論理的である、それだけでは十分ではない
:論理的で矛盾がない仮説はこれまたいくらでもある
科学とは論理的で矛盾がないことである
それは確かに間違いではないのですが、これだけではちょっとまずそうです。もちろん、”矛盾がない”、ことが悪いのではありません。問題は、”矛盾がないだけで十分なのか?”、という点にあります。
さきほど、写真のパズルの組み合わせを例にして、有限の証拠と情報から導き出せる仮説の数は無限であるという話をしました。
付け加えてここで話すことは、矛盾のないアイデアだけにしぼっても、そんなものは幾らでもあるということなのです。ここでもう一度先ほどのパズルを見てみましょう。
以上の↑この写真の組み合わせには何の矛盾もありません。背景はそれぞれつながっていますし、おかしな点はありません。ですから、この組み合わせは論理的で矛盾がない、そう言うことが出来そうです。
では次ぎの組み合わせはどうでしょうか?。
この組み合わせに矛盾点はあるでしょうか?。例えば背景が食い違っているとか、そういう矛盾はあるでしょうか?。ありませんね。つまりこの組み合わせも論理的で矛盾がない、そう考えることができるはずです。
では次ぎはどうでしょう?。
以上の2つと違ってちょっと複雑ですね。わらしちゃんがいますから。でもこの組み合わせにも問題はありません。いずれにせよそれぞれ矛盾はないのです。つまり矛盾のない組み合わせが幾つも出来てしまうということなのです。
このことは次ぎのことを示しています。
”限られた数のピースから導き出される矛盾のない組み合わせは幾つもある”
架空の背景を仮定すればこうした矛盾のない組み合わせはいくらでも作れそうです。ですからこのことを次ぎのように言い換えることに無理はおそらくありません。
”有限の証拠から導き出される矛盾のない仮説は無限に(あるいは幾らでも)ある”
:矛盾がないだけでは基準としてはあまり訳に立たない
でも・・・本当にそうなのかな?、そう思う人はいませんか?。では次ぎの仮説を考えてみましょう。
”全知全能の神が世界を創造した”
”全知全能の神が30分前に世界を創造した”
”全知全能の神が5分前に世界を創造した”
↑以上、これらの仮説に矛盾はありますか?。ないはずです。全智全能の神ならいかなることも可能です。世界を5分前に創造することも可能なはずです。この仮説では5分前より以前にさかのぼる私達の記憶は実際には体験しなかったまやかしになってしまうのですが、これは矛盾ではありません。私達が存在しなかったはずなのに、あたかもはるか前から自分達が存在してきたかのような思い出や記憶を植え付ける。まるで5分前より以前から私達が存在していたかのような証拠を創造する。子供のころにつけた身体の傷跡。家にある何年も使いこんだキッチンやはき古したクツ。パソコンの過去のデーター、自分の勤め先や学校。
さらには皆さんが見ているこのコンテンツ!!。
全知全能の神ならば、ありもしなかった過去がまるで存在していたかのように思わせる証拠を、注意深く完璧に創造できるはずです。ですからこれらの仮説に矛盾はまったくありません。
さらにいえばこの手の仮説は他にいくらでも出てきます。神というところを別の名詞に変えたり、世界が創造された時間を微妙に、あるいは大幅にずらしたりすればいい。つまり仮説はいくらでもあるってことです。
でも・・・、普通に考えてこれって科学ではないですよね。このことから矛盾がないんだから正しいだろう?って主張がいかにも怪しいということが分かります。だって何度でも言いますけど以上の仮説には矛盾なんてないんですから。つまり、論理的で矛盾がない、というのは必要最小限なことではありますが、それだけでは仮説を選ぶ、あるいはそれが正しいって理由にはならない。矛盾のない仮説や結論が無限にあるのだから、論理的で矛盾がない、という基準はまるで(あるいはたいして)役に立ちません。
論理的に矛盾がない、だけでは仮説は選べない。
では科学ではどういう基準で仮説を選ぶのでしょう?。