――日常とホロコーストの記憶、記憶の新しい美学
ベルリンのシェーネベルク区にある「バイエルン地区」には、街灯に奇妙な看板が80も取り付けられている。平凡な絵が描かれたその裏面には、ナチス時代の法律や条令、ユダヤ人の書簡が書かれている。これも記念碑(1992年)なのであり、「ホロコーストの記憶」の新しい美学を体現している。
「熱烈歓迎」と書かれた看板の絵の裏面には「「外国からの客人が悪い印象をもつことを避けるために過激な内容の看板は取り外されるべきである。:「ユダヤ人はここではお断り」といった看板は十分である。 1936年1月29日」とかかれている。その下には次のような案内板が取り付けられている。
記念碑 バイエルン地区における記憶の場− |
バイエルン地区はかつて「ユダヤ人のスイス」と呼ばれていたほど、ユダヤ人が多く居住する地域だった。かのアインシュタインも、そのバイエルン地区に1918年から1933年まで居住していたのである。そのシェーネベルク区から6000人のユダヤ人が強制収容所に送られた。しかし、ナチスによってその痕跡は消し去られ、戦後の住民もその存在を忘却しつづけた。80年代後半になって、その記憶を呼び戻そうとする市民運動が、このような記念碑を成立させたのである。
年表
1983年 |
ヒトラー政権掌握50周年にバイエルン広場で展示会 |
1988年9/21 |
バイエルン広場に警告−追悼所を設立することをシェーネベルク区代議員会が決議 |
1988年11/9 | 「水晶の夜」50周年を機に、区代議員会に委託されたシェーネベルク芸術局がバイエルン広場で数週間にわたり野外展示会を数週間、開催。社民党地区協会がこの70以上の家屋の前の街路樹にかつてのユダヤ人住民の名前と出生日、強制移住の日付を書いた厚紙板を取り付ける |
1988年11/24 | 「アクティブ・ミュージアム」が「ベルリン歴史工房」と協力して、「バイエルン地区の殺害されたユダヤ人のための追悼所――43年、遅かったのか?」をテーマにパネルディスカッションが催され、約70名が参加 |
1989年11月 | 二度目の野外展示会 |
1991年6月 | 公開芸術コンペが公示 |
1991年11/27 | 第一次審査で96の作品のなかから8作品が二次審査へ |
1992年3/10−20 | 予備審査 |
1992年3/31 | 市民討論会 |
1992年4/1 | 審査委員会でStih/Schnockの作品が受賞 |
1993年 | 除幕式、それから10週間、バイエルン広場にパビリオン設置 |
その地区のバイエルン広場には総合案内板が設置されている。この町でナチス時代に何が起こったのかを想起する散策の案内板。大半のドイツ人が実体験していなかったユダヤ人殺害ではなく、日常の中で行われていた差別の「記憶」を想起させる記念碑。
左は猫の絵、その裏には「「今後、ユダヤ人がペットを飼うことは許されない。」その下をペットを連れた住民が散歩している。右はシューズの足跡の絵、その裏には「ユダヤ人の子供が通学に公共交通手段の使用を許可されるのは、学校が自宅から5キロメートル以上離れている場合に限られる。 1942年3月24日」と書かれ、小学生がその下を通学している。
左には「アーリア人と非アーリア人の子供が共に遊ぶことを禁じる。1938年」と書かれて、裏には石蹴りゲームの絵。そのそばには実際に遊び場があり、ドイツ人と外国人の子供は一緒に遊んでいる。
左;ベルリン銀行前に「銀行」と書かれていて、その裏には「「財産をドイツ経済の利益にために使用することを確保する」ために、ユダヤ人はその財産状況を公開しなければならない。 1938年4月26日」。右;パン屋とケーキ屋の前に、「ユダヤ人とポーランド人にケーキを売らないことを示す看板がパン屋とケーキ屋に取り付けられる。 1933年10月1日」とかかれていて、裏にはケーキの絵。営業妨害にならないかと、よけいな心配をしてしまう。
裏には「6歳以上のすべてのユダヤ人は、「ユダヤ人」の表示の入った黄色の星を付けなければならない。 1941年9月1日」とかかれているが、あえてその服を描かず、日常的なティーシャツにしてある。「悪の凡庸さ」を表現する戦略。