若い愛人はいかにして心配することをやめ、幽霊になったのか
燕(紀元前にあった中国の王国のひとつ)の人の李季(りき)は遠出が好きであった。その妻はひそかに若い男と密通していた。あるとき李が突然帰ってきた。若い男は部屋にいた。妻はおろおろした。
召使いの女がいった。
「あの方(若者のこと)に裸になって髪をばらばらにし、一目散に門から出ていってもらいなさい。わたしたちは見なかったふりをいたしましょう」。
そこで若者はいわれたとおり。一目散に門を駆け抜けていった。
李はたずねた。
「ありゃだれだ」
家の者はみないった、
「だれもいませんよ」
李はいった。
「わたしは幽霊を見たのか」
女たちはいった、
「そうですわ」
「どうしたらいいだろう」
妻はいった、
「五牡(牛・羊・豚・犬・鶏)のふんをとりよせて、それで湯浴みをすればよくなりますわ」
李はいった、
「そうしよう」
そこで五牡のふんで湯浴みした。
『韓非子 下』 韓非子 1992. pp72 町田三郎訳注 中公文庫 ま53
・・・・・・・・・・。李季さん、えらいことになってしまいました。このエピソードは古代中国(紀元前3世紀)にいた思想家、韓非子の著作から引用しましたが、ここから大事なことが分かりそうです。
皆が言っていることが一致しているからといってそれが事実とは限らない
今度はちょっと別のことを考えてみましょう。私たちは”この話”の前後も内幕も知っています。ですから李季さんが騙されていることを知っています。ですが、当事者の李さんの立場だったらどうでしょうか?。家に帰ってきたら裸の男が髪を振り乱して走って出ていきました。おまけに家の人は皆がみな口をそろえて言うのです。
「そんな人いません」
わたしは何か変なものを見てしまったのか?。一瞬、そんな考えが李季さんの頭をよぎるでしょう。でも・・・・。
もし李季さんがもう少し疑い深いか慎重だったのなら、どうなったでしょうか?。
その場合、李季さんはこう考えるかも知れません。
「わたしは幽霊を見たのかも知れない、でも、もし私が見たものが幽霊でないのなら痕跡が残っているはずだ。幽霊を見たと結論するのはもう少し調べてからにしよう」
最初の話で李季さんがこう考えて確認していたら、幽霊ではなく本物の若者がいたことに気がついたかもしれません。李さんは急に帰ってきたのですから、若者の服は処分されていないのではないでしょうか?。妻の寝室や部屋に痕跡があるかもしれません。ようするに証拠集めをすれば、何かしら見つかりそうです。証拠はほどなく見つかるでしょう。少なくともそう考えてもよさそうです。
皆が同じことを言っていてもそれが事実とは限らない。だから対立する証拠がないか、皆の主張におかしな点がないか、もう少し検討してみた方が良いのではないだろうか?。
では今度はさらにもう少し違う状況を考えてください。
李季さんがだまされているという前提が無くなったらどうなるのだろう?
上のもとの文章から、
”夫の留守に若い愛人とよろしくやっていた”、
”突然の帰宅に困った”、
”皆で李季さんをだまくらかした”、
これらの部分をみんな抜いてください。すると読者である私たちが知っているのは、家に帰った李季さんが変な男を見て、しかも家の人が皆それを見ていないという文章だけです。
この場合、幾つかの可能性を私達は思い付くはずです。家の人の言っていることは本当かもしれませんし、あるいはウソかもしれません。ともあれ、私たちはいろいろ考えるでしょうし、李季さんも色々調べるでしょう。証拠が何かしら出てきたらどうでしょうか?。当時の習俗がどういうものなのか知りませんが、例えば寝室に飲みかけのお茶が2つあったとか、シーツに少し乱れた跡があるとかいう、そんな証拠があるでしょう。でも、いっこうに証拠が見つからなかったらどうなるのでしょうか。
いくら探しても男の服もなければ、寝室に痕跡もありません。シーツの乱れも髪の毛も残っていないし、妻の身体も調べますが何もありません(わお、過激〜〜)。玄関に遠くから運ばれた土もないし、足跡も残っていないし、近所の人に聞いても男の目撃例なんてないのです。食事の跡も、お茶を出した痕跡もなにもかも。
さて考えつく限りあらゆる場所、あらゆるものを探しましたが何もみつかりません。李季さんはここでなんと考えるべきでしょうか。
「みんながわたしを騙している」
そうに違いない!!。これはありそうな話です。ですが、そうに違いない!!と断定できるもんでしょうか?。少なくとも李季さんが科学とか最節約とか論理にもとづいて考えているのなら。このような仮説があることは間違いないのですが、この仮説を特に選択する根拠があるのか?、それを考えるでしょう。
皆が李季さんを騙しているという根拠はただひとつ、李季さんが見たものを皆が見ていない、そのくらいです。しかもこれは李季さんが見た、
”髪を振り乱して走る裸の男”
が現実であると仮定して始めて、成り立つ話ではないでしょうか。そして今、すべての証拠が「皆がオレを騙しているんだ説」を特に支持していないのです(つまり騙す理由が見当たらない)。この仮説にこだわるのはちょっと考えものです。
手持ちの証拠が何を意味しているのか、よく考えた方がいい。もしかしたらとんでもない思い込みをしているのかも知れない。
もし”髪を振り乱した裸の・・以下省略”が幻覚であると仮定すれば、騙しているんだ仮説はひっくり返ってしまうでしょう。すると、
「わたしだけがあの男(?)を見てしまったのだろうか」
李季さんはそう考えることもできそうです。とはいえこの説はあの男の正体について何か言っているわけではありません。裸の男が幽霊なのかもしれないし、幻覚であるのかもしれないし、妖怪なのかもしれません。
何かを見たことが分かっても、その見たものの正体まで分かったわけではない。ではどうすればいいのだろう?。
とはいうものの、李季さんなら、わたしは本物の幽霊を見てしまいそうです。李季さんはさっそく動物のふんで湯浴みするのではないでしょうか。
でもちょっとまって下さい。本当にそれは幽霊なのでしょうか?。
そもそも幽霊ってなんなのでしょう?。次ぎのページ:ラベルを何に貼る?へ→