笑えない話


 時間がごうごうと飛んでしまうのは大抵の人間が経験する感覚である。不幸な時間は慈悲深く早く、幸福な時間は容赦なく早く。しかし彼等、シリウス・ブラックとリーマス・J・ルーピンの上を過ぎ去った時間ほど強烈なものを味わった人間は、世界にもそう多くはいなかっただろう。
 何もかもが一変してしまった。彼らの、互いを思う感情以外、周囲の環境や取り巻く人々、状況などはすべて舞台装置のように取り払われて組み変わった。もはやシリウスは脱獄犯ではなかったし、彼等には復讐する相手がいなかった。昼であろうと夜であろうと、大通りの真ん中でも、どんな観光名所でも、2人は好きな時に好きなだけ並んで歩いても良かった(勿論人の姿をしたままで)。彼等はそれに慣れず、慣れるまで何度も街を散歩した。
 2人は出来るだけ平静にこれまでの生活を維持しようと努めたのだが、それは無駄な努力でこそなかったものの、かなりの近似値ではあった。日々舞い込む世界中の魔法使いからの感謝の手紙、かつて志を同じくした者からの手紙、夥しい文章を処理し、同じ数だけ訪れる客人を捌き、夜や休日は夜会やパーティー、観劇、式典に駆り出される。招待状は決まって連名で来るのだった。それを見るとき、シリウスもリーマスも種類の違う奇妙な表情を浮かべる。
 そう遠くない過去、シリウスは親族一同の前で2人の関係について重大な発表をした。噂は瞬く間に広まり、以後彼等はそういう扱いを受けるようになったという訳だ。お互いその件に関して相手に言いたい事が無い訳ではなかったが、彼等も同居して長かったので、雲行きの怪しい話は出来るだけ避けるという技術を習得している。
 しかし会場の入口で、或いは大広間で2人を迎える主催者やホストやホステスのあの表情。それを思い出すだけでもルーピンの胃は重くなる。彼等は微笑みながら夜の挨拶をシリウスへ述べ、その後で「今夜は一段と……」と言いかけて黙るのだ。一段とのあとにはシリウスのパートナーへの賞賛「お美しい」という言葉が続いたのだろう。しかしシリウスの隣にいるルーピンを見て彼等は黙る。そして続ける言葉は「お揃いで」。一段とお揃い。いつもと同じくらいお揃いだったり、いつもよりややお揃いでない場合もあるのだろうか?と2人は内心考え、そしてにっこり笑って挨拶をする。もう5歳若ければ吹き出し、もう20歳若ければ床にひっくり返って笑っていただろう。彼等は大人になったのだ。
 しかし誰もがすんなりと2人を会場の入り口や大広間で迎え入れてくれるようになった訳では決してない。個人的な道徳観や宗教や或いは利害、様々な理由でシリウスとルーピン、または片側に否定的なアクションを起こす人々は多かった。そしてその問題は今も解決していない。否定的な人々に、汚い物でも見るような目で全身を眺め回されたり、好意的な人々に期待を込めた目で全身を眺め回されたりするとき、ルーピンは「あの日あの家を出るのではなかった」と後悔をする。どんなにシリウスに哀願されても、柱にしがみついてでも、あのブラック家の集まり(ルーピンはあの日を「魔のブラック・サンデー」と呼んでいて、今も恐れている)は欠席するべきだったと。
 噂は何十種類も出回っているらしい。本人達の耳に届くのは世の習いでその内の十分の一ほどだが、それでもバラエティーに富んでいる。「アズカバンにおいて虐待を受けたシリウス・ブラックは、頭がおかしくなっている」という常識的なものから、「リーマス・ルーピンが怪しい秘術を使ってシリウスを幻惑し、意のままに操っている」という非現実的なものまで。(噂を初めて聞いたときルーピンは「その場合、私はイチジクの葉一枚を身につけて踊ったりしたんだろうか」と真顔で問いかけて、スコッチを喉に詰まらせたシリウスにきつく睨まれた)その件に関しては「当人である自分達ですら何故こんな関係になってしまったのか皆目分からないと言うのに、赤の他人に当てられてたまるか」というのが彼等の正直な気持ちである。
 ともかく彼等は、公的な場において「友人を越えた関係にある」と宣言した男性同士は一体どのような態度をとるべきなのか、模索しつつ辛抱強く笑顔で暮らしていたのだった。

 そんな日々のある午後。

「でも実際凄いんでしょう?女の子から先生へのイジメが」
 ハリーは唐突に暖炉の中から現れて家の食料を荒らして帰ったり、またはペンキ塗りをしたり、屋根の修繕をしたりして手前勝手に去るという妖精のような家族の一員だった。今日は時間に余裕があるのだろう、居間に座って義父と元担任の教師の話を聞いている。シリウスとルーピンは当然の如く全ての業務を放棄し、普段着のままで彼と話していた。
「私が?どうして」
「そりゃあ……シリウスと結婚したいと考えていた女の子は、きっと空軍が作れるくらいいるもの。その子達が全員何もしないなんて考えられないじゃない」
「心当たりがないなあ」
 確かに、皆無ではないにしろルーピンへの嫌がらせはあまり実行されなかった。しかしそれは彼女達が道徳的な理由でイジメを自粛したのではなく、技術的な問題から手をこまねいていただけなのだった。早い話が、服装について揶揄しようにも相手はそもそも彼女達のテリトリーであるドレスを着てはいなかったし(そのタキシードにしても殆どがシリウスの見立てであったので、文句のつけ所はなかった)、そしてパウダールームで意地悪をしようにも相手は男性用のトイレに行ってしまう。自分達の欲しがるものを抜け駆けして得る「男性」を虐めるスキルが確立していないのだ。妖艶な美少年でも天使のような清らかな美青年でもない、当たり障りのない容貌をしたルーピンを、彼女達は困ったように見るばかりだった。 精々が「シリウスさんが先刻、ヴィオレッタの腰を抱いて森の方へ歩いて行くのをお見かけしましたのよ」などという意地悪な噂を撒くくらいが関の山で。(余談であるがこの噂の逆バージョンを聞いたシリウスは、その日の深夜に真剣な顔で友人に「この関係を後悔しているのか」と問いかけた。ルーピンは怒るべきなのか笑うべきなのか分からなくなり、取り敢えず「君はイジメに遭っているよ」と言って友人の頭を撫でた)若い女性達は主に彼等の頭痛の種だった。しかし主な被害者のルーピンは、心配するシリウスをよそにあまり気にしている風でもなかった。彼は思っていたのだ。「いくら彼と親密になりたいからといって、毎夜恐ろしい夢に苦しめられる彼を介抱したり、大怪我をして意識のない彼をただ見ているしかない状況に置かれたり、錯乱した彼に髪を引き抜かれて禿を作りたかったという女性はいないだろう」と。
「でも、最近2人が何かやらかしたって噂で聞いたよ」
 とハリーは簡潔に述べた。ルーピンとシリウスは顔を見合わせ、
「ああ、心配して来てくれたのか今日は」
 と笑った。
「別にハリーが気にするほどのことではなくて、しかももう解決したよ」
「でも知りたいな先生。どんなことがあったの?」


 もう今月に入って何度目になるかも分からない会食の席だった。模様の見事なダマスクのテーブルクロス、家紋の入った年代物の銀食器、皿の色に合わせられた花とキャンドルスタンド、給仕が厳かに告げるワインの銘柄から招待客の人選に至るまで、何もかもがヒステリックなまでに完璧なディナーに彼等は出来る限りの熱意で参加していた。ルーピンの近くに着席する一群は馬の話題に花が咲いていた。馬は血統が全てで、生まれた瞬間からその血以上にも以下にもなれない生物だという話だった。あまり自分達2人の間では交わされない種類の論旨だったので、彼は黙って聞いていた。 時折、離れた席にいるシリウスが場を沸かせているのが耳に入る。シリウスはどんな集まりにおいても大抵話題の中心となった。容姿や家柄や話題性で注目を集めるのは当然のこと、もともと彼はユーモアのセンスがあり、単純に話が上手だった。そして聞き手一人一人の反応をきちんと確認して、それぞれの発言を引き出すことも。大昔の学生時代の頃からだった。ルーピンは食堂での彼などを懐かしく思い出す。しかしこういう場の彼のジョークは極めて品行方正で丸く穏やかなもので、2人っきりの時に繰り出されるものと比べると威力も切れ味も劣っているのがルーピンにとってはやや不満である。
「ねえ、馬を持っていらっしゃる?」
 ルーピンの隣に着席していた女性が目を細めてそう尋ねた。髪にちりばめられた細かいガラスが明かりを反射して輝いている。口紅も、大きなイヤリングも瞳もネックレスもともかく色々なところがきらきらとした女性だった。その外見はデザートに供されるクラッシュアイスか、シャンデリアを連想させる。
「いいえ」
 ルーピンは静かに微笑んだ。「犬を飼っていますので」と答えたい欲求に打ち勝って。女性は上品に口元を拭ってからワインを口に含んだ。
「私もそう。動物は嫌い。臭くって、毛が飛んで、虫がいて。家で動物と暮らしている人の気が知れないわ」
 女性は甘く可愛らしい声で、けれど大変な早口でそう語った。ルーピンは家の外で人々と接するときは大抵、彼等の途方も無いスピードに戸惑う。そしてシリウスがゆっくりと話し、食事をし、歩調を緩めて暮らしてくれている事に気付く。
「動物を飼った事はおあり?」
 ミス・クラッシュアイスは人工的なカーブで上を向いた睫毛を瞬かせて、口角を上げた。目元は笑っていない。古い血筋を持つ人々が頻繁に作る表情。
「いいえ」
 シリウスが何か発言をして、どっと笑いが起こった声が聞こえる。パーティー会場での彼はあんなに輝いていて精力的に見えるのに、家に帰るとバスに浸かってぐったりとしている。曰く「誰もお前のような度肝を抜くジョークを言わないから詰まらない」。
「あら、そう?」
 ワインと煙草の煙でクリアでない状態のルーピンの意識にも、彼女の声の変化は届いた。
「でも噂になってましてよ」
「え?」
 彼女は周囲に聞こえるように、しっかりと顔を上げて高い声を出したのだ。
「貴方達の家から、ときどき獣のうなり声がするって」
 馬の話をしていた周囲の人々は、何か新しい刺激的な話題だろうかとこちらを注視する。
 彼女が何を言おうとしているのか、やっとルーピンは理解した。彼女が、何事も無ければシリウスと婚約していたかもしれない女性候補の、何人かの内の1人だったということも今更ながら思い出した。そして彼女と自分との椅子の距離が不自然に開いているということにも気付いた。
 獣のうなり声がするという話は、彼女の嘘だ。ルーピンは必ず薬を服用し、その時間をバスルームでおとなしく過ごす。最近の彼にとって満月の夜は、単に「シリウスと会話の出来ない夜」に成り果てていた。そういう訳で、彼は自分がこういう局面に立たされる感覚というものを忘れていたのだ。むかし確かに持っていた技能、平静を装う能力は数秒間、働かなかった。
 明らかに彼の顔色は変わった。
「それとわたし、ホグワーツでおかしな話を聞きましたの」
 ルーピンは視線で乞うた。その話をやめてくれるようにと。しかし彼女はこれまでで一番嬉しそうな笑顔になった。急所を噛み裂いたと確信したときの動物の顔。ルーピンは人が悪意なしに こんな顔で笑えるという事実を思い出した。



「それは誰?何ていう名前のひと?」
 ハリーは一見無邪気にそう尋ねた。シリウスが答えようとしたが、ルーピンは首を振り、「言ってはいけないシリウス。ハリーの行動は君より余程迅速で的確だ」と言って彼の言葉をさえぎる。
 にこにこ笑いながらハリーは特に否定をしなかった。
「シリウス!まさか先生がそんな目に遭っているのに、気付かずに何も出来なかったんじゃないよね!?」
「俺が何かしたから、噂がお前に届いたんだよハリー」
 シリウスは悪びれもせずに笑う。



 キャンドルスタンドや花瓶はなぎ倒され、上品な食器は音を立てて砕け散った。人々はさすがにパニックこそ起さなかったものの、多くは席を離れ口元を覆って立ち尽くした。
 ダイニングテーブルの上には黒い獣がいた。
 凶事を象徴するように、真っ黒な姿をしていた。
 黒い獣は、ショックで硬直している1人の女性に向かって咆哮した。人の腹を撲つ、凶暴な吠え声。(ルーピンは「パッドフットがあんなに大きな声で吠えるのを聞いたのは何十年ぶりだろう」とハリーに語った)それから獣は鼻面に幾本もの皺を寄せ、明確な意図をもって牙を剥き出した。
 女性はピンク色の唇をオーの字に開いて絶叫を始めた。視線を黒い獣に据えたままで彼女の悲鳴はいつまでも続いた。
「シリウス」
 場違いに親しげな呼び声がルーピンから発せられて、その場にいた人間は、彼を見た。恐れも驚きもしていない彼を。そして再び人々が卓上の黒い獣に視線を移したとき、テーブルの上には黒い礼服を着た長身の男が立っていた。
 先程の獣の毛皮の色を思わせる漆黒の髪の色と瞳の色とタキシードの色。けれどそれは確かにシリウス・ブラックだった。つい今まで座の中心になって談笑していた男だ。
 彼の足下では幾つもの高価な皿が砕け、細かくなった植物の柄や果物の柄が、かわいらしいおもちゃのように散乱している。シリウスの革靴の下でじゃり、と破片が鳴り、令嬢は身をすくませた。
「貴女が噂に聞かれた唸り声というのは、きっと僕でしょう」
 声のエレガントさとはまったく裏腹に、シリウスは獣が全身に漲らせていた敵意そのままの表情で彼女へ囁く。近年シリウスはすっかり昔の美男子ぶりを取り戻していて逃亡生活中の面影はどこにもなかったのだが、その一瞬の彼は、叫びの屋敷でルーピンが見た残忍な脱獄囚の顔をしていた。
「それから僕はこの姿でホグワーツに何度も侵入している。何か噂になったかもしれませんね」
「シリウス」
 もう一度ルーピンに名を呼ばれて、彼はやっと令嬢から視線をそらせた。
「僕はこの姿のお陰でアズカバンで死なずに脱走できたという訳ですよ。ちなみに登録申請中ですので、半非合法ですが」
 そう言って彼はテーブルから飛び降り、ルーピンの手を取って微笑んだ。不興を買えばその場で食われるとでも思ったのか、誰も何も言わなかった。ルーピンは「この場に悪い人間はいないし、取り返しのつく発言や行動もない」と判断して友人に耳打ちした。「テーブルに乗るなんてお行儀の悪い犬だ」とか何とかそういう事を。自分は怒ってもいないし悲しんでもいない、まったくリラックスした状態であると知らせるために。それを聞いたシリウスはふざけた調子で顎を引いてくるりと目を回した。
「素敵な会食を台無しにしてしまって申し訳ない、夫人。お詫びはまた改めてします」
 鳥の皮の如く痩せた女主人は、あまりにシリウスの笑顔が晴れやかなので、気圧されて「ええ、シリウスぼうや。またいらっしゃいな」と返答をする。
 その場にいる全員の視線と圧倒的な静寂をものともせず、パーティー会場から逃げ出す学生のように軽やかな足取りで、2人は会場を後にしたのだった。



 ハリーは惜しみない拍手を義父へ送った。シリウスは心なしか誇らし気だったが、ハリーの拍手の中に「先生に叱られなくて良かったね」というニュアンスが含まれているのは気付いていないようだった。
「シリウスは何をしても派手だよね。結局」
「地味にやっても意味がないだろう?」
「あれから家に届く招待状も目に見えて減ったしね。言うことなしだよ」
「犬にテーブルをよじ登られたら呼びたくないよ普通」
 咬まなかったことを褒めて欲しいくらいだとシリウスは述べ、あなたがその女性を咬んでいたとしても僕は怒らなかっただろうとハリーは答えた。ルーピンはコメントを差し控えたが、とりあえずシリウスに感謝はしていると言った。
「病気のことが知れ渡ったら、この家を出なければならないところだったから」
 彼は楽しそうにそう呟いたが、ハリーは珍しく笑顔ではなくなり「先生」とだけ呼びかけた。しかしルーピンは表情を変えず、そしてこういう場面では必ずくってかかるはずのシリウスまでも沈黙していたので、ハリーは首を傾げる。
「もし私のために感情を害してくれたのならありがとうハリー、でも違うんだ。言い方が悪かったね」
 次のルーピンの言葉を聞いて、青年は吹き出さずにはいられなかった。
「この家を出なければならないのは、私とシリウス2人共だ。私はこれを手放すつもりはない」
 ほがらかに「これ」呼ばわりされた男は義息に肩を竦めてみせる。
 彼等の上を過ぎた膨大な時間に、ハリーはしばし目を閉じて思いを馳せた。少年の頃の彼等と大人になった彼等はあまりに違う時間を過ごし、そしてその頃の彼等と今の彼等は更に違う。勿論これからも変わるだろう。
「もし家を出て身を隠すことになったら、バリとかタイに宮殿みたいな家を建てて隠れると良いよ。色々と融通できると思うから、その時は僕に言って」
 ハリーのその発言をきっかけに、仮想の新居の間取りの話などはじめたパートナーと義息に溜息をついてシリウスは呟いた。
「笑えない話だ」
 その言葉に反して彼の表情は笑っていたのだけれど。










1話1話独立形式が良かったのですがねえ。
サイト内の物語の話。
どこから読んでもすぐに話が分かって、
どこでも気軽にやめられるように。

しかしどこもかしこもつながりまくりです。
今日始めてここへ来られた方が
「新作から読んでみましょう」
とこれを読まれた場合、
「7巻終わった後の話ー!!なんじゃこりゃー!」
とブラウザバックされて、もう2度と戻って
来られないでしょうね……。

シリウスが格好いい話……
にするつもりだったのですが、
微妙ですね。
どちらかといえば
「先生すてきぃー!抱いてー!」
って話だという気がしないでもない。
おかしいなあ。
2004/06/10


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