いつものぼーっとして紫苑じゃない。
いつもの儚げな雰囲気の紫苑じゃない。
いつもの感情を表に出さない紫苑じゃない。
今の紫苑は鋭利な刃物の様で、威圧されるほどの存在感があって、感情が剥き出しになっている。
あるのは怒り。
そんな紫苑は、はじめて見た。
紫苑―SHION―
~Kanon the next story~
第十四章 知らない紫苑 後編
「紫苑!」
叫ぶと共に、俺は背後から紫苑の腕を掴んだ。
俺の力に逆らってまでそれを振り下ろす気配はなかった。「おい!おまえら。これくらいで見逃してやる、さっさと消えろ!」
地面に叩きつけられたやつは動けない様だから、他の二人に連れられて去っていった。
もし放っておいたら、どうなっていただろう?
からんっ
紫苑の手にあったナイフが音を立てて地面に落ちる。
それと同時に俺も手を放すと、紫苑は地面にうずくまっている綾香の下に歩み寄った。
ようやく場を支配していた空気が和らいで、俺も栞の下に駆け寄るという行動が取れた。「大丈夫か?栞」
「・・・・・えぅ」
ぽふっ
「おい、栞」
栞は俺の顔を見るなり俺の胸の中に顔を埋めてきた。
「・・・遅いです、来るのが」
「・・・すまん」
「ドラマだったら、もっと早く助けにくるものです」
「ごめん、栞。本当に・・・」
まったく、情けない。
俺は女を泣かせる事しか出来ないのか?一分ほどそうしいてから、栞は顔を離した。
「落ち着きました」
「栞・・・、俺は・・・」
「いいんですよ。ちゃんと助けに来てくれたんですから。それよりも、綾香さんが・・・」
横に目をやると、綾香は自分の肩を抱いて震えており、紫苑はそんな綾香を覆うように抱きしめている。
精神的ショックは綾香の方が栞より大きそうだ。実際に襲われたのも主に綾香だった様だ。「・・・・・」
「・・・祐一さん・・・」
「とにかく、今先輩を呼ぶ。車で来てもらう」
他の誰よりも、この場はまず先輩に連絡するのがいい気がした。
俺は最近購入した携帯で先輩の携帯にかける。プルルルルルルルル
『は~い♪ラッキーティーチャ―の朱鷺ちゃんよん』
「・・・・・先輩、悪いが今は冗談を言ってる場合じゃないんだ」
『あら祐一ちゃん。どしたの?深刻な声出して』
「いいから、これから言う場所に車ですぐ来てくれ」
『・・・何があったの?』
「それは・・・その・・・」
すんなり言うべきかどうかはさすがに迷う。
『・・・紫苑か綾香に何かあったのね』
こういう時は先輩の洞察力に敬服する。
『わかったわ、すぐ行くから』
ピッ
場所を教えると、電話を切る。
十分ほどで来るだろう。「紫苑、朱鷺先輩呼んだから。すぐ来るって」
「・・・・・」
相変わらず反応はないが、僅かに頷いた気がしないでもない。
それから俺達は、先輩の車に乗って先輩達の家に行った。
さすがに先輩、やってきて多少驚きはしたが、すぐに状況を判断して俺達全員を車に乗せた。
車を使ったのは、こんな状態の栞と綾香に外を歩かせるわけにはいかないからだ。
特に綾香は衣服がかなり破かれていた。家に入るなり、紫苑は綾香を連れて風呂場に向かった。
俺と栞は先輩についてリビングに入る。はじめて来る先輩達の家は、一戸建てのなかなかいい家だった。
「適当に座って。今お茶いれるから」
言われたとおりソファに座る。が、栞は立ったままだ。
「この状態じゃ汚れてしまいますから」
「綾香の服で着替え用意するから。二人が出たらシャワーも浴びちゃいなさい」
「すみません。お言葉に甘えさせてもらいます」
俺は一人手持ち無沙汰だ。
だが何かしておく必要がある様な・・・。「あ、そうだ。名雪と香里を置いてきたままだった」
二人に構っている暇がないほど大急ぎだったからな。
「電話しておくか・・・」
と思ったが、栞の事をどう話したものか。
大事には至らなかったものの、妹が強姦に遭いかけたなんて言うべきじゃないよな。俺も相当ショックだったわけだし、香里なんか失神するんじゃなかろうか。「祐一さん」
「お、おう」
「今日の事は、お姉ちゃんには黙っていてください。私は川に落ちてしまって、朱鷺先生の家でお世話になっているという事で」
「わかった」
それが妥当だろう。
でも栞も、姉に余計な心配をかけたくないのだろうが・・・。「強いわね、栞ちゃんは」
先輩が着替えを持って戻ってきた。
「いえ、私はそんな事は・・・」
「くすっ、シャワー、どうぞ」
「はい、ありがとうございます」
栞は先輩にお辞儀をして、俺に対して手を振って部屋を出て行った。
それを見届けてから、俺の向かい側に先輩が座る。「綾香と紫苑は?」
「綾香の部屋。寝かせてるわ」
「そうか」
・・・・・訊きたい事は山ほどあるんだが。
「訊きたい事があるんでしょ?」
「・・・・・ああ」
「綾香の事?それとも紫苑?」
「両方だ」
気になる事は多々ある。
だが今一番頭に残っているのは、あの時の紫苑の表情。そして目。ナイフを振り上げた紫苑。
あれが先輩だったなら、脅しだって確信できただろうと思う。
けど紫苑は・・・。あいつの目は、本気だった。
「・・・俺が止めなかったら、あいつあの男を刺して・・・」
「そんな事はないわよ」
「けど・・・!」
「あの子は我を忘れたりはしない。たとえ本気に見えたとしても、それは紫苑にとっては脅しなのよ」
「・・・まるで見てたみたいだな」
「祐一ちゃんの顔見れば大体わかるわよ。ましてや、紫苑は私の妹なんだから」
・・・俺が知らなかったあんな紫苑も、この人は知っていたのか。
「・・・・・」
「・・・・・」
しばらくは何も話が進まない。
仕方がないので、俺は先に名雪と香里に電話をした。突然いなくなった事で二人には随分文句を言われたが、栞も一緒だという事を伝え、少し帰りが遅くなるかもしれないとだけ言って切り上げた。あまり長く話すと俺の方が何を口走るか。
その後で秋子さんにも電話をかけておいた。
もしかしたら、今日は遅くなるかもしれない。がちゃ
「ふぅ、さっぱりしました」
電話が終わった頃に栞が戻ってきた。
たぶん綾香の服と思われるものに着替えている。「ところで朱鷺先生、紫苑さん出て行ったんですけど、夜までには帰るって伝えてくれって」
「そう、わかったわ」
「って、それだけかよ?」
「もっちろん。私は紫苑を信頼してるもの。夜までに帰るって言ったらちゃんと帰るわよ」
あいつ、どこに行ったんだ?
こんな時に。
でもそんな事よりも・・・。「随分落ち着いてるよな、先輩」
「そう?これでも結構内心穏やかじゃないんだけどな」
「・・・もしかして、前にもあったのか?」
「祐一ちゃん鋭過ぎ。ちょっと状況は違うけど、似たような事は、ね」
それを訊くべきか訊かざるべきか。
先輩も方も話すかどうか迷っている風だ。「そうね。話しとこうかしらね。二人の過去、そして私の罪」
「・・・・・」
もう、日が沈んだわね。
さっきの男達の気配を追ってやってきた場所は、街の外れの使われなくなって久しいスーパー跡。「まったく、もう少し役に立ってもらいたいものだな」
「けどよ、たんな。あんな強えやつが出てくるなんて聞いてないぜ」
「そいつにこそ見付かってもらっちゃ困るんだよ。まったく使えない」
さっきの男達と、もう一人、知っている声。
あまり聞き心地のいい声じゃないわ。あたしは明かりのついている場所、男達のたむろしている所に入っていく。
すぐに相手も気付いた。「て、てめえ!さっきの・・・!」
他の連中はどうでもいい。
用があるのは、中心にいる身なりのいい男。
こいつがいる事はわかっていた。さっき男の一人に脅しをかけた時、こいつの姿のイメージが男の頭に浮かんだのを見たから。「・・・なんのつもり?」
「・・・・・ぐ・・・、紫苑・・・」
そいつはあたしを見てたじろぐ。
真っ向から来る度胸がないなら最初から来なければいいのに。ましてや綾香に手を出すなんて。「東雲忠宏、質問に答えなさい」
たとえ本家の人間であろうと、許しておかない。
「ふ・・・ふははは、飛んで火にいる夏の虫だ、紫苑!皆出て来い!」
忠宏が声をかけると、周り中からさっきの三人と同じ様な連中が大量に涌いて出てくる。
まるで時代劇の悪役そのものね。「小細工が気に食わないなら今この場で潰してやる!おまえ達、この女を好きなようにしてしまえ!」
男達が我先にと動き出す。
・・・馬鹿が、たくさん。
「子供の頃ね、紫苑と綾香はいじめにあってたのよ」
しばらく黙っていてから、先輩はゆっくりと話し出した。
それは半ば予想していた、しかし驚きを隠せない話だった。「主な原因は私。私も子供だったからね、同年代の子達なんて、みんな馬鹿にしか見えなくて、相当に生意気だったと思うわ。家の事でも色々とあってね、外で憂さ晴らしをしてたとも言うわ。でも、喧嘩で私に勝てるやつはいなかったし、口喧嘩では尚の事だったから、みんな私には逆らえない。結果、矛先は妹達に向いた」
「・・・それで、紫苑さんと綾香さんがいじめられたんですか?」
「わからないのよ。二人とも何も言わないし、私は私で気付きもしないまま、息苦しい生活から飛び出してアメリカに行っちゃったから。でも今なら、私がいなくなった後は尚更に風当たりが強くなっただろうって予想できる」
「・・・・・」
「・・・・・」
「紫苑はまだよかったわ。あの子は人に何かを言われて動じる様な子じゃないし、喧嘩は私よりも強い。だけど綾香は・・・、あの子は繊細で傷付きやすく、自分で自分を守れる強さもなかった」
「・・・・・」
「あの子、必要以上に丁寧に話すでしょ。あれは、無意識の内に他人と距離を置いているのよ。紫苑でさえ、他人を容易に信用できないようになってたんだから、綾香はどれほど心に傷を負っていたか・・・」
一言一言紡ぐ先輩の顔に、苦悩が浮かんでいる。
この人のこんな表情を見るのも、はじめてだった。「そんな綾香を守るために、紫苑は周りの矛先が全部自分に向くようにしたのよ。ただでさえ家でも敵が多いのに、外にも敵だらけで・・・、他人を信じないから喧嘩っ早いし・・・。憶えてる?この間あの子怪我してて、綾香がやけに心配してたでしょ」
「ああ・・・」
「またどこかで喧嘩したんじゃないかって、そういう心配なのよ。そんな子供時代を、あの子は送ってきたの。そして私は、そんな時に、一人のうのう海外で浮かれてたのよ・・・。姉、失格よね」
「・・・・・」
「・・・・・」
俯いている先輩に、俺はかける言葉が見付からない。
少し続いた静寂を破ったのは、栞の言葉だった。「そんな事ないですよ」
「え?」
「それで紫苑さんも綾香さんも、朱鷺先生を嫌いになったりしましたか?してませんよ。お二人とも、先生を尊敬していて、とても好きでいます。お姉さんの苦労だって、ちゃんとわかってますよ。これは、妹経験者の言葉です」
妹経験者ってなんだよ?
でも、言いたい事はわかる。丁度栞と香里の関係に、少しダブるから。「・・・それだから、むしろ辛いんだけどね。特に紫苑には、何もかも任せ切りで、負担ばかりかけてるから・・・」
「先輩、さっき家の事がどうとか言ってたけど・・・」
これは込み入った話らしいから、聞くべきじゃないかもしれないけど。
「ああ、あれは気にしないで。私達姉妹は、もう家は飛び出た身だから、今更関係ないわ」
ガッ
「がはぁ・・・!」
二十六人目。
これで三分の二くらいね。でも、残りはもう戦意を失っている。「ひっ・・・!冗談じゃねえ!こんな化け物相手にしてられるか!」
「お、俺は逃げるぞ!」
蜘蛛の子散らす様に皆逃げ去っていく。
化け物、か。
言い得て妙と言うべきかしらね。残っているのは、東雲忠宏のみ。
「ま、まさか・・・」
「あたしの強さは知らなかったわけじゃないでしょうに」
こんな程度の連中を四十人やそこら集めてどうにかなると思っていたのかしら。
もっとも、思っていなかったからこそ綾香に手を出したとも考えられるけど。そういうのは、虫唾が走る。「く、来るか!?お、俺だってな、東雲の継承権の持ち主なんだぞ!」
「・・・だから?」
「う、うわぁああああ!!!」
まっすぐに忠宏が向かってくる。
チンピラどもとは動きが違うけれど、遅い。どぐっ!
「がぁ・・・!」
あたしはその場を微動だにする事なく忠宏を弾き飛ばす。
話にもならない。「か・・・はっ・・・ひっ・・・!」
さてと、どうしよう?
そもそも、どうしてこいつがここにいるの?
あたし達の居場所は、本家でも一部の人間にしか仕えてないはずなのに。「・・・・・」
ああ、そうか。
葉月淳治が伝えたか。
この間の仕返しのつもり?ブロロロロロロロロロロロッ
「・・・・・」
ヴォンヴォ―ン キキキーーーッ!!!
「ひ、ひぇーっ!!」
オープンタイプのスポーツカーがものすごいスピードで走ってきて倒れている忠宏の真横で急停止した。タイヤは忠宏の顔の横数センチで止まっている。
「とぅ!」
運転席から人影が飛び出る。
それはあたしの目の前に降り立った。
あたしと同い年くらいの、メイド姿の女性。「紫苑様!高梨すみれ、只今参りました!」
「・・・・・まだ電話してから三時間も経ってないけど」
本家からここまで普通に車でなら五時間はかかってもおかしくない。
「東北自動車道を二百四十キロでかっ飛ばして来ました」
「・・・ほどほどにね」
言っても無駄だろうけど。
すみれは根っからの飛ばし屋だから。「まったく忠宏様!こんなところで遊んでいていい身分ではありませんでしょう」
「だ、黙れ!分家の出のメイドの分際で、本家直系の人間の俺を危うく轢き殺すところだったぞ!」
「何言ってるんですか。ちゃんと三センチも離れてるじゃないですか。どこかのチンピラ相手だったら、三ミリのところにつけますよ」
「三センチも、って・・・」
「それに、あまりおいたが過ぎると、あの事を皆様にお知らせしますよ?」
「そ、それだけは勘弁してくれっ!!」
相当な弱みを握られてるみたいね。
すみれは分家も分家、ほとんど遠縁と言える家柄で、相続権もないけれど、本家では基本的に誰も頭が上がらないでしょうね。東雲の表も裏も、ほとんど知っているんだから。「では、紫苑様、忠宏様はお連れしますね」
「お願い。それと・・・」
「わかっています。情報提供者にも然るべき処置をいたします。それではー」
ギュヲォオオオオオオン!!!
「あひゃぁああああ!!!」
キキーッ
ブオォオオオン
忠宏を助手席に縛り付けて急発進したと思ったら、すぐにバックで戻ってきた。
「そうそう紫苑様。こっちの事は何も心配なさらないでくださいね。紫苑様が戻られるまでには、全権限を私が牛耳っておきますから」
「別に、どうせ全部ばら撒いちゃうつもりだからいいのに」
「いえ、いけません。勝手に持っていかれるのと、こっちからあげるのとでは後々に響くものが違います。どっちが上かははっきりと知らしめなくてはいけませんからね」
それは、確かにそうね。
「紫苑様のためにも、朱鷺様綾香様のためにも、下手に出るわけにはいきません」
「ええ、わかったわ」
「・・・いいんですか?お二人には、まだ本家とつながりを持っている事を・・・」
「いつまでも隠せはしないと思う。でも二人には、東雲のしがらみから離れて生きてほしいから」
「紫苑様もですよ。面倒な事は全部私に任せてください」
「ありがとう」
「それでは」
ヴォオオオオオオン!!!
「たまには電話くださいねー!」
「ひぇえええ!!スピード落とせ!前見ろまえーっ!!」
獣の咆哮の様なエンジン音と忠弘の悲鳴を残して、すみれの車は走り去る。
すみれの助手席に座るのは、それだけで拷問みたいなものでしょうね。あたしは平気だけど。「・・・・・」
最近は、こんな風に色々考える日々もなかったのに。
本家が絡んできたから、か。しばらくはすみれが抑えてくれるだろうけど、いつかは向き合う事になる。こんなあたし・・・。
こんな気を張り詰めたあたしを、こんな暴力的なあたしを、こんな饒舌なあたしを、あなたはどんな目で見るかしら?祐一。
隠していたつもりじゃない。
でも、知られていい気分もしない。これもあたし、東雲紫苑の一面。
あなたは知らなかった。でももう、知ってしまった。
「祐一ちゃん」
帰り際に先輩に呼び止められる。
「ん?」
「ああいう面も、紫苑にはある。でも、いつものぼーっとしてて、無口な紫苑が、あの子の本来の姿なの。紫苑も綾香も、あなた達には心を開いているのよ」
「・・・わかってる」
紫苑は俺の大切な人の一人だ。
綾香も、先輩も。
たとえ俺の知らない面があったとしても、それは絶対に変わりはしない。
あとがき
一挙二話。長かった。
でも全体通して大事な話でもある。
ちなみに今回初登場のメイドさん、後半に大活躍の予定。たぶん。