「祐一さん、祐一さん」
栞が手招きしている。
「何だ?」
「もっと近くまで来てくださいよ。私起きられないんですから」
何がしたいんだか。
と、すぐ近くまで行ったところで栞が顔を寄せてくる。「悲劇のヒロインは頑張ったんですよ」
「ほう」
「ご褒美くらいくれないんですか?」
「いまさら・・・」
雰囲気をしっかり壊しておいていまさらそういうものを求めるか。
本人はまったく気にせずに既に目を閉じて待っている。「ったく・・・」
思いっきり照れるのだが、俺は栞の言うところのご褒美のキスをした。
紫苑―SHION―
〜Kanon the next story〜
第十二章 七年目の告白
「「あー!」」
後ろから声。
名雪とあゆのものだ。「うーん、お熱いわねェ」
先輩の茶化す声。
「・・・・・」
無言の紫苑。
またどうしてこのタイミングで入って来るんだか。
目の前の栞の顔はいつもの白から赤になっている。たぶん俺も似たような状態だから振り返れない。しばらくその状態で、先輩にはからかわれ、名雪とあゆには睨まれていた。
だが、不思議と居心地の悪さはない。これが日常だからか。その後香里を先頭に美坂一家と医者の先生が入ってきた。
聞くところによると、手術は成功で、この先数回の通院で栞は完全に快復するらしい。これで今度こそ、栞は病院と縁のない生活を送れるわけで、美坂一家の喜びようと、あのハワード先生への感謝の度合いはすごいものだった。
先輩に言わせれば・・・。「あんなエロジジイに感謝なんかしなくていいのに。どうせ礼はいいから大きくなったら会いに来てくれ、とか言ったんだから」
事実その通りの事を栞が言われたというのだから、複雑なものだ。
香里の方は、今度会ったら礼代わりの拳をお見舞いしそうだな。今更になったさっき胸を触られた事が頭に浮かんできたのだろう。
さてそれからというもの。
どこから話を聞きつけたのか、天野や真琴、舞に佐祐理さんなどが続々と見舞いにやってきた。
俺達に置いてけぼりをくらっていた綾香もやってきて、この間花見で一緒だったメンバーが全員揃った。無論秋子さんもだ。さすがに病院だという事でみんな大人しいが、それでもこれだけの人数がいると十分賑わう。
「栞ちゃんが退院したらお祝いに宴会しなくちゃいけないわねぇ」
「あははー、いいですね、それ」
「もう少し早かったら連休でどこかに行けたのですが」
祝いの宴会は決定事項のようだ。
本人も嬉しいのだろう、その時の事を皆と話している。俺はというと、その栞がさっきから放してくれない。
つまり俺も話の中心にいるわけだが、俺自身が話す暇はないほどに女達の会話がすごい。
そんな状態なので、何人か病室からいなくなっていてもしばらくは気がつかなかった。
「・・・・・」
正の感情が溢れている場所は、少し苦手ね。
慣れていない所為。むしろ、正にしろ負にしろ、多くの感情が渦巻いている空間にいるのは疲れる。
そういう意味では、病院ほど苦手な場所はないでしょうね。生と死の狭間。
生のもたらす喜び。
死のもたらす悲しみ。
生への望み。
死への恐怖。「・・・・・」
むしろ、慣れたくないわね、こんな状態に。
「・・・・・?」
あれは、あゆ?
一緒にいるのは・・・、少し意外な人間。こんなところで会うとは思っていなかった。あゆとその男は、少し話をしていたけど、そのうちあゆがその場を離れた。
あたしには気付かなかったみたいで、たぶんみんなの所に戻ったのでしょうね。「これはどうも、ご無沙汰ですね」
男はとっくにあたしに気付いていたのだろう、あゆがいなくなるとすぐに話し掛けてきた。
「・・・・・」
視線であゆの去った方向を指す。
それでこの男はあたしの意図を察する。「月宮さんは私の患者なんですよ。ご存知かもしれませんが、彼女は七年間意識不明だった。今でも数ヶ月前に彼女が目覚めた事は、病院内で奇跡だと言われていますよ」
「・・・・・」
「もっとも私にとっては奇跡と言っても、それほど高いものとは思いませんがね。人の想いは強きもの、でしたな」
そう。
人の想いは力になる。
あたし達にとっては普通の事、だけどほとんどの人間がその事に気付いていない。
気付いていたとしても、純粋な想いでなければ、奇跡を起こせはしないけれど。「立ち話もなんですから、お茶でも飲みませんか?」
そう言って先に行く男に付いていく。
別に断る理由もない。
葉月淳治。
それがこの男の名前。
医者なのは知っていたけれど、こんなところにいるとは知らなかった。「親類の居場所くらい知っていてくださいよ。ご当主なんですから」
「・・・まだよ」
「実質的にはそうでしょう」
そしてこの男、東雲の家の人間でもある。
どういう関係だったかは忘れたわ。「はとこですよ。ご宗家の弟の長女の次男です」
そんな類の人間が何人もいるのに、いちいち憶えていられない。
名前と顔だけで十分だわ。「この間本家に行ってきましたが、もう近いですよ」
「・・・・・」
「今度倒れられたら、おそらく」
ご宗家が、お祖父様が亡くなる、か。
「朱鷺さんと綾香さんにもお伝えした方がいいのでは?」
あたしは葉月を睨みつける。
たぶん祐一や、最近知り合った人達は知らない、いつものぼーっとしているあたしとは違うあたし。「これは、余計な事でしたね」
本家の話は面倒だわ。
それは葉月も察しているから、それ以上その話題には触れない。
代わりに、あゆの話をし始めた。「月宮さんは興味深い患者でしたよ。私にとってのみでしたけどね」
「・・・・・」
「今年のはじめ頃ですよ。変化が起きたのは。彼女の意識が体の下にない」
「・・・・・」
「もちろん眠っているわけですから意識はないのですが、それでも彼女の下で封印されていたはずの意識が完全に別の場所に行っていたんですよ。いわゆる一種の幽体離脱でしょうかね。まあ、言葉などどうでもいいですが」
あたしは席を立つ。
これ以上この男の話を聞いていても仕方がない。「そんな姿ででさえ、やりたい事があったというのは、すごい事ですよね」
「・・・・・」
あゆには一目会った時から、彼女が祐一の傷の元だとわかった。
彼女は、祐一に会いたかったのよ。その想いはあゆに動き回れる体を与えた。あゆに対する祐一の想い、祐一に対するあゆの想い、それが彼女を目覚めさした奇跡。
人の想いが起こす奇跡。「葉月淳治」
「はい?」
「おまえ如きが分かった様な口を利くんじゃない」
「・・・・・(ぞく)」
あたしの意識をまともに受けて、平静を装っているけれど葉月の体は震えている。
この男にも力がある。相手が隠そうとしている以外の思考、感情は読み取れる。逆に伝えようとしている意識は正面から受ける。あたしが一言も話していないのに会話が成り立っていたのはそういう事。
でもそれを逆手に取れば、意識の力だけで精神的に痛手を与える事も出来る、諸刃の力。
お祖父様の事を朱鷺と綾香に話すべきかどうか。
もう少し様子を見た方がいいでしょうね。
さすがに完全に蚊帳の外で会話に花を咲かされると苦痛になる。
俺はあゆと紫苑の姿が見えないのもあって、探そうと思って病室から出た。「あ、祐一君だ」
「あゆあゆか。どこ行ってたんだ?」
「あゆあゆじゃないもん!」
「病院で騒ぐな」
猛然と講義してくるあゆを押さえる。
頬を膨らませた顔がかわいいと言えなくもない。「たいやきうぐぅ」
「誰がだよっ」
「それはさておき、何してたんだ?」
「お世話になった先生にごあいさつしてたんだよっ」
なるほど。
こいつが入院してたのもこの病院だったな。
しかしこいつにそんな殊勝な心がけがあったとは。「もう!知らないもん!」
「しまった、どうやら声に出ていたらしい。うぐぅがさらに膨れている」
「うぐぅ・・・、うぐぅじゃないもん」
どうもあゆをからかう癖は抜けないな。
少しずつこいつが昔の元気を取り戻すほどにその癖がよみがえってくる。「・・・・・」
「・・・・・」
沈黙。
とはいえ、こいつとの間に気まずいなんて感情はあまりない。
はずなのだが、あゆの方は何やらもじもじしている。「あ、あのさ、祐一君」
「なんだ?」
「ちょ、ちょっと付き合ってほしいんだけど」
「奢りはないぞ」
「うん・・・」
あれ?普段ならここでなんらかのリアクションがありそうなものだが。
いつものあゆと少し違う気がする。
あゆは俺の初恋の相手・・・、だと思う、たぶん。
今も好きかって?たぶん、好きだろう。口には出せないけどな。はじめて会った時の印象は、泣き虫。
母親が死んだらしいから仕方なかったろうが、最初の頃は常に泣いていた。
それでもたいやきを買ってやると泣き止んだ。その辺は今と同じだな。そのうち、毎日の様に遊んで、一緒にいるのが楽しくて、失った時はじめて自分の気持ちに気付いた。
だから悲しすぎて、俺はその事を忘れた。忘れた過程には、紫苑の手助けがあったりしたわけだが、俺が忘れる事を望んでいたのは確かだ。それは今も俺の中に罪悪感として残っている。
あゆは何も言わないけれど、こいつはこの七年間、眠りながらもずっと俺を待っていたのに、俺の方は忘れていたなんて、最低だよな。
俺とあゆは病院の屋上にいた。
春でも、この辺りではまだまだ寒い。
あまり長いはしたくない場所で、俺とあゆは街の見える辺りに立っている。「はじめて会った頃の事、憶えてる?」
「今まで考えてた」
ずっと忘れていたけど、今は全部思い出せる。
「ボクも憶えてるよ」
「あの頃は泣き虫だったよな」
「祐一君が意地悪だからだよ」
「会う前から泣いてたくせに」
「そういう時は優しく慰めるものだよ」
「だからたいやきを奢ってやったろう」
「うん、あれはおいしかったよ」
普通に会話している。
だけど・・・。「怒らないのな」
「どうして?」
「今は思い出せるけど、俺はこの七年間おまえの事を忘れてたんだぞ」
「・・・・・」
「おまえがずっと寝てたのだって、元はと言えば俺が・・・」
「ねえ祐一君。ボク、祐一君に言いたい事があるんだよ」
「?」
「ボクね、祐一君の事が好きなんだ」
「は?」
また唐突に、というか態度的に思い切りそうだったような気が・・・。
それがわからないほど俺は鈍くないらしい。「うん、あまりちゃんと言った事ってなかったかなぁ、って思って。これでも告白のつもりだよ」
そう言うあゆの顔は真っ赤だ。
それは沈みかけてる太陽の所為ではないだろう。「・・・だからね、その事は気にしなくていいんだよ」
「・・・・・」
「ほれたよわみ、ってやつだね」
「・・・・・猛烈に似合わない台詞だな」
「・・・うぐぅ、わかってるもん」
ちょっといじけたかな?
「でも、なんで突然告白なんだ?」
「うーん、やっぱり栞ちゃんかな」
「は?栞がどうして?」
「最近祐一君と急接近でしょ。ボクもききかんを感じてるんだよ」
「・・・・・」
わかった様な、わからない方が或いは幸せな様な。
「ボクとしても、栞ちゃんや名雪さんにしても、紫苑さんがいるからうかうかしてられないんだよ」
「・・・ちょっと待て、なんでどいつもこいつもそこで紫苑の名前が出る?」
最近の傾向だ。
何度も言うが俺達は断じてそんな関係じゃない。
じゃあ、どういう関係だって改まって聞かれると答えに窮するのだが、とにかく恋人とかの類ではない。「じゃあさ、祐一君は誰が好きなの?」
「おいおい」
「ボクは七年分の気持ちを込めて告白したんだよ。返事をくださいとは言わないけど、せめて今の祐一君の気持ちくらい聞かせてよ」
「それって返事をくれという事じゃないのか?」
「そうとも言うね」
やばい。
あゆあゆごときに俺が追い詰められている。
ここは一つ・・・。「三十六計逃げるにしかず」
「うぐぅ?」
ふっ、うぐぅの脳みそではこの言葉は理解出来なかった様だ。
さらばあゆあゆ。「あーっ、祐一君が逃げたー!」
あとがき
ちょっと影の薄かったあゆがメインだったのか?
段々紫苑の神秘のベール(?)が脱げてきたり。
次では紫苑のさらなる一面が・・・。