hide and seek


 最初にそんな心積もりなどなかったと誓って言える。事の起こる直前まで空想すらしたこともなかった。しかしルーピンが目を覚ますとシリウスの姿は消えていた。
 気持ちは分からなくもなかったので、ルーピンは溜息をついてゆっくりと身を起こした。中途半端に裸だった。
 手のひらに残るシリウスの肌の感触を彼は反芻する。立場が逆であるとこんなにも余裕をもって思い出すことが出来るのかとルーピンは新鮮な気持ちで自分の手を見た。

 昨夜、歯の根が合わぬほど錯乱して震えているシリウスをルーピンは長い時間抱きしめていた。よほど酷い夢を見たのか、どんなに話し掛けても彼は正気を取り戻さなかった。行為の後で彼がぐっすりと眠る事を、幾度かの経験で知っていたルーピンは迷わず彼の衣服のボタンを外した。髪を撫でながら口付ける。シリウスは瞳を閉じずにそれを受けた。普段シリウスが自分に触れるのとそっくり同じように、ルーピンは彼に触れた。
 シリウスの肌が上気し、掠れた声があがりはじめてようやく、ルーピンはこれまでの行為とは何かが違うと気付いた。彼は外見の印象とは違って、比較的大らかにその手の間違いをする人間なのだった。
 2人が肌を合わせるのは初めてではなかったが、その役割が若干通常とは違う。端的に言えば逆だった。しかし靴下の左右を間違えて履いたのとは話が違うので、今更はいそうですかと取り替える訳にはいかない。
 もちろんルーピンはシリウスの体を押さえつけたり縛めたりはしなかった。途中、続けても構わないかという質問を何回かしたりもした。シリウスは首を振りはしなかったが、頷きもせず、ただじっとルーピンの肩に押し当てた額を動かさなかった。
 彼の声に滲む羞恥と、それを押し伏せている忘我。なるほど、シリウスはこんな状態の自分を見ていたのだなとルーピンは理解した。繰り返したくなる訳だ、と。
 シリウスの体を疲労させて眠らせる事がそもそもの目的だったので、ルーピンはきっちりとそれを果たし、同時に自分の庇護欲も満たした。
 シリウスは眠ったのか意識を失ったのかがあやふやな状態で動かなくなった。

 服を身に着けて階段を降りると、キッチンのほうで物音がした。彼らしくない騒々しい音。
「シリウス?」
 ルーピンが部屋を覗くと、テーブルの上でガラスのコップが倒れ水をぶちまけていた。先刻までこの部屋にいた人物の動揺をこの上なく表現している。乗組員全員が忽然と姿を消した船の怪奇話をルーピンは連想した。
 いたたまれなくて逃げたのだ。おそらく階段を降りる足音を聞きつけて。
「幾つだ君は……」
 こぼれた水を拭き取りながらルーピンは嘆息した。シリウスがいつもの朝の通りに済ました顔をしていれば、ルーピンは同じように何事も無かった振りをするだろう。しかし彼にはそれが出来ないらしい。
「?」
 ふと気付けばスプーンが妙な場所に等間隔に並べてあった。切りかけて失敗したと思しき超薄切りのパンが放置してある。他にも鍋のフタが突拍子も無いところにかぶせてあったり、薬缶の中にコーヒー豆が入っていたり、よく見ると台所は妖精のいたずら襲撃を受けたようになっていた。錯乱したシリウスの仕業だろう。ルーピンは容赦なく吹きだしてから、申し訳なくなって口元を押える。
 これまでの2人の関係と同様、ルーピンには大した問題とは思えなかったのだが、シリウスにとってはそうではなかったようだ。
 キッチンを出るとバタバタと足音が遠ざかっていった。そうなるとさすがのルーピンも少し気になってくる。シリウスは腹を立てると真っ向から意見をするタイプなので、怒っていない事だけは分かるのだが、もし怯え故に彼が逃げ回っているなら鎮めてやる責任が自分にはあるような気がしたのだ。
 居間へ入ると、続きのドアがバタンと閉まった。
「シリウス!逃げるのはやめて、ちょっと私の話を聞かないか?」
 返事はない。ドアを開けて廊下へ出ると、丁度右へ曲がって姿を消すところで黒い髪がちらりと見えた。動揺しているとはいえ、袋小路になっているバスルームの方向へは向かわなかった。その程度には落ち着いているらしい、とルーピンは少しだけ安心をする。しかし頭の中で家の間取りを描いてみるまでもなく、このルートを辿るとシリウスを追ってぐるぐると永久に廻り続けなければならない事はルーピンにも分かったので、彼は思案する。
 『男らしくないぞシリウス』『君のガールフレンドで、こんな態度を取った女性がいたかい?』『何もしないからともかく止まってくれないか』どの言葉も、あまりにシリウスが可哀相でルーピンには言えなかった。男であるから、女性ではないから、そのショックで彼は逃げているのであり、そして今誰よりも平静になりたいのはシリウスだろうから。
 自分の時はどうしたのだったか、とルーピンは考えてみた。あまりよく覚えていなかったが、彼の顔を見られぬ程恥ずかしかったという記憶はない。旅に出たくなった気はするが、実行はしなかった。
 彼に付き合って、家の中の空気と埃を攪拌する作業に従事しても構わないのだが、それをするには朝のルーピンには気力が足りず、嬉々としてかくれんぼうをしていた少年の頃と比べると随分歳を取ってもいた。
 彼はそっと足音を忍ばせて階段を上がり、シリウスの寝室のノブを無音で廻して中へ入った。
 乱れたベッドが目に入ってルーピンは嘆息する。「毒食らわば皿まで」という格言が何故か浮かんだ。しかしここ十何年かの間で自分達に起こった出来事の中で、今回の事柄が一番どうという物ではないようにルーピンには思えた。裸になって少々親密になる事が何だというのだろう。憎みあったり、二度と会えなくなったりするよりはずっと良い。もちろんシリウスに同意を求めるつもりはないのだが。
 窓枠に凭れて物思いに耽っていると、ドアの前に人の気配がした。
 追っ手を巻いたと思ったシリウスは、鍵を掛けて立て篭もるためにこの部屋に戻ってきたようだ。
 自分の背後を恐る恐る窺いながらシリウスは部屋に入ってきた。その表情があまりにも怯えていたので、ルーピンは気の毒になってこの部屋に来た事を後悔した。彼が驚くところを見るのが忍びなく、ルーピンはうつむく。
 思った通り、ドアに何かがぶつかる音がした。振り返ったシリウスが部屋にルーピンが居るのを見て仰天し、頭や足を当てたのだろう。
 怯えた動物(それも棒切れでもって散々子供達に追いまわされて怯えた動物)に声を掛ける要領で、優しくルーピンは微笑んだ。
「やあ」
 第一声としてそれはどうなのだろう、と思わないでもなかったが、他には言い様がない。
「そんなに熱心に逃げられると、いくら私でも少し悲しい」
 じりじりと後退を始めていたシリウスの足が止まった。それから彼は意を決してルーピンと向き合おうとしたようなのだが、その途中でベッドの乱れたシーツを見てしまい、視線がそこへ釘付けになった。
「シリウス。……パッドフット」
 ちちち、と舌を鳴らして手を出したい欲求を自覚しながら、ルーピンは静かな声で彼の名を呼ぶ。シリウスは我に返ってこちらを見た。
「もし身体の……ええと、どこかを痛めたのなら謝りたいと思って……」
「違う」
「じゃあ、何か不愉快だったのかな?」
「そうじゃない……その……」
「シリウス?」
「……不愉快ではなかった」
 言ってしまってからシリウスは、永遠の責め苦に耐える虜囚のような顔付きになり、そんな顔をするくらいなら言わなければいいのに、と思いながらルーピンは「それは良かった」と間の抜けた返事をした。
「まあ……私はこの件に関して先輩だからね」
「先輩?」
「そう」
 シリウスの美しい瞳が思考のために伏せられ、数秒間動きを止める。そののち彼は俄に赤面して、それから己の態度とルーピンの態度の差違を比較するところまで考えが至ったようだった。表情に内省の色が濃くなる。感情の流れの全てが手に取るように透けて見える友人に、愛情と不安の両方を覚えつつ、ルーピンは言うべき事を言った。
「ともかく、君が逃げて回らなければいけないのは大変だ。あんな事はきっと2度と起こらないから安心してほしい」
 しかし驚いたことにシリウスは即座に首を振って否定をする。
「もしも昨日の……」
「うん?」
「もしも昨日と同様の出来事が再びあったとしても、お前がそれを望む限り、俺には何ら妨害するつもりも異を唱えるつもりもない」
 裁判の最終弁論といっても通用するくらいに丁寧な英語だった。が、ルーピンはしばらく黙り込む。
「……現代語訳してみても構わないだろうか?」
「だめだ」
「まあ、君の表情から、何となく意味を推察する事は出来るよシリウス。その件に関しては了解した。ところで朝食前の運動としては十分だったと思うのだけれど、これから君と同じテーブルに着いて、食事をしてもいいかな」
 話題を変える目的で、彼は朗らかにそう言ったつもりだったのだが、シリウスはまた何やら慌てて赤くなっている。ルーピンは少々気疲れを覚えながら、「運動」という言葉がシリウスの記憶を刺激したらしいと考察した。
「……隠れんぼうをするには、我々は歳を取りすぎているからね。うん」
 この分では朝食の席での話題に細心の注意を払う必要がありそうだとルーピンは嘆息する。ましてや「昨日の夜はあんなに素直だったのに」という正直な気持ちなど、言葉にしたら最後シリウスは永久に何処かの穴に隠れてしまいそうだ。

 ルーピンは彼らしいいつもの賢明さで口を噤み、まったく関係のない話を続けてシリウスを階下へと促したのだった。








リバの良い所は「はぢめて物語」が2本も作れるという事ですね。
ああしかし当方のシリル事始は「錯乱して」
ルシリ事始は「間違えて」……最悪です。
こう……相手の事が好きすぎてある日とうとうガバァ!!
というのが理想なんですけど…ねぇ。

かくれんぼうではなく、どちらかと言えば鬼ごっこ
なのですが。(タイトル)

あと、先生の頭に浮かんだ「毒食わば皿まで」は
「One may as well be hanged for a sheep
as a lamb」
「子羊を盗んで絞首刑にされるよりは
親羊を盗んで絞首刑にされるほうがましだ」
ですね。長いので邦訳。

2003/11/30


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