『屠龍の乙女編 第2話』
「いやぁ、助かったよ」
隊商の長が上機嫌な顔で話しかけてきた。「あの山賊たちに襲われたときはどうなるかと思ったが、噂通りの実力なんでびっくりしたよ。それにそんなパーティーに破格の値段で来てもらえるとは本当に光栄だ。何と礼を言えばいいのか分からないよ」
「いえ、私たちもこの街に用事があったところですし、馬車に乗せていただいたんですから気にしないで欲しいぐらいです。それに、むしろこの程度のことで報酬をもらうこと自体が心苦しくて……」
「いやいや、これは我々の誇りにも関わることだ。君たちほどのパーティーを雇ったのに報酬を払わなかったとなれば末代までの恥。君たちから見ればはした金だろうがどうぞ受け取っていただけないものだろうか?」
「そこまで言われるのでしたら遠慮なく……」
瞳は柔らかな笑顔で答えた。
「また何かあったときはよろしく頼むよ」
「こちらこそ」
隊商の長は一礼するとそのまま街の中心へと向かっていった。
「何をたくらんどるね?」
「人聞きの悪いことは言わないで欲しいわね、神咲さん」
「千堂、あんたがただの湯治を企画するわけなか。……本当に何を考えとるね?」
「全く、神咲さんも疑り深いわね」
瞳は苦笑しながら、「私たちだってうら若き乙女なのよ。自分の容貌を気にしないでどうするの? 毎日毎日暗くてじめじめした迷宮という密閉空間の中で斬ったはったの心落ち着くことのない稼業。その上魔術の爆炎やらなんやらで髪やお肌があれやすい上、手入れする時間がない。……これじゃ想い人を振り返らすこともお互いできないと思わない、薫?」
「な、なんを言うとね!」
瞳は大きく溜息をつくと、
「……今更言うのも何だけど……本当に誰も気づいてないと思っているの?」
「……」
「多分気づいていないのは耕ちゃんぐらいよ。……まあ、耕ちゃんが現役を退いた理由がパーティー内の人間関係のもつれらしいからなるべくそういうことに疎いふりをしているって可能性もなきにしもあらずだけどね」
「そ、そうなんですとか?」
そんな二人の会話を見て、
「……薫さん、そこはかとなく動揺している上、話を逸らされたのに全然気がついてないね……」
と、知佳が同情の眼差しで薫を見つめる。
「そんなことはどうでもいいのだ。あたしはさっさと温泉に行きたいのだ。こんなところで油を売ってないでさっさとごちそうを食べにいくのだー」
「ごちそうか……いいねー。あたしもさっきの戦闘でもうお腹ぺこぺこなんだよね。美緒ちゃん、とりあえずなにか食べにいこうか?」
「うむ、それはいい考えなのだ。あそこの二人はほっといていくのだ」
勝手に盛り上がってる二人に向かい知佳は、
「泊まる旅館の名前ちゃんと覚えてるの?」
と、確認する。
「……どこだっけ、知佳ちゃん?」
「もぅ、ちゃんと覚えてないと駄目だよ、みなみちゃん。……ええっと、ここだから道に迷ったらちゃんと町の人に聞くんだよ?」
知佳はメモ帳に素早く旅館の名前と場所を書く。
「知佳ちゃんは心配しょうだなー。大丈夫だよ。じゃ、行こうか、美緒ちゃん」
「いくのだー」
二人はいい匂いがしてくる方へと足を向けた。
知佳は二人を見送り、姿が見えなくなってから瞳と薫の方へと目を向けたところ、
「大丈夫よ、耕ちゃんは年下好きだし」
「……でも」
「薫も自信もって、ね」
と、完全に薫は瞳に言いくるめられているところだった。
「……まだ続いてる……」
少しばかり呆れた顔で知佳は、「瞳さん、薫さん。そろそろ旅館の方に行きませんか?」と、恐る恐る声をかけた。
「みなみ、これ行けるのだ」
「美緒ちゃん、このお肉美味しいよ」
市にたっている屋台を巡り歩きながらみなみと美緒は幸せに酔いしれていた。
「じゃあ、これとこれを買って帰るのだ」
「そうだね。知佳ちゃんにもあげないとね」
「瞳と薫はきっと食べないだろうから買わないでいいのだ。……みなみ、あの店からかなりおいしそうなにおいがするのだ! あの店に行くのだ」
「あ、美緒ちゃ~ん、待ってよー」
脱兎よりも素早く美緒は指さした店に向かって突っ込んでいった。みなみも足には自信がある方だったが、山の中で野良猫たちと野性に近い環境で遊び、現在では『野伏(レンジャー)』として冒険者をやっている美緒には到底かなわない。
「みなみ、遅いのだ」
「うう、そんなこと言ったって美緒ちゃんに追いつけるわけないよ」
やや肩で息をしながらみなみは抗議した。
「そんなことはどうでもいいのだ。今はこのおいしそうなにおいの元を頼むのだ」
「注文するのは良いんだけど……、どれだか分かる?」
みなみはメニューを美緒に渡す。
「……わからん……」
「美緒ちゃん、それじゃ困るよー」
「片っ端から頼んでいくのだ」
「……う~ん……」
「どうせさざなみ寮に戻ればお金は使い切れないほどあるのだ。愛も薫もいないここで無駄遣いしても怒られないから問題ないのだ」
「そういう問題かなー?」
「問題なのだ」
みなみも美緒も既に冒険者としては成功を収めた方である。天文学的数字とまではいかなくても、かなりの年月を左うちわで暮らしていく分ぐらいはもう稼いでいるのだ。やろうとすればこの店を買い占めることもできるだろう。
「別に無駄遣いを気にしているわけじゃないんだけどね……」
「……みなみも『だいえっと』とかいうのを気にしているのか?」
「そんなんじゃないよー。食べた分はちゃんと運動しているし、食べないと元気でないから」
「それは当然なのだ。ならなんでなのだ?」
「ええっと、う~んとね……」
実のところみなみはさざなみ寮を出る前に耕介と愛から、「くれぐれも美緒に無駄遣いさせないように」と、念を押されていたのだ。
それを本人の前で言うわけにもいかず、なんて言おうか悩んでいると、
「変なみなみなのだ。……そこの人、ここのめにゅーに書いてあるものぜんぶもってきてほしいのだ!」
「み、美緒ちゃん!」
結局美緒を止められなかったみなみは泣く泣く自腹を切ることとなった。
とりあえず旅館の方へ行くこととなった瞳と薫に知佳であったが、
「……千堂? なんでうちらは冒険者の酒場に来とるね?」
「え? なに言っているのよ、神咲さん。冒険者が他の街に着いたらまず酒場で情報集めすることは世間一般で言うところの常識でしょ?」
「……何だかなー」
知佳は一つ溜息をつく。「この街には休養しに来たんじゃなかったんでしたっけ?」
「まあそれはそれ、これはこれって言うじゃない、昔から」
「うちは聞いたことないが……?」
「とにかくそういうものなのよ。冒険者たるものいつも最新の情報をもってなくちゃね」
瞳はそのままカウンターに向かい、「マスター、この頃面白い話はない?」
「……まあ、千堂がうちらの話に耳を傾けるはずもないか」
何か悟ったかのような表情で薫は呟き、そのまま瞳の後を追った。
「ははは」
乾いた笑みで誤魔化しながら知佳は二人に続く。なんとなく自分が流されているような思いを抱きながら。
「面白いことか? こんな鄙びた田舎町じゃなぁ、そうそう良い話はないぞ」
酒場のオヤジは手に持ったワイングラスをみがきながら答える。「で、注文はなんだ」
「そうねぇ、ジュースで良いわ」
「なんの?」
「任せるわ。まだアルコールって時間でもないし」
「うちは日本茶を……」
「わたしはできれば紅茶なんかが良いんですけど、あります?」
「うちは喫茶店じゃないんだが……!? まさか、この注文……。あんたらもしかしたら風芽丘で一番と言われている……?」
「皆まで言わなくても良いわ」
瞳はオヤジをそう制し、「察しの通り私が千堂瞳よ。……それで、何か面白い話はない?」
「……ないワケじゃないんだが……」
オヤジはグラスをみがく手を休め、天井を見上げる。「話して良いモノかどうか、……な」
「……何だか面白そうね。それで、どんな話なの?」
「この街の裏手にあるあの山なんだが」
オヤジはそういうと窓に映る山を指さした。「昔からあの山には龍(ドラゴン)がすんでいると言われていてな……」
「へぇ」
その時、瞳をみていた知佳はほんの一瞬、正に刹那としかいいようのない短い時間だったが瞳の目が妖しく光ったような気がした。「それ自体はどこにでもありそうなお話ね。……それで?」
「まあ、年に何回かそれ相応に腕の立つパーティーが山には入っていっては帰ってこないもんでな。いつしか噂は大きくなり、この街にもかなりの数の冒険者が入ってくるようになった。……それがつい数ヶ月前からか様子が変わってきてな」
「どんな風に?」
マスターの勿体ぶった話に惹かれるように瞳は尋ねた。
「山には入った冒険者が皆狐につままれたような顔で下りてくるようになったのさ。誰もが道に迷い、気がつくと麓にいたって寸法さ」
「今まではそんなことなかったんですか?」
日本茶を飲んで待ったりとしている薫の存在すら忘れて知佳もまたマスターの話に引き込まれていた。
「ああ、誰一人帰ってこないってことはあっても迷って帰ってくるというのはなかったなぁ」
マスターはふと店に目を見渡してから、「いや、一人いたか……」と呟く。
「……ところで、龍が棲んでいるって話は本当なのかしら?」
「さあねぇ、誰も見たことないからなぁ。……だが、少なくとも腕利きの冒険者たちが帰ってこないところを見れば何かがいるのは間違いないだろうな」
少し遠くを見るような目をしながらマスターはグラスを拭く作業を再開した。
「そう、何かがいるのね……」
瞳は腰に差している大剣を愛おしそうに触りながら再び窓から見える山を見上げた。
「あの山だけは止めときな」
山を見つめている瞳に話しかけてくる嗄れた声の男がいた。「あんたがどれほどの腕かは知らないが、あの山だけは止めとけ。命が惜しいのならばな……」
瞳たちは急に話しかけてきた男を見た。マント付きフードを深く被っていて顔はよく見えなかったが、声や仕草からかなり酔っているように見受けられた。
「あら、ごあいさつね」
「はっ! あの山を何も知らないヤツがいきがるんじゃない。……あの山には魔物がいるんだ……。……や…めて……お…け……」
そこまで言うと男はいびきをかいて眠り始めた。
「すまねえな。そいつがあの山から帰ってきたたった一人の生き残りさ」
「道理で……」
「まあ、許してやってくれ。そいつがパーティーと一緒に山に入ってから何日かあとに待ちの入口で倒れていたのさ。飲まずに入られないんだよ」
「へー、そうなの。で、この人はいつ帰ってきたわけ?」
「……そうだなぁ、確か山に入ったヤツが道に迷って麓に帰ってきはじめるちょっと前だったはずだぜ」
「ふーん、そう」
瞳は眠りこけている男に鋭い一瞥を送る。「……まぁ、私たちには関係ない話ね。邪魔したわね」
瞳は情報料とばかりに金貨10枚をカウンターにおいて店を出ていった。
「千堂、待つとね」
慌てて日本茶を飲み干した薫がそれに続く。
知佳も後に続こうとしたが、何を思ったのか急にカウンターに戻り、
「ところでマスター」
「なんだい?」
「さっき言いかけてたことだけど……。わたしたちの噂ってどう伝わっているのかな?」
と、先程少しだけ気になったことを尋ねた。
「……あ、ああ、そうだな……」
急にどもったマスターはばつの悪い顔をし、「あんたたちが通った道にはぺんぺん草一つも生えないとか、迷宮に潜れば生けとし生きるものたちを皆殺しにしているとか、龍の方から逃げ出すとか……、そういった話だ」と、知佳にだけ聞こえる声で答えた。流石に他の二人に話すのは腰が引けたらしい。
「……あ、そうなんだ……」
知佳は聞かなかった方が良かったかな、と少しだけ後悔した。
三人が立ち去った後酔っぱらって眠りこけていたはずの男がぬっと立ち上がる。
「……厄介なことになったな」
先程の嗄れた声とは違い、張りのある若い男の声であった。
「はっ、小頭様。如何致しましょうか?」
「……現状のまま結界を張り続けろ。彼女たちならあれを殺(や)れるかもしれないが、だからといって上の命に反するわけにもいかん。もし、彼女たちが山に入ろうとしたら俺が出るからおまえらは手を出すな、良いな」
「しかし、小頭様」
「これは命令だ。……俺は部下を無駄死にさせる趣味はない」
「はっ?」
「……あの千堂瞳とか言う娘、俺の正体に薄々気づいたらしい」
「ま、まさか!?」
「さてな。最後のあの目、間違えなく俺を挑発していたよ。……場合によってはここの結界を抜かれる可能性もあるな……。兄者たちに早文を送るか」
男はフードを被ったまま瞳たちが去った方をいつまでも見つめていた。
その後どちらも紆余曲折はあったものの無事に旅館で合流し、夕食を食べたあと温泉にはいることとなった。
「うわー、広いね、知佳ちゃん」
みなみは露天風呂の大きさに驚きの声を上げた。その顔には満面の笑みを浮かべていた。
「そうだね、みなみちゃん」
知佳も最初は嬉しそうに笑っていたが、「……でも、わたしたちだけで貸し切りにしてもらって良いのかな?」と、やや罪悪感を感じるのか暗い顔をする。
「それは問題ないわ。一応それ相応のお金を払っているんですもの。これっくらいのサービスはしてもらわないとね」
いつの間にか二人の後ろに立っていた瞳が答える。「だから時間内は楽しみましょう。今日が終わればまたきつい冒険しなくちゃいけないんだから」
「こら、陣内! お風呂の中で泳ぐな!」
「別に迷惑かけてないから問題ないのだ」
「そういう問題じゃなか! お風呂ぐらい静かに入らんね」
「くろーる、くろーる。ばしゃばしゃー」
「この猫……!」
「まあまあ、薫さん。今日ぐらいは大目に見てあげましょうよ」
「神咲さん、ここに来た目的は休養なんだからもっとリラックスして。こんなところまで来て風紀委員みたいなことしないでも良いと思うわよ」
「知佳ちゃん、千堂。だからといって陣内を甘やかすわけには……」
と、薫が言おうとしたとき、
「みなみ、競争なのだー」
「よーし、負けないよー」
「……」
「折角来たんですから楽しまなきゃね」
瞳はそういって二人が泳いでいる場所から離れたところにはいる。「広いんだから、そう目くじら立てないで、ね」
薫は一つ大きな溜息をついてから瞳に習い、被害が少ない場所に入った。
「知佳ぼーはちゃんと見ているのだぞ」
「じゃあ、知佳ちゃん。合図をお願い」
「うん。それじゃいくよー。よーい、どん」
知佳の合図とともに二人は泳ぎ始めた。
「気の休め方は人それぞれなんだから、薫ももうちょっと肩の力を抜きなさいよ」
「そうですよ、薫。こういうときぐらいはちゃんと休まないと」
いつのまにやら二人のそばに来ていた十六夜が薫に声をかける。
「ふー。二人して言わんでも分かってる」
「なら良いのですが……」
「たまの休暇なんだからゆっくりと休まなきゃね。……またすぐに荒事がある気がするし」
最後の一言は誰にも聞こえない声で瞳はそっと呟いた。
「は~、いい湯だったのだー」
「そうだねー」
ご機嫌な美緒とみなみの後ろを知佳はついていった。
薫は、「もう少し入っているから」と十六夜と一緒にまだ露天風呂におり、瞳は何故か先に出て部屋に戻っていた。
美緒とみなみがフルーツ牛乳を買いに売店に行って何となく手持ちぶさたの知佳がふと外に目をやると浴衣に身を包んだ瞳がいた。
「あ、瞳さん」
「ああ、仁村さん。どうしたの?」
「えっと、どこか行くんですか?」
「ええ、ちょっとのぼせた感じがするから、湯冷めがてらそこら辺を散歩してくるわ」
「そうですか」
「ええ、じゃあ、ちょっと行ってくるわね」
「はい、いってらっしゃーい」
知佳は瞳の背中に向かって手を振る。
その時知佳はなんとなく違和感を感じたが、その正体に気づくことはなかった。
後でフルーツ牛乳を飲み終わった美緒とみなみの二人と合流したときに、その違和感の正体に気がついた。
ちょっと散歩に行くだけなのに愛用の棍と、大剣を腰に差していたのは何故だろうか、と。
知佳はなんとなく言いしれぬ不安感を覚えたが、じきに暴走し始めた二人を止めるのに手一杯となりそのことは頭の片隅へと押しやられた。
「さて、と」
瞳は昼間酒場から眺めた山の麓にいた。
そして、腰の大剣の柄に手を置いて、「ここね」と呟く。
その山は鬱蒼とした森で覆われており、夜中と言うこともあって何とも言えない雰囲気を醸し出していた。熟練の冒険者でさえ腰が引ける何かを感じさせる森に眉一つ動かさず瞳は旅館から借り受けた提灯を片手に入っていった。
暫く道なりに進んでから、
「……囲まれたみたいね」
と、確認するように呟く。
そのまま数歩進んでから立ち止まり、道に迷ったかのように辺りを見回す。一瞬、間をおいてから再び進み出すと見せかけて、一気に藪の中に突っ込む。
「……!?」
いきなり目の前に瞳が現れ驚く覆面の人影に瞬時に抜いた棍で面打ちする。
そのまま、昏倒し崩れ去る人影を確認する暇もなく、いつの間にか彼女の後ろにつけていた相手の脛に容赦のないローキックを叩き込み、
「最大光力ッ!」
と、提灯から顔を背けて謎の言葉を瞳は叫んだ。
刹那、瞳のもっていた提灯の光が真昼の太陽よりも明るい真白な光を生み出し辺り一帯を照らし出した。その光に目をやられ樹上にいた者たちが蚊遣りに燻された蚊のように地上に墜ち、地上で瞳を囲んでいた者たちもまた目のあたりを押さえのたうちまわる。
「……以外と呆気なかったわね……」
呆れた顔で瞳は辺りを見渡した。
既に提灯の光は完全に消え去り、闇の帳が辺りを支配していた。
もし、この現場に魔術師か魔導師がいたら瞳が行ったことが魔術であったと分かったであろう。だが、魔術の心得のない瞳が何故その様なことができたのか?実は瞳が提灯の中に仕込んでいたものは初歩中の初歩といわれる『光(ライト)』の術を封じた呪符であった。当然彼女が作ったわけでなく、真一郎が幾つかの呪文で誰でも使える呪符をちょっとした実験といった感じで作っていたのでそれをもらったのである。
瞳がわざわざ提灯の中身に呪符を使っていたのはわけがあった。彼女は酒場でこの山の情報を聞く前からこの山の噂を聞いていた。風芽丘で隊商の護衛の仕事を引き受ける前にひいきにしている情報屋から面白いネタとして幾つか情報を買っていたのである。その中に二つ程気になる情報があった。その一つがこの山が何者かに監視されており、入ってくる冒険者たちを何らかの手段で麓に追い返しているというものであった。その情報の裏付けを探すために入った酒場であからさまに怪しげな──明らかに自分の力量を隠している上、どうやら声まで変えている──男が「山に向かうな」と言った時点で瞳は情報の確かさを確信した。
だからといって罠の存在を分かっているからとはいえ真正面から挑んではまず他のパーティーと同じ運命を辿るのは容易に想像が付いた。そこで瞳は一策施すことにしたのだ。それがたった一人で乗り込み相手が油断したところを一網打尽にするという良識のある冒険者ならばまず考えない無謀の極みとも言える策である。
だが、彼女には勝算があった。そのためにパーティーのメンバーに気づかれないように一人で山に入り、敵に囲まれたところで数段重ねの策を実行しようとしたら、それこそ足止め程度に考えていた一番最初の策によって全員が倒れてしまったのである。瞳が拍子抜けをしたところで誰が笑えようか。
しかしながら瞳も知っていない事実が一つある。実は真一郎の呪符は彼が考え出した非常に特殊な『光』の術式が書き込まれており、ただ一人その術を発動させた者を除いてたとえ目を瞑ってその光から身を守ろうとしても確実に網膜を灼くという恐ろしく危険な効果をもたらすものだったのだ。その効果は一瞬ではなく、少なくとも三十分は効果を持ち続けるという視覚によって情報を入手する生き物を容易に無効化できるという効率的な術でもあった。当然、真一郎もこれを人手に渡す気はなかったのだが、瞳の強い熱意と押しに負けつい彼が実験的に新しい術式で作った呪符を全てあげてしまったのである。彼が大輔に、「……瞳ちゃんのあの笑顔には絶対に負ける」と、拳を握り力説していたとバー『FOLX』のマスター国見隆弘から三人で飲みに来ていた愛、真雪、耕介が聞いたのはまた別の話である。
「……さて、どうしたものかしらね? 明日私たちの邪魔をできないように悪いけど全員足の骨の一つでもおっておこうかしら」
さらりと鬼のような台詞を吐いた後、棍を構え直す。「……で、いつまで見ているのかしら?」
「……さてね。とりあえずは君が隙を見せるまでかな?」
「余裕ね。……まあ、圧倒的にそっちが有利なんだから当然なのかしら」
「有利? 面白い冗談だな。油断してたとはいえ部下たちを一瞬で一掃した知恵の持ち主相手にそこまで傲慢になる度胸はないよ、千堂瞳さん」
「……やっぱり、あなた酒場にいた男ね。ただ者じゃないと思っていたわ」
瞳は嬉しそうに微笑む。「昼とさっきはちょっと拍子抜けしちゃったけど、今度は久々に楽しめそうね」
「……『秒殺の女王』にそういわれるとは光栄だな」
男は気配を消したままどこからともなく話しかける。「掟により名を名乗れぬ非礼を許してもらいたい」
「以外と律儀ね、忍びのくせに。……誰かを思い出すわ」
クスリと笑い、左手を懐に入れる。「それじゃ……始めましょうかっ!!」
言うや否や瞳は左手で握っていた呪符を木に張り付け「光よ!」と叫んだ。
再び辺りを明るい光が満たす。
それと同時に瞳に対して向かいくる殺気があった。余裕の表情のまま瞳はそれをかわすとそのまま殺気が飛んできた方向に走りだす。
かくして死闘が始まった。
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