彼を待つ時間


 ハリーが学休期間の帰省中であっても当然月は丸くなる訳で、ルーピンはその日の夕方になると市販の脱狼薬を(あとで胃がむかついたり鼻血が出たりと毎回違う副作用が出るので3人は『暗黒の百味ビーンズ』と呼んでいる。ルーピンは口にこそ出さないもののホグワーツで教鞭を取っていた時代に飲んでいたものが懐かしいようだ)飲んでバスルームへ姿を消す。
 満月の間はどこかの山へ入るというルーピンの意見をシリウスが却下し、薬を飲んでいるのだから家の中を自由に歩いてはどうかというシリウスの意見をルーピンが拒んだ結果がそれだった。
「でもさ、トイレと分離しているタイプのバスルームで良かったよね」
 浴室のドアの前で座っているシリウスに聞こえるように若干大きな声でハリーは言った。彼は、万が一薬が効力を発揮せず、ルーピンが狼の本性そのままに町へでようとした時にそれを阻止する為そこにいる。
「ああ、改築したんだ」
 ハリーはキッチンから出ない事を条件に、その日だけは夜更かしを許されていた。平常は夜の9時にハリーをベッドに追いやる2人である。夜の9時!それについては、今時の普通の子供がどんな生活をしているのか、もう少し勉強してほしいと思うハリーだった。
「一体型のバスルームだったらシリウスと僕とで廊下でタップダンスを踊っていたよ。前を押さえてね」
 けふんけふんと可愛らしい咳が聞こえた。
 小さな肺の動物が吹出した音だ。ルーピンが以前に言っていたのだが、狼の体では笑いという動作を出力できないので、人間の意識がある状態で面白い事を言われるととてもつらいのだそうだ。
 シリウスが意地の悪い笑顔を浮かべた。
「タップダンスは明け方にはサンバになっているだろうな」
 今度は咳がさっきより多く繰り返され、小さな唸り声も混じった。ハリーもシリウスも思わず吹出す。
「先生って笑い上戸なんだよね」
「ん?ああ、ふいを突くと結構笑う」
「前に授業中誰かが先生に、今一番流行してたジョークを言ったんだよ。そしたら先生立ってられないくらい笑っちゃって、収まった後も5回くらい思い出し笑いで授業が中断したんだよ」
「初耳だな。お前の素晴らしい仕事振りが聞けて嬉しいよ」
 また中で狼の咳がして、「先生思い出し笑いしてる……」とハリーは呆れた。
「……どんなジョークだったんだハリー」
「え?ええと……忘れちゃった」
 それはスネイプに関するジョークだった。この家でその名は禁句である。
 シリウスとハリーは大抵こうやって夜通しルーピンの話をする。シリウスにはハリーの知らない学生時代の話が唸る程あるし、ハリーもシリウスの知らない1年間のエピソードを知っている。また、本人が律儀に毎回ぷりぷり怒りながらバスルームから出てくるのも、益々この噂話を楽しいものにしていた。
 何より彼を待っているという気分が一層強くなるのが良い、とハリーは思っている。
「学生の頃の先生はよく笑った?」
「いや……今よりは全然笑わなかった。でも……」
 タイルの上でカツカツ爪の鳴る音が始まった。居たたまれなくなった狼がバスルームの中をくるくる回っているのだろう。ハリーはその姿を想像して、バスルームに入っていって狼の姿で困っている彼を抱きしめられないのをとても残念に思った。
「でも何?」
「人と違うテンポで、人と違うポイントで笑っていた」
 ハリーが笑うのと同時にバスルームで狼が吠えた。
「先生が怒っちゃったじゃないか」
「リーマス、行儀が悪いぞ。遠吠えをおっぱじめるとは」
「先生、『静かに』」
 さすがに気の毒になってハリーは慌てて付け加える。
「でも先生が笑ってるところって僕は好きだよ!ちょっと激しすぎておいてけぼりにされちゃうのはあれだけどさ。お菓子の匂いがふわってするんだよね」
「お菓子の匂いのする中年男もどうかと思うが」
「笑った時だけだよ。普段は先生っぽい、準備室の匂いがするもの」
「準備室?」
「うーん、色々な教材の混ざった……物置みたいな匂い。シリウスだってそう思うでしょう」
 シリウスは目を丸くして、思ってもみなかった事を聞かれたという顔をした。
「さあ……匂いが分かるほど近付かないから……」
「ヤマアラシ2匹じゃないんだから、部屋ですれ違ったりするんじゃないの?」
「うーん……」
「シリウス、眠くなった?珈琲持って来ようか?」
「そうだな。頼む、ハリー」


 それからシリウスはハリーに、ドキドキするような学生時代の冒険話をしてくれた。それは箒マニアの嫌味な上級生との決闘から始まり、やがてはクィディッチの賭博・八百長問題と黒幕まで出てくる立派な物語だった。その中で父ジェームズや少年だったシリウス、ルーピン、(そしてシリウスは語らないけれど、想像で補うにあのピーターも一緒に)が知恵を絞り、行動し、協力して問題を解決していく様子がリアルに語られ、ハリーは彼等をホグワーツに今もいる同級生のように感じた。最後のシーンではコントロールを失い暴走する箒に乗ったシリウスを父ジェームズが追いかけ、彼の合図でシリウスはジェームズの箒へと命を賭けたジャンプを行う。ハリーは思わず拳を握って聞き入り、ジェームズとシリウスが危うく校舎に激突するところを、ルーピンの張った校旗が救った場面では大きな拍手をした。
 ハリーはいつも思うのだが、シリウスはとても魅力的な話し方をする。筋道が分かりやすいし、出てくる人物の特徴を掴んだ物真似が上手い。
 もちろんルーピン少年の物真似も披露してくれたので、ハリーは喜んでアンコールをしたのだが真似された本人は不満らしくドアを尻尾で叩いたような音がした。(シリウスはそ知らぬ顔でノックを返して、アンコールに応えたのだが)
 シリウス、役者になったらいいんじゃない?と顔を上げて言った時、ハリーは窓の色の変化に気付いた。
 いつも夜明け前に見る暴力的な色の変化。1日に使用する青をいちどきに貯めている最中のような空。
 部屋の中も、人の顔も、窓から見える木々も皆青色に彩色される。
 彼が月から開放される時間だった。
 ハリーとシリウスが沈黙する中、細く扉が開いて顰めっ面がのぞく。衣服はきちんと整えられ、まるで少しだけシャワーを使っていたかのようだった。
 姿を現した彼が、座っていたシリウスをぞんざいに踏みつけると、彼は大仰にうめき声を上げた。
「やあ先生」
 ハリーが声を掛けると、ルーピンは目尻に皺を寄せる笑い方をして振り返る。
「やあハリー」
 ハリーは走っていって彼に抱きついた。
「今回は何味の薬だった?」
「ゲロ味の薬だったみたいだよ。だからすぐに出てこられなかったんだ」
 ああ、ハリーの前で下品な言葉を使ってしまったと、ルーピンは口元を押さえる。
「物置の匂いがするかい?」
「うん、それと今は石鹸の匂いと」
「アニメーガスに対する不当な差別行為を断固糾弾するぞ」
 座ったままのシリウスが笑いながら大声をあげる。
「抗議団体の人が来てるみたいだね」
「朝早いから帰ってもらおうよ先生」
  ハリーがそう言うと、家長は立って来て2人の頭を掻き回した。


 運命というものが、自分と、この大切な2人にとって優しい庇護者であるとは、もはやハリーは思わない。けれど項垂れてみじめに耐えるつもりはなかった。そんな真似を自分はしないし、この2人にもさせない。笑いながら歩いてやる、とハリーはそう決めていた。
 どれほど踏みつけるような目に合わされても人を好きだという気持ちを忘れなければ駄目にはならない。それは決して終わらず繋がっていく。彼等のジェームズへの友愛が今は形を変えてハリーに注がれているように。ジェームズとリリーから2人への親愛の情が確かにハリーに受け継がれているように。
 それは壊せない。奪えない。


「僕、お茶を入れるね」
「ありがとうハリー」
 さっそく眠くなったのか、ダイニングテーブルに並んで着席した2人は半分瞼が閉じかけている。 それを笑いながら、ハリーは明るくなった台所へ歩いていった。




ハリーさん、ジェームズ遺伝子発動してますね。いや、少なくともその片鱗が。


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