幸運と血の話





 「リーマス・ルーピンさんですか?」
 と問い掛けられた紳士は
 「は?」と戸惑ったような返事をした。ルーピンの目前だった。

 紳士は髪に白髪の混じった柔和な顔つきで、いかにも教師らしく見えた。場所はホテルのロビー、ちょうど中央の辺り。
 その会話がスイッチとなっていたのだろう、シャンデリアが天井から落ちてきた。その照明器具は、自由落下からは程遠い動きで男性を叩き潰し2度3度とバウンドして殺戮の仕上げをした。そしてシャンデリアの環が、くにゃりと曲がって金属の顎を形作り、ご丁寧にも男性の頭部を噛み潰した。その後でようやく一方的な虐殺は止み、照明器具は最初からただの照明器具であったかのような澄ました顔をして動かなくなった。床の血の跡だけが無言の証言者として人々の視界一杯に広がっている。
 悲鳴が上がった。
 真っ赤に変色し、もう何色の髪だったか或いは何人だったのかも判然としない男性の頭を見て、ルーピンの現実感は急速に遠のいた。
 隣にいたシリウスが強い力で右のひじの部分を捉え、耳元で「しっかりしろ!」と囁かなければ彼はその場に座り込んでいたかもしれなかった。
 このホテル、この時間帯、リーマス・ルーピンという人物。白髪混じりの頭をしていて、落ち着いた色の服を着ている。教師風の容貌。
「シリウス、彼は……」
「視線を動かすな。俺達は驚いている一般客だ。このまま数分ここに立ち尽くして、人が増えてきたらそれに紛れて部屋へ上がる。いいな」
「私と……」
「考えるな。喋る単語に気をつけろ。さっきお前の名をあの紳士に問い掛けた男、きっと近くで様子を伺っている」
「あのひとは無関係の……」
「ムーニー頼む。お前はいま平静ではない。ここでやり合うのは危険だ。巻き添えも出るだろう」
「……ああ、そうだね……」
「数を逆に数えろ。何も考えるな」
「分かった」
 シリウスはルーピンに物を考えるなと何度も囁き、やがて自然に彼の腕を取りエレベーターへと導いた。痛ましい事故から逃げ去るような素振りも完璧だった。ルーピンの体を半ば隠すようにして歩いた彼は、上階のスイッチを乱暴に押す。
 部屋に戻るとシリウスはソファにルーピンを座らせ、備え付けの電話機でとある番号に繋ぎ(マグルの電子機器に関する盗聴の技術は、未だどちらの陣営も十分に発達していない)、宿泊中のホテルで急襲された件と内通者がいる件を簡潔に伝えた。そしてこの仕事は降りる、内通者が判明するまで身を隠すと、ルーピンの方を見もせずにはっきりと言う。相手とルーピンが抗議をする前に彼は電話を切ってしまった。
「シリウス」
「どうした」
「その判断は私がするべきものだ」
「どちらにしろ俺達はこのホテルからしばらくは出られない」
「シリウス」
「俺が彼等なら、何らかの手段で遺体の杖の有無を調べる。急にホテルから出立する客を調べる」
「私は行かなくては」
「リーマス、勇気と蛮勇は違う」
「・・・・・・」
 シリウスが差し出したグラスの水を受け取ろうとして、ルーピンは自分の手が異様に震えているのに気づいた。このままグラスを持てば半分以上が床にこぼれてしまうだろうという酷い震えだった。
 自分の精神が以前ほど磐石のものではないことをルーピンは実感する。少年の頃から彼は自分の死を恐れなかった。成人してのち例の事件が起こってからは他人の死も恐ろしいものではなくなった。いつ、どこで、誰が消えてもいなくなっても、ルーピンはただ淡々と目的を果たす気構えでやってきたのだ。しかしいつの間にかその生き方は変化していたらしい。
 ショックがすぐに表面に出るのは、精神にとって悪い事じゃない。ルーピンは努めて前向きに考えた。
 あの瞬間、叩き潰されて肉片になっていたのは高い確率でルーピンであった筈だった。勿論シリウスである可能性もあった。それがほんの少しの要素で変化が起こり、無関係のマグルの男性が身代わりで死んだのだ。
 口の前に差し出されるままにルーピンはグラスから水を飲み、気がつくとシリウスの長い腕に頭を覆われていた。動揺している時に受ける抱擁は痺れるくらい甘い。
「シリウス」
「考えるなと言っているだろう」
「無理だ」
「お前は悪くない。非道なのは相手だ」
「それは知っている。けれど私がいなければあの男性は死ななかった、というのも事実だ」
「奴らは報いを受けなければならない。決して野放しにされるべきではない」
「もちろんそれはそうだ。シリウス……」
 ルーピンは拒絶する態度にならぬよう注意しながらゆっくりとシリウスの手を押し戻す。
「あの男性はもう2度と、誰とも抱き合えない。私だけがこんな風に恐怖を軽減して貰うのは……」
「何もかも死んだ男性と同じにするのは難しいだろう。お前は生きている」
 震えの止まらないルーピンの手をシリウスが握った。
「……3時間もすれば平静になれると思う。大丈夫だ。済まないが隣の部屋で1人で横になってもいいだろうか?」
 本当に深刻な状況であるとき、他人の慰めや忠告を一切受け入れられなくなるルーピンの性質をシリウスは知っている筈だった。彼は自分の中で誰の手も借りず情報を整理し、受けた傷を1人で修復する必要があるのだ。それは幼い頃からの彼のルールであり、今更変えられないものだった。
「駄目だ」
 しかしシリウスは首を振る。表情は変わらず、彼の感情は窺えなかった。
「どうして」
「分散するのはまずい」
「・・・・・・」
 ルーピンはふと、この部屋に入ってからのシリウスの右腕が常に空けられている事に気付いた。ルーピンを抱きしめた時も、水の入ったグラスを差し出した時も、使われていたのは左腕だ。右腕はいつでも動かせるようにしてあるのだ。
 杖を握れるように。
「だが眠れるのならその方がいい。1人にはさせられないが。俺は横で読書でもしている。気にしないでくれ」
「……分かった」
 それからシリウスは今度はブランデーの入ったグラスをルーピンに差し出した。ルーピンは首を振ったが、シリウスは引かなかった。仕方なく彼はそれを嚥下する。こんな風に人から扱われるのは随分と久し振りのことだったので、ルーピンは妙な気分がした。ブランデーには味というものが一切なかった。
 無言のままベッドに仰向けになると、自動的にルーピンの脳裏に先刻見た光景が再生される。シリウスの目の前で自分があのような死に方をせずに済んで良かったと、考えないようにするのは難しかった。
 幸運の代償は、名も知らぬ誰かの命なのだ。その事を彼は必死で考える。
 幸運や幸福は1つではない。ルーピンの幸運とあのマグルの男性の幸運は、こんなにも違う。そしてルーピンの幸福と、「彼等」の幸福の間には絶望的な程の隔たりがあった。どちらかが死ななければならない程の隔たりが。
 元々閉められていたのか或いはシリウスがそうしたのか、寝室のカーテンは日光を遮断していた。ベッドについている読書灯の微かな光だけが瞼を通して見えている。シリウスがページを捲る小さな音が続いていた。
 ルーピンの手の震えは、まだ止まらない。ここまで手が震えるのは、余程酷い夢を見た後や、それから子供の頃の満月の夜、1人で過ごすのが恐ろしかった頃以来だった。
 眠れる筈もない。
 ルーピンは隣で読書をしているシリウスに心の中で呟いた。「また悪夢のレパートリーが増えたような気がする。罪悪感で私の気が狂うまで、こうやって人違いの殺人を彼等が続けるのなら、それはそれで有効な戦法なのかもしれない。ああどうして手の震えが止まらないんだろう。私はひどく弱い人間になってしまった」
 はらりと紙の擦れる音がする。シリウスを象徴するように、静かで落ち着いた響きだった。彼こそは今も昔も、何者をも恐れなかった。死も、あらゆる脅威も彼は笑い飛ばした。
 ルーピンは彼の姿を見るために、闇の中で瞼を開いた。
 けれど自分のベッドに座ってページを捲っているシリウスを一目見て、ルーピンは彼が本を読んでいないと気付いた。
 シリウスは読書などしてはいなかった。
 彼の視線はむなしく紙の上を滑っていた。輝きを宿す眼は、しかし空ろで、彼は痛さに耐えるような、怒りを押し込めるような、全てを諦めたような、複雑な表情をしていた。見る者の心を傷つけるくらい、それは哀れな顔だった。おそらくあの牢獄で12年間、毎日彼はこんな顔をして過ごしていたのだろう。ルーピンは理由なくそう確信した。
 今この瞬間に、誰が一番恐怖を感じているか、漸くルーピンは理解する。
 気が狂いそうなくらい恐れているのも、傷付いているのも、ルーピンではなかった。
 彼はそれを押し隠して冷静に振る舞い、ルーピンを守ろうとしている。




「シリウス」
 薄暗い部屋の中で、ルーピンは起き上がった。
「どうした?矢張り眠れないか?」
 と静かに見上げてくるシリウスの髪に触れ、両腕で抱きしめる。彼の恐怖が和らぐように。
 腕の震えは既に止んでいた。













心の中で数を逆にかぞえていたのはシリウスだったと思います。
でなければホテルのロビーで実行犯を同じ目に合わせていたと思う。

起承転結がないので本当はボエに行くべきですが、
さすがにこれは長すぎるので駄文に。
2005/08/10


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