失 恋





 「一番上等の靴を履いて行かなくちゃ」と友人は言った。
 「なにしろ相手はお金持ちなんだから。お金持ちは何が違うかって、まず靴よ」ということらしい。
 彼女は私のワードローブの中で大暴れしている。まるで中に悪漢がいて、それと戦っているみたいだ。
「フォーマルな上着が1つもないじゃない。だいたい貴方はどうして、でかい猫とか犬とか花が描いてるシャツが好きなの?」
 だって大きな絵が描いてあると、なんとなく元気が出るんだもん。私は訳もなく後ろめたくなって小声で呟く。
「いいわ。私のニットを貸してあげる。幾つか持ってきたから。胸元が開いているやつの方が季節には合いそう」彼女はそう言ったあと変な顔をして間を空けた。「胸は強調した方がいいよね?」疑問形だ。
 そこは笑うところなのかどうなのか、よく分からなくて私は「さあ」とだけ返事をする。とりあえず私の「恋敵」に胸はない筈だ。
「でも別に、これからどう発展していく訳でもないからドレスアップしても……」
「それはそうだけど!」
 彼女は構わずスカート選びに取りかかっていて、流行遅れの物や変わった柄の物はばっさばっさと容赦なく投げられてゆく。
「でも話をしてみたら違う方向に転がるかもしれないでしょ!」
「いや、それはないと思う」
 彼女は戦闘を中止してこちらを振り返った。
「じゃあ一体何の為に会うの?」
「うん……色々世の中も激変したし……区切りをつけたくて。あと1度話してみたかったの」
「それだけ?」
「それだけ」
 私には分からないなあ、と友人は決定したらしいスカートを投げてきた。友人の貸してくれるというニットと並べると、ぴったりと配色が収まる。これに私の唯一の革靴とアクセサリーでも合わせればそれなりの格好になるような気が自分でもしてきた。私は写真で数回見掛けたことのある私の「恋敵」の姿を思い浮かべる。流行遅れどころではない、古着屋でも値段が付かないようなそんな古びたコートをいつも着ている彼。身なりは勝ち負けのためにあるものではないけれど、でも何だか理不尽のように思う。
 私は床上から3センチばかり浮遊しているような妙な気分のまま家を出た。忘れ物はないかとあれこれ聞いてくる友人はお母さんみたいだった。必然的に小学生の頃の、無邪気な無力感が蘇る。

 シリウス・ブラックとは、ずっと話してみたいと思っていた。

 初めて彼を見たのは、親しい人の葬儀の場だった。打ちのめされて真っ直ぐ立つ事すら苦痛だった私は、異様な人が参列者の中にいるのに目を引かれた。それが彼だったのだ。
 彼は完璧に整った姿と、美しい姿勢をした男性だった。ただそれだけなら、容姿を生業にしている人だと思い私は特に気に留めなかっただろう。しかし私が悲しみを一瞬忘れて気をとられたのは、彼の雰囲気だった。彼は真正面を向いて涙を流していた。周りの誰もがそうしているように、顔を背けたりは彼はしていなかった。棺を睨んで挑むように泣いている。涙は彼にとって、恥じるものではないようだった。私はこんな風に泣く男のひとに会った事がなかったので、ずっとその人を見ていた。周囲の誰も、彼の涙には気付いていなかったが、でも私は見ていた。それは悲しみというよりはむしろ怒りだった。全身を硬くし、彼は憤っていた。彼の姿は、振り下ろされる前の剣のように、姿勢を低くした肉食獣のように緊張に満ちていた。
 ともかく彼は自らの命を削らんばかりの勢いで怒り狂っていた。その姿は葬儀に集まった数多くの人々の姿が、私の目の前からすうっと消えてゆくくらい強烈な印象だった。
 葬儀の後、人を紹介したりされたり目まぐるしい時間の中で、彼こそがあのシリウス・ブラックであったと私は知るのだが、特に驚いたりはしなかった。家柄も過去も、名前の美しさすら、まったく彼に相応しいと思ったからだ。
 葬儀のあと、いなくなった尊敬する人の事を思い出すと、なんとはなしにあの黒い服を着て胸を張って泣いていた人の姿が浮かぶようになった。

 私は面倒な手順を踏むのが苦手だ。短い文章の手紙と時候の挨拶、女性らしく控え目な誘い。そちらの方が好印象で成功率が高いと分かっていてもどうしても駄目だ。なので私はシリウス・ブラックが講演者として参加する会に出席し、そして最後に彼と握手をするための列に並び笑顔で言った。「お久し振りです。以前お会いしていますがご記憶でしょうか。このあともしお時間がよろしければ昼食をご一緒に如何ですか?」友人に話すと「テロリストか変質者の手口みたい!」と呆れられるに決まっている。なのできっとこのくだりは話さないだろう。私の唐突な申し出に、彼は驚きながら応対してくれた。シリウス・ブラックは私の名と来歴を記憶しているようだった。これまで、ほぼすれ違うような形でしか会った事がない私を。

 お葬式の次に彼を見たのは、怪我をして運び込まれてくる瞬間だった。一瞬のことだったが、私はすぐに気付いた。彼はまったく血の気を失っていて、もしかすると助からないかもしれないなと私はそう思った。担架に載せられた彼は力なく横たわり、長い髪が頬にかかって妙に幼く見えた。仲間の命が失われるのはいつだって苦手だが、その時は胸と背中が内側で貼り付いてしまったように苦しくなって、私は戸惑った。

 食事をする店は私が選んだ。通いなれた食堂が偶然近くにあったからで、特に何も考えていなかった。ぎいぎいと音を立てるニスの剥げかかった木の椅子に腰掛けたシリウス・ブラックを見て、ようやく私はこういう所ではなく、もっとちゃんとしたレストランにすればよかったかもしれない、というより彼に任せるのが普通だったかもしれないと気付いた。
 シリウス・ブラックは突然現れた胡散臭い女に対する警戒や困惑の感情を持っていないか、又は上手にそれを隠しているようだった。ごく当然のように店までの道のりで私をエスコートし、近所の人間が通うような普通の食堂であるにもかかわわらず女性である私の椅子を引いてくれた。昨今では見られなくなった紳士的振る舞いだが、おそらく無意識のものだろう。店で食事をしていた何人かが驚いてこちらを見たのが分かった。
 このお店のお昼のメニューは1つしかない。私達はそれを頼んだ。たっぷりの肉団子とセロリとたまねぎが入っているミルクスープ。それとパン。その人はとても好ましい具合にどんどんと料理を食べた。どんどん食べるのに、でも両手は指揮者のように優雅だ。そして特別笑っていたりするわけではなくとも、その人が食事を楽しんでいるのが分かった。匂いや、色や、感触を驚きをもって味わっている。
 当たり障りのない時候の挨拶や、すっかり変わってしまった魔法界に対する感慨はもう道中に喋っていた。なので私は3度目に彼を見たときの話をした。ホグワーツが炎上したあの最後の戦い。私達は安全な場所に集まり、ホグワーツに急行すべきだという派と陽動に乗せられてはいけないという派に分かれて果てることのない議論を続けていた。そんな時に彼は立ち上がった。「百万年もこの話し合いを続けて、好きなだけ命を大事にするといい。俺は行く」と。大股に歩んで去ろうとした彼に、全体の迷惑になると大声を上げた人もいた。
「あなたは『糞食らえ』と言いましたね」
「あのときは失礼しました。昔から僕は逆上すると見境がなくなる」
「いえ、それで思ったんです。あなたのことが好きだって」
 あの時、憑き物が落ちたように何人かが立ち上がり彼の後を追った。そして何十人かが遅れてその後を。そして私達は、偉大な魔法使いの残した最後の魔法と、ハリー・ポッターの戦い、物語の終焉を見る事になった。
「・・・・・・それは何とも…変わった趣味をなさっていますね。ああ、いや、お礼を申し上げるべきか」
「一緒に暮らしていらっしゃる方のことは聞いています。どうかそんな困った顔をなさらないで下さい。ただ言いたかっただけなんです。色々ありましたし、もう終わりにしようと思って」
 そう、人の噂や、彼には気の毒なことにゴシップ誌で嫌というほど私はシリウス・ブラックの近況を目にした。少しだけ見掛けたことのあるその男性は変わった印象の人だった。軽く押しただけで簡単に倒れてしまいそうな細い体で、そして淡い色合いをした人。その男性が現在のシリウス・ブラックの恋人であるらしい。
 彼は上品に沈黙して首を傾げる。
「あなたはその方と幸せに暮らしていらっしゃるんですね?」
「ええ。こんな平安があるとは知らなかった。夢のような暮らしです」
 彼は少しも躊躇わず、私への同情や気遣いをしなかった。華やかな笑顔。私は彼に感謝をした。
 最初に葬儀で見掛けたとき、おそらく涙を流すシリウス・ブラックの隣であの男性は黙って立っていたのだろう。そして負傷して運び込まれてくるシリウス・ブラックに、誰かが付き添っていたのをうっすらと覚えている。捨てゼリフを残して隠れ家を去るシリウス・ブラックの後ろにつき従う男性がいたのを私ははっきりと記憶している。彼はずっとシリウス・ブラックの隣にいたのだ。
「どんな方ですか?ルーピンさんは。確か教師をなさっていたとか」
「彼は強い人です」
 シリウス・ブラックは片方の眉に皺を寄せて、考えながら話した。
「世界中のほとんどの人間が打ちのめされて倒れるような事があったとしても、彼は立っている。そんな人だ。でも、外見はそんな風には見えない。彼も自分が強いとは思ってはいない。静かな人です……それから」
「ええ」
「ともかく尊敬している」
 シリウス・ブラックは首を振り、突然のことでうまく言えないなと言った。私は礼を述べた。
「もしかして見知らぬ女とこんな風に食事をしていたなんて分かったら、あなたが怒られてしまいませんか?ごめんなさい」
「たぶん彼は全然気にしないと思いますよ。少しは怒ってくれるといいんだが」
 そう言った彼の表情で、私はシリウス・ブラックがどれほど恋人を愛しているかを察する事ができた。彼は不平を言ったのに、表情は言葉の内容と違っていた。その時のシリウス・ブラックはゴシップ誌に載っている美しい写真の100倍は幸せそうに見えた。
 私はきちんと微笑んで「よかった」と言い、そのあとも色々な話をした。世界で一番有名な魔法使いハリー・ポッターの話。現在のホグワーツの話。シリウス・ブラックは大層な話し上手で、私は食事を楽しむことが出来た。


 食事が終わった後、私達は握手をして別れた。シリウス・ブラックが立ち去るのをちゃんと見届けてから私は泣いた。私の目から見たシリウス・ブラックは十分に強い人だった。そんな彼が「強い人」だというのだから、きっとリーマス・ルーピンという人はとてつもなく強い人なのだろう。
 美しさで負けたのなら良かった。或いはプロポーションや、料理の腕前や。くやしくない部分で負けたのなら良かったのに。友人の選んでくれた、申し分なくおしゃれな服装のままで、私は泣きながら歩き続けた。埃っぽい街並みや街路樹は涙で滲み、いつもより綺麗に見えるのだった。











先生と女の子の話を書いたので
シリウスと女の人の話も。
シリウスに失恋した女の人の数は
もっと多いと思います。
分かりやすい魅力を持った人だから。

あと、私は皆様のお読みになったのとは違う
5巻、6巻、7巻を読んだあとで
この話を書いたのだと思います。
(というかサイト全体的にそうですね…)

2007/04/10


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