夜の鳥



 住み慣れた家を出た彼等は、街から街へと移動しながら静かに暮らしていた。離れ離れに行動しようという案は、とうとうどちらの口からも発せられなかった。昼間は安宿の部屋で過ごし、夜になると2人で食事になど出掛ける。夜の橙色の明かりの下で見るお互いの顔は見慣れていない所為で妙に感じられ、時に言いかけた言葉を失ってしまうほどだった。
 シリウスは何処へ行ってもよく目立った。主に女性からの視線。ルーピンの後ろに隠れるようにしていても、店に3歩も入ればもう駄目なのだ。歩く姿勢からして違う。テーブルに座っている人々の4割が食事中であろうと会話中であろうとこちらを見ているのを、ルーピンはいつも居たたまれない思いで確認しなければならなかった。逃亡犯としての彼の資質は絶望的だったと言える。彼等は男性2人組なので、女性2人組から食後の予定を尋ねられる事も時折あった。彼女達のプライドを傷つけぬようにしつつ、自分達のプライベートを大切にするという微妙な話術にいらいらとしたシリウスは、ある日フランス人の振りをしてフランス語を話した。直後ルーピンが大笑いをしたので彼のちょっとした思い付きは大失敗に終わったのだが。次の日それを恨みに思ってか、シリウスは黒犬の姿で食事に同伴した。どちらにしろルーピンの気苦労には大差がない。そんなに大きなペットを連れて入れる店は限られているので。
 バーのスツールに掛けて、下に伏せるシリウスへ剥いたナッツなど差し出しながら、ルーピンはそれでも笑顔だった。
 シリウスは必要もないのにその手を柔らかく噛んだりした。

「退屈かな?」

 シリウスは顔を上げた。
 ルーピンがこちらを見ている。月の光が差し、彼の衣服のアウトラインと瞳の縁がうっすらと光っていた。
 2人は夜の森の中にいる。長い時間ここにいるので、衣服の裾がじっとりと夜露で重くなりつつあった。緑色の上を入念に塗りつぶしたような闇。
「12年間牢獄にいた」
「……うん。そうだったね。失礼」
 暗い森の中のルーピンの姿は幽霊を思わせた。彼が身じろぎ一つせず、あまりに穏やかな顔をして立っているので。
「待つ事はこの仕事のとても重要な部分を占める。君は不得手だから心配だ」
 あの家を出てからルーピンは時折自分達の「役目」に関する具体的な内容を語り始めた。そして行動するときにシリウスを伴うようになった。
 端で見ていて、ルーピンの気質はこの仕事に向いてはいなかったが、性質は向いていた。彼は辛抱強い。あちらこちらの酒場に何度でも出掛け、丁寧に人々の話に耳を傾けた。彼が癇癪を起こしたり落胆している様子は片鱗も見られない。何千日と収穫のない日が続くと知っても、きっと彼はたじろいだりしないだろう。ルーピンはそういう人間だった。
 しかしその時間、ルーピンの笑みは掴み所がなくなり、絵に描いたように善良な顔になる。酒場を出れば一瞬で忘れてしまうような印象の薄い顔。シリウスはそれが嫌いだった。思わず笑ってしまった時の彼の笑顔や、威嚇する時の笑顔や、一人でぼんやりとしている時の笑顔を知っているので。きっとルーピン本人にも自覚があるだろう事なので、シリウスは言葉にしたりはしていなかったのだけれど。
「ここで何をするんだ?」
「待っている」
「何を?調査対象の家の近くに潜んでいた方が良くはないか?リーマス」
「それじゃあ危険だろう。この方法はとても効率がいいんだ」
「効率?」
「静かに」
 微かな音がして、ルーピンは首を廻らせて夜空を見上げた。マグルの街から見えるものとは違う、地上から照らされることのない真の夜空を。
 移動する黒い何かと羽音。フクロウだ、とシリウスが認識すると同時にルーピンは大きく呼吸をした。
 学生時代と変わらない、教科書通りの呼吸と足幅。律儀な彼の魔法。
 空を飛ぶ鳥へと、彼は杖を向けた。
 小枝が火の中で爆ぜるような音がして、鳥は葉を鳴らして頭上から降ってきた。
 あまりにもあっけなかった。ルーピンは立ち位置すら変えていない。ただ、杖を上げて、そして下ろしただけだった。フクロウはルーピンの足元に落ちている。茶色い繊維のかたまりとなったそれを左手に拾い上げて、ルーピンは静かに笑った。
「躊躇わず人間を殺す人々が、フクロウ便なんて可愛らしいもので連絡を取り合っているのは可笑しいね」
 言われてシリウスは全くその通りだと気付き、こんなに簡単に魔法を使って奪取してしまえる手段で通信をしている人々と、その杜撰な神経をも憎んだ。お陰で友人は鳥を殺さなければならない。
 動物の死骸を見る時の、少年時代の彼の目をシリウスは覚えている。それは印象的なくらい魂のない目だった。昔、ルーピンは3つの事柄に対峙すると容易に己を失った。「狼」という言葉。「伝染病」に関する全て。そして「死」を連想させるもの、或いは死体。馬鹿げていると分かっていながら、自分との関連を疑ってしまうのだろう。自然に振舞おうとする意志が強すぎて、彼は完璧に彼らしさを消し去る。鎧戸は閉められ、大門は閉ざされ、跳ね橋が上がり、堀は水で満たされる。彼は死に対して耐性が全くなかった。または逆で、あり過ぎた。
 彼はいま、その手で鳥を殺している。
 ルーピンは魔法で封のしてある手紙を2,3度呪文を試したあとで開封した。
 シリウスの複雑な心中を、知ってか知らずか表情は穏やかである。
「時間と場所が記してある。私達の仕事はこれで終わりだ」
 情報は人から人へと伝えられる。真偽を確かめる者、潜入調査をする者、企みを潰す者、そして指揮をとり判断を下す者。彼等それぞれの命は、互いの働きに容易く左右される。けれども誰もが退く道を知らぬかのように遮二無二仕事をこなした。多かれ少なかれ彼等にも事情があるのだ。シリウスとルーピンがそうであるように。
「私は自分の倫理観よりも復讐心を選んだ」
 ルーピンは滅多に物事をはっきりと決めたりはしなかった。その代わり一度決めた事柄は、何があっても変更したりしない。それは昔からそうだった。ひとつふたつばかり決定を変えたのは「病の事を誰にも秘密にして一生を生きる」決意と「シリウスを殺す」という決意。偶然だがどちらもシリウスが関係している。
「以前子供を傷つけたことがある。でも後悔はしていない」
 シリウスは友人の顔を凝視するが、ルーピンは目を逸らさなかった。少年の頃に見ていたものとは明らかに違う顔がそこにある。取り憑かれた者の顔。おそらく自分もそっくり同じ表情を浮かべる瞬間があるだろう、とシリウスは乾いた瞳でそう思う。
「でも、もう次の世代の彼等にはこんなことをさせたくない。私達で始末をつけたいと思っている」
 自らの正義を信じ、ただがむしゃらに進めるほどシリウス達は若くない。しかし全てを赦し、運命の為すがまま清廉を貫き通せるほど歳をとってもいなかった。汚泥の道に足をとられ、それでも進むしか選択肢はない。2人で。
「内容の記憶をしてくれるだろうかシリウス。魔法で写すと痕跡が残る」
 手紙がこちらに向けられた。シリウスは感情の揺れを顔には出さなかった。が、しかしルーピンは彼の瞳を見て少し笑い、手を止める。
「済まない。人の手紙を読むなんて、君には不愉快だね」
「違うリーマス。音読したっていいくらいだ奴等の手紙なんか……」
 シリウスは彼の腕を掴んで指を開かせ、手紙を取った。夜の空気にさらされた紙は手に冷たく感じられる。
「何故そんなことを言う。俺がそんな優雅な気分でいるとでも?」
「隠し事をするときね、君には癖があるんだよ」
 夜の森の中で、他人の鳥を殺し手紙を盗み読みしている最中とは思えないくらいに優しく、彼は微笑んだ。心の内の温かい感情がこぼれるような笑みだった。右腕に杖を持っていなければ、おそらくルーピンはシリウスの額に触れただろう。そして手紙を持っていなければ、シリウスはルーピンを抱きしめただろう。しかし2人はそれぞれの手に杖と手紙があったのでそうしなかった。ただ、黙って彼等は見つめ合う。
「……俺が手紙を読むのは構わないんだ。ただ……」
 ――――お前が
 シリウスがそう言おうとしたとき、ルーピンの左手のフクロウの羽がばさりと動いた。
「しまった。普段は雑談などしないから時間の計算を誤った……シリウス手紙の内容は?」
「リーマス……その鳥……」
「覚えたのかい?早く―――」
「生きている!!」
「違う!文章の内容は覚えたかと聞いているんだ」
「あ?ああ、勿論だ」
「では手紙をこっちへ!」
 2人が小声で慌しくやりとりをする間にもフクロウの羽ばたきの回数はどんどん増え、とうとう抗議の鳴き声を上げるようになった。
「ごめんごめん。すぐに手紙を返すから。ああ、痛いからクチバシはやめてほしいな……と言っても無理か」
 鳴き声と羽音と、2人の衣擦れの音。自分達が秘密裏に行動しているとは全く信じ難い喧騒に、シリウスは暫し混乱する。
「リーマス手が!」
 ルーピンがフクロウを開放してやると、鳥は捨て台詞のような一声をあげて頭上で旋回し、飛び去ってしまった。残されたのは髪が乱れ、頭にフクロウの羽の載った男性2名である。1名は両手から血を流している。彼の怪我と、鳥の飛び去った夜空を見比べながらシリウスは呆然と呟いた。
「……鳥が生きている」
「……当たり前だろう?手紙が届かなかったら意味がない」
 あきれたように笑ってルーピンは「君は、頭が良いのか悪いのか時々分からなくなる」と言った。今度はその友人の目をじっと見詰めて、もう一度彼は同じ言葉を繰り返す。
「……鳥が生きている」
「もしかしてそれは詩?」
 彼の左手が上がって、シリウスの髪に絡まったフクロウの羽を払った。そんな悠長なことをしている場合ではなさそうな、酷い怪我だった。
「手当てをしなければ、リーマス」
「ああ、うん。何か君こそ大丈夫かい?シリウ―――」
 会話とは脈絡なく、そこでシリウスはルーピンを抱きしめた。夜の森の中で、互いの胸は想像していた通り温かかった。苔の匂いと、夜の匂いと、土の匂いと、嗅ぎ慣れた友人の匂い。ルーピンは目を閉じて深く息を吸う。
「危ないじゃないか。私はまだ杖を持っている」
「うん」
「それとも君の言う手当てってこれ?」
シリウスは黙って首を振り、返事をしなかった。こういうのは昔の君っぽくて嫌いじゃないけどね、と耳元で囁いてルーピンは友人の背に腕を廻す。
 夜の森の中で、傷ついた2羽の生物のように彼等はじっと動かず、長い間そうしていた。






夜のお仕事編(それは夜の蝶……)
家を出ているので「来訪者」のあとですね。

鳥は死んだままで、「彼のいる天国には行けないけれど
君と2人だから淋しくはないね」という
淀んだラストと2択だったのですが、
(そのほうがタイトルには合ってる)
私の機嫌が良かったので鳥は生き返りましたとさ。
じゃーん。

しかし勿論今回は殺す必要がなかったから
生きているだけであって、目的のためなら
先生は鳥くらい何羽だって殺しますし
いくら馬鹿(ああ!)だってシリウスさんも
それくらいは知っていますが、それでも
救われるというのはある訳です。

お互いがお互いの聖域であり魂なのです。
だから本人達はプライドも何もかも捨てて
戦える、というようなところはある。
2003/05/18


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