そ の 歩 み   法 巌 寺 沿 革

開創は古く、奈良時代に僧行基(668749)によって、現在の伊丹市昆陽(こや)に建立されたと伝えられています。今から約470年前、大永2年(1522)に鎮蓮社(ちんれんじゃ)西譽(さいよ)上人(?〜1572)によって昆陽(こや)から現在地(伊丹市中央2丁目)に移されたものであります。 

 (行基菩薩像・前住職大譽上人が昆陽中宮寺にある行基像を模刻)

 行基は民衆への仏教伝道とともに、農業水路、池、橋などの造営を指導したり、布施屋といわれる救済施設をつくるなど社会事業に尽力されました。伊丹地方では、昆陽池の造営は有名であります。このような事業に関わる寺院の一つとして、また昆陽村におけるその後の行基信仰の拠点として、法巌寺があったと思われます。

   元禄7年伊丹郷町絵図・伊丹博物館所蔵

現在地に移転してより二度火災にあい焼失したが、第8潅譽(かんよ)上人の時、貞享5年(1688)本堂庫裏など伽藍が整備されました。このときの伽藍がその後修理を施されながら平成7年まで約300年間維持されてきました。

 (旧伽藍の全景)

江戸中期には、伊丹が酒造業で繁栄し文化も発展してくると寺勢も大いに高まり、観音堂、稲荷社地蔵堂、鐘楼などができ、梵鐘の新鋳、本尊再興も行われました。

 幕末にかけては文化人との交流もあり、近衛家の今出川御門を拝領(嘉永3年)し、鐘楼を改築し門前が整備されました。

 その後、明治の激動期を経て大きく社会が変わる中、歴代住職・檀信徒の努力により護持されて来ました。しかし建立以来300年を経て老朽化が進み、平成6年(1994)改築の計画が決定し、実施されようとした時、阪神淡路大震災(平成7年1月)が襲い、全面的改築事業として新伽藍の建設が進められました。檀信徒一丸となってこれに取り組み、四年の歳月をかけ平成10年5月竣工となり、同年11月8日落慶法要が修されました。

 

  新伽藍全景                     本堂内部

 

 

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