人間というものは多くの面を持っている。
というのは誰の言葉だろう?
少なくとも俺が今まで十八年間それなりに生きてきてそれが事実だろうというのは実感している。俺自身自分の全てを一人を相手に見せたりはしないし、知り合い達にも俺の知らない面があっても少しも不思議じゃない。
現に俺は、一番身近な人間の一人であるあいつの事をほとんど知らない。
紫苑―SHION―
〜Kanon the next story〜
第十三章 知らない紫苑 前編
あれから一週間。
栞も退院して、またいつもと同じ日々を俺達は送っている。
そんなある日に、事件は起こった。
「祐一、放課後だよ」
「どうして?」
「授業が終わったからだよ」
「いつ?」
「さっき」
「どうして?」
「終わったからだよ」
「何が?」
「授業が」
「いつ?」
「さっき」
「どの様にして?」
「先生が終わりって言って」
「何故?」
「放課後だからだよ」
「何また馬鹿な事してるのよ。帰らないの?」
「帰るぞ」
「帰るよ」
おなじみのやり取りを終えて、俺達は下校する。
今日は名雪の部活がないので、みんなで百花屋へ行く事に決まったらしい。らしいというのは、そこに俺の意思はまったく絡んでいないからだ。
ちなみに北川はどうしても外せない用事あるとかで、早々に帰った。「栞は補習らしいわよ」
「ああ、綾香から聞いてる」
しばらく入院していたので、その分の補習授業を放課後に受けているらしい。
真面目な事だ。まぁ、その真面目さがあったからこそ今二年生でいられるんだがな。「綾香も栞を待ってるってさ。だから三人で先に行くぞ」
「三人じゃなくてたぶん四人だよ」
「四人?」
「ほら」
名雪が指差した先、校門のところには遠くからでも一目でわかる白い髪、紫苑がいた。
そういえば綾香が呼んだとか言っていた気がしないでもない。かくして俺達は四人で百花屋にやってきた。
適当な席、つまりはいつもの席に座ってそれぞれに注文をする。「わたし、イチゴサンデー」
「飽きないわね。あたしはコーヒーお願い」
「俺もコーヒー」
「二人とも何も食べないの?」
「「後で栞が来る」」
「あはは・・・」
面子が揃うとあいつは十中八九あれを頼む。
あの、ジャンボミックスパフェデラックスを。「・・・チーズケーキとレモンティー」
紫苑も注文をしている。
しかし最近こいつよく喋るようになってきた気がするな。あくまで昔に比べてだが。今でも必要最低限の事しか話す事はない。話さないと言えば、俺は紫苑の事をほとんど知らない。
七年も一緒にいたのに。大体にして朱鷺先輩や綾香にしても、家族の事を話した事がないし、俺は見た事もない。
東雲家ってどういう家なんだという事も知らない。
そんなものは知らない事の一部であり、他にも知らない事だらけだ。
栞です。
やっと補習が終わりました。
大事な事とは言え、やっぱり大変です。
それにしてもなんだか気分爽快ですね。体の調子だけじゃなくて、心の調子まで絶好調といった感じでしょうか。「えひゃひゃ〜」
「し、栞さん・・・、ちょっと不気味です」
「そんな事言う人、嫌いで〜す」
確かに浮かれすぎかもしれません。
ハイになってます。
人間って現金なものですね。病気が治ったらこんなに嬉しくなってしまうなんて。「あ、でも・・・」
「どうされました?」
「ちょっと困りましたね」
「?」
「病弱な美少女って、男の人のつぼにはまりそうじゃないですか。でも病弱じゃなくなったらただの美少女ですよ?何か新しいセールスポイントを作らなくちゃいけませんね」
「はぁ・・・」
「綾香さんも人事じゃありませんよ」
「え!?」
「祐一さん狙いははっきり言ってライバル多いですからね」
「わ、わ、私は、別に・・・」
赤くなって否定しても説得力がありません。
綾香さん、他にあゆさん、名雪さん、そして紫苑さん。
祐一さんはあくまで否定しているようですが、祐一さんと紫苑さんの間には絶対に何かあります。
少なくとも恋人になる可能性を秘めているでしょうね。手強いです。「・・・私なんかじゃ、祐一先輩には釣り合いません」
ひどく落ち込んだ声で綾香さんが呟いています。
「どうしてですか?綾香さんなら十分に・・・」
「だって、私に何か一つでも姉さん達に及んでいる部分がありますか?」
「え?」
「私は紫苑姉さんみたいに綺麗じゃないし、朱鷺姉さんみたいに頭もよくない。栞さんが倒れた時だって、おろおろしているだけで何も出来ない、姉さん達みたいに行動力もない。・・・・・ほんとに、どうして姉妹でここまで違うんでしょうね?」
「・・・・・綾香さん」
ちょっとだけ、今の綾香さんの気持ちはわかります。
私のお姉ちゃんも尊敬出来る人ですから、私も少し劣等感を抱いています。
だけど、私から見ても朱鷺先生や紫苑さんは普通の人とは違うと感じますし、ましてやいつもそれをすぐ近くで見てきた綾香さんには、その存在が強い劣等感を生み出しても仕方ないのかもしれませんね。それはきっと、私もものなんかよりも遥かに強い。「・・・・・」
「・・・・・」
なんだか、気まずい空気になってしまいました。
・・・・・あれ?
「ここ、どこでしょう?」
「え?あ・・・」
どうやら二人してぼーっと歩いていた道に迷ってしまったようです。
人気の少ない場所。商店街と反対方向に来てしまったみたいですね。「よっ、そこの子猫ちゃん達」
しかも変なナンパの人に引っ掛かったみたいです。
「俺達と一緒に遊ばない?」
「あ・・・!」
さっと綾香さんが私の影に隠れる。
密着している部分から、綾香さんの震えが感じ取れます。
ここは私がしっかりしなくては。「残念ですけど、先約があるので失礼します」
「つれない事言うなよ。ちょっとでいいぜ」
「しかし二人とも胸小せえな。俺はもう少し大きい方が」
「俺はこのくらいも悪くないぜ」
かちんっ
「思い切り失礼な人達ですね、人が気にしている事を!今は小さくとも、将来は大きくなるんです!」
思わず言い返してしまいました。
こういう場合は下手に対応すると逆に付け込まれるのはドラマの常識なのに。
でも!胸の事を言われるのは許せません!女のプライドが!「じゃあさ、手伝ってあげよう」
「え?」
「胸ってよ、男に揉まれると大きくなるって言うよなぁ」
「・・・・・っ!」
いやらしい顔をして近づいてくる男を見て、ますます綾香さんが縮こまってしまう。
私も、こんな男に胸を揉まれたくなんかありません。「結構です!私の胸を揉んでいい男の人は、世界で只一人だけです!」
ちょっと問題発言と思いつつも、ここは強気が大事ですから、声を張り上げます。
声を聞きつけて、誰かが助けてくれれば・・・。「なら俺がそいつと代わってやるよ」
・・・駄目ですね。助けを待ってたんじゃ何をされるか。
「・・・綾香さん、走りますよ」
「え・・・?」
「えいっ!」
ぷしゅー
「うわぁっ」
「綾香さん!」
「は、はい・・・!」
綾香さんの手を引いて一目散に逃げ出す。
とにかく、人のいるところまで逃げられれば。「し、栞さん、今のは?」
「外出時の必需品、虫除けスプレーです」
大した効果はないでしょうけど、目を狙いましたから少しは時間稼ぎになるはずです。
でも、世の中そうそううまくはいかないみたいです。
人のいる方へ逃げるはずが、どんどん人気のない裏路地に追い込まれてきます。
加えて、病み上がりの私では長く走る事が出来ません。「はぁ・・・はぁ・・・」
「へへっ、もう逃げられんぜ、お譲ちゃん達」
薄暗い路地で前後から挟まれた。
さっきみたいな不意打ちはたぶんもう効かないし、効いたとしてももう逃げるだけの体力がありません。「けっ、手間取らせやがって。最初から掻っ攫えばよかったんだよ」
「あいてて、確かにな。ちょっとかわいいから優しくしてやればつけあがりやがって。このガキは俺が貰うぜ。そっちの娘はてめらで好きにしな」
「いいのか?」
「どうしちまってもいいて言われてるからな。楽しませてもらおうじゃねえの」
三人の男が包囲を狭める。
やっぱり逃げる隙はないです。
こんな、こんな人達に、相沢祐一の恋人(予定)で美坂香里の妹である私がいいようにされるなんて、絶対に嫌です!「ここに助けなんて来ねえからな、ほれ来な」
「放してください!あ、綾香さんにも手を出すんじゃありません!」
叫ぶ私の声も虚しく、目の前で綾香さんの衣服が破られる。
「いやぁーーーっ!!!」
がたっ!!
「ど、どうした?紫苑」
会話に花を咲かせている俺達の横で一人黙々とケーキを口に運んでいた紫苑が突然席を蹴って立ち上がる。そのまま何も言わずに見せの外に走り出る。
「おい、紫苑!」
「相沢君!?」
「祐一!?」
後ろで呼ぶ声も無視して紫苑の後を追う。
あいつが突拍子もない真似をするのは今に始まった事じゃないが、今回のはどこか違う。
少しでも動揺の色を見せたあいつを見るのは、はじめてだ。
「やめなさい!綾香さんに手を出したらひどいですよ!」
「なら、あんたに手を出したらどうなるんだい?」
「それは・・・、もっとひどいですよ!」
力いっぱい私を捕まえている男を睨みつける。
「本当ですよ!祐一さんとお姉ちゃんに半殺しにされますよ!逃げるんだったら今のうちですよ!」
睨む事と叫ぶ事しか出来ない自分が悔しい。
私の体力じゃ、私を捕えている腕から抜け出す事も出来ない。「いやぁーっ!やめてくださいっ!」
「!やめなさい!汚い手で綾香さんに触るんじゃありません!」
そうです。
綾香さんはとっても優しくて、純粋で、それは絶対にお姉さん達に劣ってなんかいない立派な取柄で、こんな人達に汚されていい人じゃない!「そう言われると触りたくなるのが、男の性ってもんだぜ、胸なし嬢ちゃん」
「そうそう」
「くっ、この・・・!」
「人の事より、自分の心配した方がいいぜ」
男の手が私の顔に触れる。
触れた拍子にその手に噛み付いてやります。がぶっ
「いてっ!このアマぁ!」
ばちんっ
「きゃっ!」
頬を強く叩かれた私は壁に背中からぶつかって崩れ落ちました。
「調子にのんなっつってんだろが!」
「っ・・・」
口の中に鉄の味がします。
打たれた時に口の中を切ったみたいです。
でも痛みなんかに構っている場合じゃない。綾香さんが・・・。「あ・・・」
ばきっ どかっ
「がっ・・・!」
「てぇっ・・・!」
「な、なんだ!?」
綾香さんを捕まえていた二人の男が殴り飛ばされる。
そこに立っていたのは・・・。「紫苑・・・さん?」
紫苑のやつ、滅茶苦茶足が速い。
毎朝の名雪との特訓がなければとっくに見失っていただろう。俺は紫苑が曲がった路地の角を同じ様に曲がる。
直前に小さな悲鳴を聞いた気がするが、そんな事はどうでもいい光景がそこにはあった。すぐにどう反応すればいいのかわからない。
壁際に背中をつけて口の端から血を流している栞。
乱れた衣服で、肩を抱いて震えている綾香。
チンピラ風の三人の男。
そしてそいつらの前に、俺に背中を向けて立つ紫苑。俺はどうすべきか。
わからない、というよりは、わかる余裕がない。
そんな空気が場を支配していた。「・・・紫苑・・・?」
喉がカラカラで、俺はやっとその名を口に出来た。
いつもとは明らかに違う。
普段いるのかどうかさえ疑わしく思える儚げな紫苑はそこにはいない。
そこにいるのは、圧倒的な存在感と威圧感を放つやつがいる。
紛れもなく紫苑だが、それは俺の知らない紫苑だった。「あんだこのアマ!」
「よくもやりやがったな!」
「だがいい女だな。先にいただいちまうか?」
男達が紫苑を取り囲む。
馬鹿が三人。そう思えた。それは、猛獣の巣にそれと知らず入り込む野良犬の図だった。
当然、猛獣の爪と牙は、野良犬の比ではない。「がっ・・・!」
「ぐぇ!」
「がはぁっ・・・!」
俺は唖然として、それでいて心は驚くほど冷静にその光景を見ていた。
紫苑に掴みかかった男は、皆いともたやすく弾き飛ばされる。まるで活劇ドラマでも見ているかのように、あまりにも鮮やかに男達は紫苑に倒される。一人が肘打ちと掌底の連打を受けて沈む。
一人は投げ飛ばされると同時に関節も極められていた。
「こ、このクソがぁ!!」
最後の男の手に光るものが現れる。
「死ねェェェ!!」
だがその手はあっさり取られ、ねじ上げられた挙句、男は地面に叩きつけられた。
男の手を離れたナイフは紫苑の手に渡り、逆手に持ち替えられたそれを、紫苑は頭上に振りかぶる。
ずっとそれがスクリーン越しの出来事の様に感じていた俺は、その時一瞬覗いた紫苑の顔を見て我に帰った。
「紫苑!!」
あとがき
やっとこの回。
スタート当初からこの回の構想はあったのだよ。非常に大事なエピソードだ。
前後編なので次回に続く。