バルセロナの豆腐屋の話、つづき
 日本に帰って、ワンゲルの先輩が清水の豆腐屋の話はネットに載っていることを知らせてくれました。
 そこにも、僕のサイトと同じような製造機械の話や写真が載っているのですが、オーナー兼製造職人の清水についてはあまり詳しく載っていません。
 元ページに朝日新聞論説委員と書きましたが、単に論説委員だけなら、目立つはずもないのですが、彼は、退職近くにニュース・ステーションのコメンテーターをしていたのです。何年からだったかは忘れましたが、久米宏の時代で、3年ほどやったと言います。当時三上は10時にテレビを見る暇はなかったし、個人的好みから言っても筑紫さんのニュース23派でしたから、彼がどんなコメントをしていたのかは知らないのですが、彼がコメンテーターとして登場した時、のけぞるほど驚きました。
 マア、考えてみれば、大学時代、かれは「展望」という学生発行の雑誌(有名な筑摩書房のものとは全く違います)に居ましたから、そう不思議ではないのですが、東京本社でそんなポストに居ることに驚嘆したのです。たぶん最後は今はなき『論座』の編集長だったようです。
 彼のこういう経歴を知ったら、豆腐を買いに来た人も驚くでしょうね。
 なぜバルセロナ?豆腐屋?については、元ページに書いた通りなのですが、バルセロナ行きを宣言した手前、退職前から準備を開始したが、家族がそれなりに理解・協力してくれたのは稀有なケースだと言われているそうです。子供3人は早くから自立を促していたそうですが、配偶者が一緒に来てくれることはなかなか難しいこと、妻君は「マア、仕方ないですね」という感じでした。
 退職後、約2年間、自身は千葉の豆腐屋で修業し、掲載している豆腐製造の機械も相当高額なので、新品を購入するのは難しく、中古を買って、日本から輸送したそうです。店舗の物色も、リーマンショック等の影響で、この周辺でも物件は比較的入手しやすくなったのは幸運だったようです。絨毯爆撃的に店を見て回ったとか。
 彼の仕事の展開は、日本の豆腐製造業者の間で注目されていて、千葉の業者団体の青年部では、清水が成功すれば、まだ、豆腐屋が一軒もないヨーロッパの諸都市(ロンドン、パリ、ローマ?)への日本人進出を励ますことになる、ということで期待を集めているとか。
 先行き不透明ですが、彼は、とにかく、70歳まで頑張る。それから、永住するのか、日本に帰るのか、決めようと思うと話していました。詳細は聞き逃しましたが、彼は伊能忠敬を調べたことがあり、商人として財を成し、そして第二の人生を日本の測量・地図作りにかけた。そういう生き方(人生2回論?)を理想にしている、というようなことを言っていました。だから、得意の文筆で、この稼業のことを書けよ、と言っても「もう書かない」と断言していました。
 
▲店舗の正面から ▲清水建宇君と三上の記念写真 ▲夕食は揚げの味噌汁と冷奴、日本的弁当  
▲名刺の表側 日の丸ネエ…とは思うけど ▲同じく裏側 この洒落が解るのは…

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