来訪者


 目が覚めたとき、私は自分が昔に暮らしていたあの家に1人でいるのかと思った。今となってはぼんやりとしか覚えていない、全てが古ぼけたあの家。とても私に似合っていた。窓には傷があり、ティーカップは欠け、家具は必ずどこかしら壊れていて、まともな物は何一つなかった家。あそこでは時間はひどくゆっくりと過ぎた。
 何故そんな事を考えたのかといえば、風が通ったような寒さを感じたからだ。それに何か嫌な夢を見ていたような気もする。
 しかし壁には趣味の良い壁紙がシリウスらしい几帳面さで貼られ、天井はきちんと清掃され、窓にもヒビひとつない。ここは彼と私の家だった。どこもかしこも折り目正しい印象のこの家は私に似合っているようにはとても思えないが、ただここでの時間はとても早く過ぎてゆく。
 私はゆっくりとまばたきをして窓を見た。
 外は暗く月が高い位置にある。こんな時間に私が目覚める事は滅多にない。損をしたような気分になってもう一度目を閉じようとしたその時、階下で物音がした。
 この家には私だけが暮らしているのではなく、シリウスという同居人がいるのだから物音がしても別におかしくはない。加えて彼は起きぬけには滅法弱く、あちこちにぶつかりながら歩くという性癖の持ち主だった。
 しかし今の音は少し聞き慣れないような気がした。重いものが床に落ちたような音。
 私は額を強く押さえながら起き上がった。ここで考えているよりも確認してから再度眠ったほうが余程話が早いからだ。室内履きを探し、ガウンを羽織った。そして杖を手にとる。
 ……杖?
 私は自分が無意識で右手に握った道具をじっと眺めた。何故自分の家の居間へ行くのに杖が必要なのか。杖は私の感情などお構いなしに普段通り軽く、馴染んだ手触りである。
 月明かりに照らされたそれは、不吉な事柄のすべてを象徴化したように見えて一瞬投げ捨ててしまいたい衝動に駆られた。この状況はどこかしら今まで見ていた悪い夢の匂いに似ている気がする。
 けれど私は杖を離さなかった。
 頭に残っていた眠気は不意に消えうせ、自分の身体がどんどんと冷えていくのが分かる。私は自分の直感を信じてこれまで生きてきた。こんな気持ちのする時は碌な事がない。ドアを開けて廊下へ出ると、見慣れた筈のいくつもの扉が今は闇の中で冷たくよそよそしい。
 体質のせいなのか或いはそうではないのか、私は夜でもよく物が見えた。粒子の粗い月光に照らされモノクロになった家具の間を通り、私は部屋から部屋へと移動する。自然と足が早まった。
 案外、テーブルで水を飲んでいるシリウスを見つけて笑うことになるかもしれない。私は少しもそうは思えないにも関わらずに機械的に考えた。とりとめのない空想は私の古い友人にして常備薬、時に盾となりずっと私の側にいる。
 また物音がした。安易な夢想をあざ笑うかの如く、シリウスの足音ではないということがはっきりと分かった。私は眉をひそめて居間へと向かう。
 キッチンへと続く通路に立ったとき、こちらを向いた人物がいた。
 シリウスではなかった。
 まだ年若い青年。小柄な。
 家の中に、夜、不法に浸入した見知らぬ人間が立っているという視覚的な衝撃。その場所に立つのは、これまでシリウス以外はあり得なかったから激しい違和感があった。サラダを和えながらキッチンから出てきたシリウス、何か私には理解出来ない不満を俯き加減に小声で訴えていたシリウス、思い出話が白熱して身振り手振りを加えながら笑っていたシリウス。その彼が立っていた場所と同じ位置に見知らぬ青年が立っている。自分でも驚くくらいの嫌悪感が涌いた。青年の息を乱して肩を上下させている様子も、落ち着かず左右に揺れている眼も、半開きになった唇も、何もかもが厭わしい。偶然家に押し入ったマグルの物盗りだという可能性もなくはなかったが、私達2人の立場を考えるとそれ以外の確率のほうが圧倒的に高かった。
 後で考えるに青年はおそらくこの類の仕事をするのは初めての体験だったのではないだろうか。その目には驚きと戸惑いがあった。浸入した家の中で唐突にその家人と出くわして、相手を暴力的に沈黙させるという手段が一瞬彼の頭の中には浮かばなかったのだろう。だが私はそうではなかった。
 相手が人の姿をしていて、親しみの持てる外見だったとしても。いかに年若くても、例え子供だったとしても。私はその人物を殺傷する恐れのある魔法を躊躇なく使う気構えがあり、そして経験がある。
 私は真っ直ぐに杖を構えた。ようやく正常な判断を取り戻したのか、青年は杖を取り出す。けれど残念ながら何もかもが遅すぎた
 魔法は人の感情を正確に映し出す。私は表情や声を取り繕う事には長けていたが、その特技は魔法にまでは及ばなかった。私の心の中の憎悪そのままに、呪文は恐ろしい勢いで相手を弾き飛ばし、壁に叩き付け、何箇所かの骨をへし折った。
 泣き声と悲鳴の中間のような声をだしている青年には構わず、私は室内を見回した。この年若い魔法使い相手にシリウスが遅れを取ったとは思わないが、彼の姿が見えないという事実が私の神経を苛立たせる。
「シリウス」
 侵入者が何名だったのか不明の今、声を立てる事が如何に愚かな行為かよく理解した上で、抑え難く私は彼の名を呼んだ。いや、叫んだと言ってもいい。
「シリウス!」
 頭を巡らせた私は、見たくない物を見つけてしまった。
 居間のソファの影から裸足の足が伸びている。それは床に倒れていて動かない。彼の足ではないと思った。しかし確信が持てなかった。銀のスプーンのような形をした、うつくしいシリウスの足の指。
 ああ、あれは違う。神様。ジェームズ。誰でもいい。どうか。
 正直夜明けまでそうやって動かずにじっと立っていたかったのだが、私はそれに近寄った。痺れた頭で。一歩一歩、身体が大仰に傾いだ。壁には血が飛んでいた。よく見ればソファにも汚れが付いている。シリウスは躍起になってシミ抜きをしようとするだろう。シリウスならきっと。
 私は人物の頭の部分を確認し、目を閉じて息を吐き出した。
 倒れていたのは見知らぬ男だった。
 奇妙な話ではあるが私は男に感謝をした。ここに倒れていたのがこの男で良かったと、心から礼を言いたかった。男が私達2人へ挨拶をする為に、夜半家の中に浸入してきた訳ではないというのは分かっていたがそれでも私はこの男に感謝していた。
 短い時間、私はそうやって倒れた男を見下ろして放心していた。人の気配がして振り返ると、1人の男性が私の心臓にぴたりと杖を定めて立っていた。黒い髪の鋭い眼をした男。
 それは確かに私の友人シリウス・ブラックだった。
 しかし私はその時、自分達があの幸福で無邪気だった少年時代から如何に遠く離れた場所に来てしまったのかを痛感した。
 友人の目には一切の感情というものが宿っていなかった。
 冴えた悪戯を成し遂げて自慢気に笑っていたのと同一の瞳が、今は虚ろな灰色をしてこちらを見ている。
 命乞いなど聞きもしないだろうというのが分かった。泣いても叫んでも決して彼は許さず、殺すだろう。日頃の暖かい微笑は消え失せ、整った顔立ちはセルロイドの作り物のようだった。
「シリウス、私だ」
 痛々しい彼の表情をしっかりと見据えて話し掛けると、シリウスは2,3度瞬きをして口を開く。
「無事か」
「ああ。1人倒した」
「他に侵入者はいないようだ。じゃあ全員で2人―――」
 私達は申し合わせたかの如く、感情を殺した囁き声で会話をした。
 同じ顔、同じ声で喋っているのに、どうしてこんなにも違って見えるのだろう。彼の切れ上がった眼に凄まじいような光が揺らいでいる。
 その時、ソファの後ろで倒れていた男が呻き声をあげた。シリウスの杖がそちらへ向けられる。寒気がするくらいの自動的な動き。私はぼんやりとしていたのだが、すぐに我に返って彼の腕を掴んだ。
「離せリーマス」
「いけない」
 彼は私の手を振り解こうと手に力を込め、首を振った。少しも効率的ではない。首を振っても肩を揺らしても私を振りほどけはしないのに。私がそうであるのと同様に彼も混乱している。
「何人の魔法使いがこうやって殺されたと思う!?」
 シリウスの話しているのが見知らぬ沢山の魔法使いの事などではないと私はよく理解していた。彼の心の中に今浮かんでいるのは、たった一人の魔法使いだ。そして彼の美しい妻と。
「分かっている。でも彼らを手に掛けるべきではない。ダンブルドアに連絡して指示を待とう」
「今夜……殺されていたかもしれないんだぞ……」
 息継ぎが滞るのか、わななく声でシリウスはそう呟く。実際の痛みを伴っているようにさえ見える表情。そう、その可能性があったと考えると、身が震えるくらいに恐ろしい。私達は何よりも喪失を恐れる。病的に。
「私達は生きている。私は生きているだろう?」
 それでも私は彼の腕を離さなかった。
 けれどもし。もし彼が杖を上げていなければ、代わりに私が彼らを殺そうとしたかもしれない。その時はシリウスが私を止めただろう。私達はそういう風に出来ているのだ。その為に2人、残されたのだと思う。
「約束するシリウス。絶対に私は君を置いて行かない。生きているから」
 そんな顔をしないでくれ。という言葉を飲み込んで私はシリウスをじっと見詰めた。彼は私に腕を取られて動けず、その様子はまるで途方に暮れた子供だった。
「俺達の家を踏み荒らされても?たった一人しか残っていない友人を殺されかけてもそれを許せと……?」
 火のような怒りが彼の顔に浮かんでいる。恐怖と隣り合わせのその感情。シリウスの気持ちは痛いくらいに理解できた。しかしお互いの殺人衝動を肯定して生きていく訳にはいかない。私は先ほどから自分に言い聞かせるために心の裡で何度も繰り返していた言葉を彼に伝える。
「大切なのはこの建物じゃない。私と君が生きている場所が私達の家だ。シリウス」
 それを聞いて、ようやく彼は私の知るシリウスの顔になった。緩んで伏せられる瞳。杖が落ち、長い腕が私を抱きしめる。取り縋ると言ってもいいくらいひたむきに。私の体も彼の体も冷えていて、無機物のようだった。しかし私達はもう震えてはいない。
 窓から見える空の色が変化を始めた。夜が明ける時間だった。








心の繊細なひとへのあとがき。
時系列に沿って書いているわけではないので
以降はこの路線になるというのでもありません。
安心してください。
2003/02/05
作り手の方、或いはクールな読み手さんへのあとがき。
(製造過程での独り言です。読後感を大切にしたかったら読まないで下さい)
半年かけて2者間の距離を組み上げたので、ちょっと動かしてみました。本当は筋も人物ももっともっと恐ろしい勢いで動くのが好みなのですが。私は「全てのキャラクタとその設定は筋書きのためだけに在るべき」という考えです。ストーリーが目的で、人物はツールなのですね。今、サイトでやっている事の大半は、その考えに真っ向から反してます。(いや、斜め45度くらいかな)はははー。
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