていた。
「もう出たのか。まだ時間あるだろうに」
 すでに雄吾が読んだらしい新聞を開きながら言う。ふふっと笑って応じる母。
「居ても立ってもいられないんでしょうよ。年頃なんだから」
「年頃か。あのくらいの年頃なら、もっと反抗していいくらいだったからなぁ。もう吹っ切ったんだろう」
 立てた新聞のむこうで、安堵のため息がつかれた。

 事件があってから子供らしい闊達さや冒険心を失い、檻の兎のように批判を恐れて過ごす我が
子はまるで老人だった。たまに口にする感情的表現といえば、「そういうこともある」「どうしようも
ないよ」「仕方がない」と、諦めきった冷やかな言葉を洩らすだけ。
 『悪い人』であることから脱却しようとして『悪くない人』になった雄吾。
 何一つ我侭も言わない代わりに個性も主張も出さない。
 機械仕掛の木偶のように定めたスケジュールをこなすだけ。
 寝坊も夜更かしもしない。
 趣味だった本も音楽も、整頓された棚から引き出されることがない。休みの日でも部屋で勉強
するだけ。滅多に外出することもなく、息抜きといえば見ているのかどうかわからないテレビの前に
いるぐらい。
 かかってくる電話もない。嫌がらせの電話のせいで番号を変えてから、新しい番号を誰にも教えて
いなかったのだろう。自ら進んで囚人になっているような息子だった。

 精神的な転地療法と思い、航空券を与えた。ループする日常から隔絶させることが契機になれば
と願ってのことだった。父も母も、何も効果がなければ心理カウンセラーに頼ることも考えていた。

 東京の夏がピークに達した日。
 「ただいま」といって夕暮れに帰宅のドアを開けた息子は、迎えた両親に対して変わらず口数が
少なかった。
 旅先での出来事も、尋ねなければ口にしない。
 疲れているからかもしれない。失望を表に出さぬよう、二人は部屋に戻る雄吾をいたわりつつ
見送った。
 深く長いため息をついた時、僅かな振動と旋律が夫妻のところに届いた。
 二階の、息子の部屋からだった。
 かつては毎日のように響き、もう少し静かにしなさいと叱責したこともある音。

 CDをかけている。

 一年ぶりのこと。
 ステレオと同じように、息子にも心のスイッチが入ったのかもしれない。
 いい方向に向かいはじめたのだろうか。
 そうであることを二人は願った。

 残った夏休み。
 進展はないようだった。
 春野家からの電話では、だんだん明るくなっていったと告げられたがそんな様子もない。
 外出もせずに、閉じこもりがちな日々。音楽はよく聴いているようだが、振る舞いに積極性がない
のは同じだった。このまま学校が始まればまた逆戻りするのではないか。そう心配していた両親の
ところに、雄吾が1枚のチラシを持ってきた。
「俺、バイトしたいんだけど、いいかな」
 そう言って新聞広告を広げる。
「ちゃんと勉強するし、遅い時間にはならないようにするからやらせてほしいんだ」
 この時になって、二人は我が子が自分を取り戻すのではなく、新しい自分を見つけ出そうとして
いることを知った。

 電話も時折かかってくるようになった。
 アルバイト先での出来事を楽しげに話すようになった。
 修学旅行の後には、映画でも観るのだろう、遊びに出かけることもあった。
 そんな姿を見るたびに、夫婦は春野家の二人に感謝していた。

 だがどうやら、もう一人、感謝すべき人がいるようだった。


 暮れの休みに入ったせいだろう。この時間には珍しく空いている電車に揺られて雄吾は空港へと
向かっていた。
 頼むから、事故とかは勘弁してくれよ。そんなことを思いながら。
 東京では必要以上の防寒をした。車内では汗ばみそうなほど。一刻も早く、もっともっと寒い街へ
行きたい。


 葉野香は義姉と一緒に朝食の支度をしていた。達也はまだ寝ている。それはいつものことだし、
年末に入って店が忙しい。疲れているのがわかっているので、なるべく休ませてやりたい。
 でも。
「あのさ」
「ん?」
 包丁を使いながら、背中で返事する義姉。
「今日とか明日とか、手伝いできなくて、ごめんなさい。忙しいのわかってるのにさ」
 食卓に箸や小皿を並べていた手を止めて、葉野香は言った。
 義姉は軽く笑って、
「なに言ってるの。いいっていったでしょ。今ではアルバイトの学生さんだっているんだから大丈夫。
気にしないで楽しんでなさい」と、気遣いは無用と応じた。
「・・・・・うん」


 10月以来の羽田空港。
 帰省客でどこもかしこも混雑を極めている。
 今回は滞在が短いこともあり身軽な雄吾は、さっさと手続きを済ませ搭乗開始を待った。
 缶ジュースを自販機で買い、空いていた待合席で持ってきた文庫本を開く。これからここで、飛行
時間よりも長く待っていなくてはならない。家を出るのが早すぎたのだが、待つことだって有効に
時間を使っているように思える雄吾だった。


 朝食の席で、葉野香は兄に「鷹条を連れてこいよ。今日でも明日でもいいから」と、くどいほど
言われた。
「腹減ったら寄るかもしんないけど、わかんないよ。どこに行くか決めてないし。だいたいなんで
そんなに呼びたいのさ」と反問すると、
「そりゃあお前」
 箸で茶碗をチンと叩く。
「兄として立派に働いてるとこを見せとかないと後々、まずいだろう」
 またわけのわからない理屈を、と呆れる葉野香。
「なにを言ってんだか。修学旅行の時に寄ったんだからもうそんなのわかってるよ」
「あんときゃ、友達連れだったから話ができなかったんだよ。男と男の話し合いってのがな、必要
なんだ」
 なぁ、と隣の妻に同意を求めるも、清美はとりあわない。
「それじゃ雄吾には一応言っておくよ。一応ね。さて、あたしはそろそろ行くからね」


 エコノミークラスの窓際が、鷹条の席だった。夏に乗った時は綺麗な女の人が隣にいたが、
話しかける気分にもなれなかった。今日も話しかけたりはしないだろう。全く別の理由で。
 離陸して、着陸すれば北海道。
 あとは春野家へ行って、葉野香に連絡するだけ。
 やっと約束が果たせる。


 札幌駅から電車で新千歳空港へ向かう葉野香。
 彼はもう離陸したはずだ。
 一秒ごとにキロ単位で空白が埋められていることが気分を浮き立たせる。
 揺れる車窓からは白く塗り替えられた大地と森が流れる。
 あいつ、あたしが迎えに来てるのを見てどんな顔するだろう。
 期待してるかな。
 してないかな。
 擦れ違いにならないようにしないと。

 暖房のきいた車内に、一陣の外気が紛れこんだように、ふと不安が葉野香の脳裏をよぎった。
 もし、誰か別の人が迎えにきてたらどうしよう。
 親戚の人とか・・・・・
 知らない女の人とか・・・
 まさかな。それはないよな。
 こんなことを発想するのは初めてだった。
 彼は、あたしに会いに札幌に来る。
 そうだよ。そう約束したんだから。
 じゃ、約束しなかったら無理して来なかったのかな。
 してしまった約束を破るのがいやだから、しょうがなくてとか。
 そんなことは、ない。
 彼に限って。
 原色の絵の具が混ぜ合わされるようにわからなくなっていく。
 こんなことなら、ちゃんと迎えに行くって正直に言っとけばよかった。
 どうしてこんなときに、こんなこと考えちゃうんだろう。
 もう空港は近い。
 雄吾がどんな顔するかより、自分がどんな表情するかわからなくなっている。
 高鳴る胸は、乾いた音を立ててビートを強めた。


 何事もなく雄吾の乗った機体は行程を終えた。
 鞄を片手で背負い、彼は北の世界に身を踊らせた。
 空港設備なんて、どこでも同じはず。寒いわけでもないし針葉樹でできているわけでもない。
なのに特別の安堵感がある。
 やっとたどり着いた。
 感慨に耽るより、とりあえずはロビーに出ないと。

 大きなガラス窓越しに、葉野香は雄吾が舞い降りるのをじっと見つめていた。
 きれいに除雪された滑走路に着陸した瞬間は、万一の事故を考えて緊張が全身を走った。
 ゆっくりとタキシングしてゲートに接続される飛行機。
 もうすぐ、出てくるはず。
 止めようもなく小走りになって、葉野香は乗客の出口へ向かった。

 馴染みのある空港ロビーへ。
 家族連れの集団を避けるように歩く鷹条はふと思った。
 彼女に電話しておこうかな。
 ちゃんと着いたか気にしてるかもしれないし。
 春野家は、いいな。あとで。
 PHSは、どのポケットにしまったか・・・・・


 葉野香の眺望が、突然焦点を結んだ。
 雄吾だ。
 あの髪型。あの歩き方。あの表情。
 やっと、逢えた。

 彼はなにやらポケットを探っている。
 こっちに気付いていない。

「よ、よう」





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