彼のレシピ


 その日は朝から台所に立って、シリウスはなにがしか凝った料理を作っていた。
 それは私達の生活において珍しい事ではなく、彼は手間隙をかけて何かを作りたいという欲求や贅沢な時間を過ごしたいという欲求が、ときおり猛烈に高まる体質なのだった。まったく害のないことなので私は彼の好きにさせている。
「昔イタリアのレストランで何度か食べたんだ」
 と料理を作っている最中、シリウスは無造作にそう言った。そのレストランはローマにあって、少年だった彼にお土産として深い青色をした皿をプレゼントしてくれたのだそうだ。彼はそれを成人しても大切に取って置いたのだが、今現在皿はどこにいってしまったのか分からないという話をした。皿には魚の絵が描いてあった、と彼は言った。シリウスの記憶だから、まず間違いはないだろう。
 夕方になってようやく出来上がったそれは、料理店で出される品と比べても見劣りしない出来のように思えた。きっと味のほうも、彼が少年の頃食べたものを完璧に再現しているのだろう。
 何ら驚くには当たらない。シリウスにとって、それしきは特技にも数えられない。
 贅沢な環境で育った体というのは、それだけで貴石のような価値を持つ。その目は絵画や建築、ありとあらゆる芸術を瞬時に見究め、耳は様々な音楽を聞き分け、鼻は各種香水や花の香りを正確に分類する。体はゴルフや乗馬や楽器にバイク果ては優雅な抱擁まで、きらびやかな技能を修めていて、そして舌は料理の大まかなレシピを分析する。
「この料理は加熱してあるのに生の食感が出ているのが技術的に難しいんだから、熱いうちに食え」
 色々な物思いに耽っていると、揺らめく蝋燭の向こうで彼がそう言った。部屋には私以外誰もいないので、シリウスはリラックスして自分本来の食事の仕方をしている。自分本来の、つまりは上品に。向かい合っていると飾台のあちらが貴賓席でこちらが一般席という区分があるような気になってきて可笑しい。そんなことを考えながらスライスされた肉片をナイフで切って口に運んだ。
 それは、妙に懐かしい味がした。
 どこかで食べた事のあるような。しかしシリウスが行ったのと同じレストランで、私が過去に食事をしたとは思えない。では別の店で似たような料理を食べたのだろうか。私は料理の外見を頼りに、今までに行った事のある数少ない高級料理店をすべて思い出そうとした。
「どこかで食べたような気がするけれど、思い出せない」と言うとシリウスは笑って、「きっと最後まで出てこないぞ」と予言した。私のささやかな記憶力を揶揄しているのだ。しかし上手に出来ているもので、私は過去の事象を思い出せなくても一向に気にしないという性質をきちんと併せ持っている。
 それでも彼が窺うようにじっとこちらを見ているので努力はしてみることにした。以前に私の食べたはずの「料理」の味を思い出す。もっと、素材そのままの味付けをしていたような気もする。
 このクランベリーを取り、ソースを取り、スパイスも掃って肉のわずかな塩味を残す。表面に薄く使ってあるゼラチンの食感だけにする。そして歯ざわりは重く、舌に絡みつくような食感で……。
 そこまで考えて、私は自分の頬が次第に紅潮していくのを、どうしても止められなかった。
 どうしたのかと聞く彼に、風邪気味なのでワインに酔ったようだと答える。そのまま、気付かれないように話題をゆっくりと移した。

 その料理は、彼の舌の味がしたのだ。


あ、見つかった(笑)お店はローマに実在。お皿がもらえます。


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