旅行記





 ノックをすると応えがあったので、僕はそっとドアを開けて中へ入った。
 先生はもう起きていて、椅子に座ってぼんやりとしていた。
「おはようハリー。私はいま、世界で一番の二日酔いだ」
 と彼は少し笑った。
「だいたい飲みすぎなんだよ2人とも。そろそろ年を考えた方がいいんじゃないの?」
 先生は白々しく「いたたた」などと言って、僕の小言を聞かなかった振りをする。シリウスがまだ眠っているので、僕と先生はささやき声で会話していた。
「私もシリウスも昨日はあんまり楽しかったから、ついはしゃいでしまったんだ。ここは良いホテルだ。ありがとうハリー」
 いつかこの国に3人で旅行に行こうというのは前から相談していた。色数の少ないストイックな文化的建築物に、生真面目な人々、高い技術力、箱庭のような自然。
 僕は元マグルの現代っ子らしく、新しいリゾートホテルをネットで調べ予定に組み込んだ。美術館とホテルが一体化した、奇妙な場所だ。展示してある美術品は残念ながらシリウスの趣味には合わなかったらしく彼は幾度か鼻を鳴らしていたが、コンクリートを多用した迷路のような建物はいたくお気に召したらしい。先生と僕はあちこち連れまわされて大変だった。ホテルの敷地内には海岸があり、丘があり、平野があった。へんてこりんな形の大理石があり、カボチャのオブジェがあり、幾何学的な形をした鉄塊があり、なぜか山羊もいた。
 探検でへとへとになった僕達は夕食にバーベキューを食べた。シリウスは僕と先生に肉を食べろと何度も勧め、豪快に笑いながら恐ろしい量の牛肉を鉄板にばら撒いた。
 水のようにあっさりとした日本のビールを何本も飲んで、僕達は異常にハイだった。シリウスと先生と僕はハイスクールの生徒みたいに馬鹿な話で大笑いしながら部屋に帰った。(ここのホテルは丘の上の棟と海岸沿いの棟に分かれており、2人は上、僕は下に部屋を取っていた。彼等は3人で同じ部屋に泊まろうとぐずぐず言っていたが、もちろん丁寧にお断り申し上げた。僕もそこまで無粋じゃない)先生とシリウスは部屋で飲まないかと僕を誘い、僕はお招きに預かった。ガラスで出来たバームクーヘンを思わせる建物は、夜の闇の中で煌々と光り輝きどんなおとぎ話よりファンタジックだった。幻想的な光景を作り出す執念と技術において、魔法界は到底マグルに敵わない。
 シリウスは荷物の中にワインを隠し持っていた。それから乾し肉も。先生は鞄の中からりんごとバナナを取り出し、僕はスナック菓子を提供した。それで僕達のささやかな酒宴は始まった。
 シリウスは「飲みながら果物を摂るのは体にいい」と言いながら、丁寧にリンゴの皮を剥いてくれた。彼はどれほど酔っていてもこの手の細かい作業を、普段と同じくらいかあるいは更に上手にこなしてしまう種類の人間だ。

 ああ、リンゴで思い出した。

「先生、でもね。昨日みたいな酔い方はどうかと思うんだ。僕は2人が心配だよ」
「ええ?そんなに酷く酔っていたかな?ずっと笑っていた記憶はあるんだけど。ごめん、何か迷惑を掛けた?」
「覚えて、ないの?」
 僕はぽかんと口をあけた。先生は少しだけ真面目な顔で僕を見ている。記憶が飛んでしまったんだろうか?本当に?恥ずかしいから忘れた振りをしているんじゃなくて?
 あそこまで大暴れしておいてそれを忘れるなんて、可能なんだろうか。


 我等が母校ホグワーツの、どの寮の女の子が一番可愛いかという大変学術的な話を僕達はしていた。全部の寮の女の子と付き合った事のあるシリウスは、そのテーマに対してとても詳細で含蓄ある意見を述べたけど、僕は気が気ではなかった。一応シリウスの現在の恋人が目の前にいるのだ。もちろん先生は全然気にしている風でもなく、笑っていたのだけれど。
「学生時代、1度は大きな恋愛をしておくべきだ。あんな感じで」
 シリウスはいたずらっぽく目を輝かせて、背後を指差した。バームクーヘンの1ピースの形をしたこの部屋の外側曲線部分はすべてガラスで出来ていて、外の芝生の庭が見えるようになっている。そこには適当に椅子とテーブルが置かれて、昼間などは遠くに見える海を眺めるのに丁度良かった。
 シリウスが指差した先には1組のカップルがいる。
 椅子に座って、ずいぶんと親密な様子だった。外はすっかり暗くなっているのだが、なにしろ部屋の明かりが差すものでカップルの姿はくっきりと見える。ほとんど頭が1つになるくらいの勢いで、彼等は親愛の情を表すのに夢中のようだった。
 こういう場合、普段ならシリウスは自然な素振りでカーテンを閉め、先生は何事もなかったかのように微笑むのだけれど(わざとなのかうっかりなのか、彼等は未だに僕を未成年のように扱う)、その夜は違った。シリウスはこう言ったのだ。
「俺達も見せ付けてやろうぜ」
 確かにシリウスは酔っていた。日本のビールは飲み易かったし、彼はどういうつもりだったのか、荷物の中にワインを3本も持っていて誰より速いスピードで飲んでいた。酔って当然だろう。でも僕は何かの聞き間違いかと思った。「俺達に見せ付けやがって」か何かの。
「……私に言っているのか?それともハリーに?」
 少し沈黙したあと先生はそう尋ねた。
「お前に決まっているだろう。俺とハリーが何を見せ付けるって言うんだ」
「それもそうだね。で、ええと、あの恋人達がしているようなことを私と君がするのかな?あははは、断る」
 僕は目を剥いた。先生の応答は国語的にはおかしくなかったが、普段の彼からすると変だった。2人きりの時はどうか知らないが、僕がいる時のこの手のジョークや問いかけを先生は100%無視するのが普通だったから。先生は自分達がまるで恋人同士でないかのように振舞うのを好んだ。驚いた事に「僕はもう知っているのだから、それを隠す必要はないしシリウスが可哀相だ」という僕の訴えまで、先生は聞こえない振りをした。意地っ張りという点で、彼等はまさに実力の伯仲した恋人同士だった。
 先生も酔っている。それもかなり。
 そういえば2人とも酒に弱くなったと最近言っていた。僕は少し感慨に近いものを感じる。
「この俺が?このシリウス・ブラックがそんなつまらない他人の二番煎じをするとお前は思うのか?リーマス」
 シリウスは上機嫌で快活に笑う。まずい。先生の好きな表情だ。
「思わない」
「そうだとも。もし持っていればナイフを出してくれないかハニー。それからハリーも」
 まさかそれはないとは思うけれど、手に手にナイフを握ってカップルを取り囲み脅しつける遊びをやるんじゃないだろうな?と僕は躊躇した。シリウスは先ほどまでリンゴの皮を剥くのに使っていた美しい細工のナイフと実用的な細身のナイフを取り出した。先生も小刀と小さな刃物を出している。僕はハーマイオニーに貰ったスイスの定番土産アーミーナイフと事務用のナイフを恐る恐るシリウスに渡した。
「ああ、このアーミーナイフは少し難しいな。でもまあ何とかなるだろう。さあ、リーマス外へ」
 シリウスはあのいつもの、この時代の人ではないかのような優雅な仕草で先生へ手を差し出し、先生は気負いなくぽんと掌を重ねた。
 シリウスはナイフと、それから何故かリンゴを持っている。皮か?外で2人で皮を剥くのか?それくらいなら害もないだろうし、やらせてあげても構わないのだけれど。でも2人がリンゴの皮を剥くと、一体何を見せつける事になるんだろう。僕は悩んだ。
 唐突に庭へ出てきた得体の知れない外国人に、その日本の罪のないカップルは驚いて不意に押し黙った。女性は男性の膝の上に乗ったまま固まっている。そりゃあそうだろう。
「リーマス。そこへ立て。そうだ。これを載せて。ああ、似合う似合う」
 シリウスは先生の頭にリンゴを載せた。そして薄闇の中てくてくと歩いて僕達と距離をとった。
 確かに、先生の緑の上着とリンゴの赤は良く似合った。先生の浮世離れした顔と頭の上の果物という取り合わせもマッチしていた。シリウスの欲目ではない。しかし僕は悲鳴を上げた。
「シリウ―――」
 何故ならばシリウス・ブラック、僕の義父は右手にナイフを持つとそれを振りかぶって・・・
 先生に投げ付けたからだ。
 ナイフは先生の頭の上のリンゴに刺さった。
 そう。彼はどれほど酔っていてもこの手の細かい作業を、普段と同じくらいかあるいは更に上手にこなしてしまう種類の人間だ。例えナイフ投げであっても。
 しかし、酔っ払っているとはいえ何故ナイフ投げなんだ?ナイフを投げると2人の何を見せつける事になるんだ?そりゃあ普通のカップルに彼等の真似は出来まい。特に先生の真似は。先生ときたらシリウスが失敗して額の真ん中にナイフが刺さっても彼を愛しているような人だから。
 だからといって投げるか本当に。ナイフ投げなどサーカスに任せておけばいいんだ。これは何酒と言うべきなんだろう。笑い上戸でも泣き上戸でもない。ウィリアム・テル上戸?どんな酔い方だ一体!
 僕は動揺のあまり、意味の不明瞭な事を叫んだ。お構いなしに放たれるシリウスの2刀、3刀。もちろん全部命中する。隣のカップルは思わず拍手をした。
「シリウス、頼むから落ち着いて。ナイフを下ろすんだ」
「ああハリー、ジェームズの物真似をしているのか?なんだかそれは凄く似ているぞ」
 シリウスは感慨深げに何度も頷いて4刀目を投擲した。命中。
「本当だ!ハリー、心臓が止まるかと思った」
 先生が呑気に笑う。5刀目も命中。止まるのはこっちの心臓だ!
「シリウス、そろそろやめようよ。先生の頭はふらふら揺れているし、6本目のそのアーミーナイフは投げるのに向いていない」
 酔っているのと眠いのと両方なのだろう、先生は植物の成長過程早回しのようにぐるぐるしていた。ここが見せ物小屋ならドラムロールと司会が入るところだ。レディース・エンド・ジェントルメン。しかし生憎彼等は僕の大切な家族なのだ。
「ハリー、私は別にふらふらしていないよ?」
「してるよ!」
「ハリー、リーマスは別に揺れていないように見えるが……」
「こんな時に愛妻精神を発揮しなくていいからシリウス!酔っぱらいはみんなそう言うんだ!!いいから2人とも……」
 シリウスは最後のナイフを投げた。先生は笑って受ける。ナイフが芯に刺さる鈍い音がして、リンゴが地に落ちた。
 呆然とする僕を尻目に、シリウスは先生の手をとって、優雅にお辞儀をする。もちろん隣のカップルに向かってだ。物も言わずに凍り付いていた彼等は、2人を見上げたまま再び盛大な拍手をした。しなければ頭の上にリンゴを載せられると思ったのかもしれない。
 僕は2人が火の輪くぐりを始めないうちに、大声で叱りつけて部屋へ戻し、リンゴとナイフを片付けて日本の恋人達に謝った。彼等は魂を抜かれたようになって椅子の上から動かなかった。曲芸の集団がバカンスで日本に来ているとでも勘違いしてくれればいいんだけど。
 部屋へ入ると、僕を本格的に怒らせてしまったと思ったのか2人が神妙な顔で交互に謝ってきた。怒っていないと言うと今度は交互に抱きしめられた。僕はもう立派な大人で、彼等に至っては孫がいてもおかしくない年齢なんだけれど、悪い気はしなかった。僕はこの人達が本当に好きなのだ。ただ2人とも地獄のように酒臭くて、それには閉口したけれど。


 僕は散歩直前に夕立に遭った可哀相な犬より更に哀れっぽい目で先生を見たが、彼の記憶はさっぱり回復しなかった。穴だらけになったリンゴを差し出したりもしたのだけれど、それでも「食べ物をおもちゃにするなんて」と彼をつぶやかせるだけだった。
 やがて、そうやって先生とひそひそ話しているうちにシリウスも起き出して来て、そして快活に朝の挨拶を延べた。もうあまり期待はしていなかったけど、念の為尋ねるとやはり彼の記憶も失われていた。真夏の日差しのように爽やかに。僕はシリウスの嘘を98%くらいの確率で見破る事が出来るが、彼は忘れている振りをしているのではなかった。
 僕は2人をソフアに座らせて少しだけ説教をした。これからはお酒を控えるようにと。
 昨日の記憶がない2人は、しおらしい顔で「はい」と返事をした。


 部屋を出るとき、偶然隣の部屋のカップルと再会した。彼等は反射的にシリウスと先生に拍手をした。
 日本の宿の、部屋を出るときの風習だと思ったのだろうか。シリウスと先生も真面目な顔をして拍手をしていた。パチパチと。

 ああ父さん、僕は本当に彼等が大好きだ。これからもずっと。たぶん。


 以上、これが日本を旅行したときの一番印象深い思い出です。













このお話は、私が旅行中に語ったシリル話です。
シリウス=私。先生=私。
隣の部屋のカップル=私。またもや1人芝居。
慈悲によるものかどうなのか一応大うけしたので
非常に気分を良くした覚えがあります。

書き始めて気付きましたが
喋るのに向いていて、書くのには向いていない話でした。
いやまあでもなんとか。

あの変な感じが再現できているといいのですけど。
このホテルは実在していてとても楽しいですが
辿り着くのに船とかバスとか大変で
更に予約を取るのが難しいのですふふふ。
でも、とてもオススメのホテルです。

写真が綺麗な紹介サイト
://www.delicious.ne.jp/html/toku03/kiji03/kiji03_0207_06.htm
公式サイト
://www.naoshima-is.co.jp/first.html

2005/05/18


BACK