香里よ。
今、何をどう考えたらいいのかわからない。
栞の病気が完治するかもしれない。
ほんの半年前までは、絶対にありえないと思っていた。
誕生日までは生きられない、そう言われて、あたしは自分に妹なんて最初からいなかったと思って、現実から逃げ出した。だけど、残り少ない時間を精一杯生きようとする栞の姿と、相沢君のお陰で、現実と向き合えた。
そして、奇跡は起きた。
完全ではないけれど、栞がすぐに死に至る事はなくなった。
さらに今、完全な治療法がある。それでもう、病院と縁のない生活を栞が送れる。だけど、絶対じゃない。
もしかしたら、失敗する可能性だってある。あたしは、どうすればいいの?
紫苑―SHION―
~Kanon the next story~
第十一章 ドラマチックに・・・その三
栞です。
正直驚きました。
誕生日を越えられて、学校にも復帰できた。それだけで奇跡だって思っていたのに、今度は完治するかもしれないというのですから、驚くなと言われても驚きます。「・・・どうする?」
お父さん。
「あなたが決めなさい」
お母さん。
「栞・・・」
そしてお姉ちゃん。
みんな、私に結論を求めています。
プレッシャー、といえばそうかもしれませんね。だけど、私は逆に嬉しいです。
私の事は、私が決める。
誕生日の前に学校に行ったのも、私が決めた事。それを黙って見ていてくれた事が嬉しかった。私の心は、決まっています。
でもその前に、一人だけ意見を聞いておきたい人がいるんです。
「ちょっとわがまま言っていいですか?」
「何?」
「祐一さんを呼んできて欲しいんです。それと、二人だけにしてください」
今、ちょっとお姉ちゃんの眉がつり上がりました。
でも、これは譲れませんよ。
家族会議中のため、俺達は病室から出ている。
それにしても、栞の病気の治療法か。実のところ俺は栞の病気については何も知らない。
病名も症状も、その他諸々まったく。知る必要もないだろうし。
だから治療法云々と言われてもピンと来ない。
栞が治るなら大歓迎だが、紹介者が先輩である事が、俺に期待と不安の両方を持たせる。「相沢君」
「ん?」
声に振り返ると、病室から出てきた香里が俺を呼んでいる。
「栞が呼んでるわよ」
「お、おう」
香里は平静を装っているが、内心相当に動揺していると思う。
その証拠に、顔が青い。「あれ?おまえは?」
「栞が二人にしてほしいそうよ」
俺と栞と二人、ね。
「栞、入るぞ」
「はい、どうぞ」
病室に入ると、両親もいなくて、本当に俺達二人だけだった。
「どうした?」
栞も、見た目上は落ち着いている。
「横、来てくれますか」
「・・・・・」
俺はベッドの傍らまで移動して椅子に座る。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・なんか、いい雰囲気だと思いませんか?」
「何がだ?」
「病弱なヒロインは倒れて、ぎりぎりのところで病気が治って、好きな人の腕に抱かれるんです。ドラマチックでいいですよね」
「・・・多少飛躍している様にも思うんだが?そもそも好きな人って誰だ?」
「そんな事言う人、嫌いです。怒りますよ?」
「冗談だ」
「・・・・・」
「・・・・・」
栞は笑っている。
あの時、最後だと思った別れの夜と同じだ。
こいつは、俺や香里の前では笑っている。
その奥にあるものは・・・。「・・・私、受けますよ」
「・・・・・」
「朱鷺先生のお知り合いの方の治療法というのを」
「・・・・・」
「自分で決めたんです。私はやっぱり、普通の女の子として祐一さんやお姉ちゃん、お父さんやお母さん、友達の人達と一緒にいつまでもいたいですから。だから、ちゃんと病気治します」
「・・・・・栞」
「でもですね」
表情が揺らぐ。
保たれていた笑顔が崩れて・・・、栞は、俺の方にもたれかかってきた。「・・・・・」
顔は、俺の胸の辺りに埋まって見えない。
泣いてはいない。けど、笑ってもいないだろう。「ほんとは、すごく不安でもあるんです。だって、これで駄目だったら、治る可能性ってすごく低くなると思うんです」
「・・・・・」
「一か八か・・・、こういうのって、病人にとっても勝負なんですよ」
「栞」
「だから・・・、祐一さん、私に勇気をください」
顔を上げた。
俺の顔の真下に栞の顔がある。前言撤回だ。
前とは違う。栞は、笑顔の向こうにあったもの、不安や悲しみを包み隠さず見せてくれた。
一人で抱え込まずに、俺にもそれを分かち合わさせてくれる。
それが嬉しい。「・・・・・」
「・・・・・」
俺達は、そっと唇を重ねた。
預けていた体を起こした時、栞の表情は変わっていた。
不安や悲しみはない。かといって、それらを隠していた笑顔とも違う。強いな、栞は。
「絶対、治せよな」
「はい。どんなに陳腐でも、私はハッピーエンドが好きですから」
ドラマチックにハッピーエンドか。
いいかもしれないな。
翌日。
早くも先輩の行っていたアメリカの大学教授というのが来た。
来るなり、俺達の心に不安を落とす様な人だった。「ヘーイ!トキ、相変わらずいい乳しとるのー!」
むに
ばきっ「あんたも、相変わらずいい性格しとんのー」
・・・なんだ?こいつら。
「うーむ、あれが本場のアメリカンジョークというやつなのか・・・」
北川が変な感心をしている。
たぶん違うと思うし。『変な日本語ばっかり憶えてないでよね』
『気にするな気にするな。まだまだ若いもんには負けんほど壮健じゃよ』
『言ってる事が滅茶苦茶よ』
ちなみに、俺は二人の英語の会話など聞き取れない。
知っている単語が飛んでいる事もあるが、何せ早すぎる。「ま、とりあえずみんな、これがジョンソン・ハワード教授。気軽にジョンとか読んじゃっていいからね」
「イヤイヤ、わしの事はDr.ハワードと呼んでおくれ」
「呼ばなくていいわよん。それと・・・」
がし
先輩がハワードさんの胸倉を掴んで引き寄せる。
『私の教師としての尊厳がかかってるのよ。真面目にやんなさい』
『OKOK。ノープロブレム。とりあえず患者の所に案内してくれんか?』
ハワード教授は半ば先輩に引きずられる形で奥へと消えていった。
はっきり言って、全員の脳裏に不安の二文字が浮かんでいたと思う。「・・・大丈夫よ」
「紫苑?」
「朱鷺が信用している人だもの」
こいつが言うと、やたらと説得力がある。
だけど俺も、先輩がここぞという時にはきわめて真剣である事を知っている。
だから俺も、ハワード先生と先輩を信じるとしよう。「オー!ニッポンのナースはベッピンじゃのー」
「きゃー」
「いやー!」
「やめんかエロジジイ!!」ドカーン
・・・・・・・・・・信じよう。それしか出来ないから。
さらに次の日。
当然の事だが、俺達は学校に来ている。
栞の手術は三日後らしい。それが終わるまで、俺は病院へは行かない。そう栞に頼まれたからな。『今度会う時は、元気な姿で会いたいです』
病気の間も、十分元気なくせに。
信じているとは言え、気になるものは気になる。
「先輩」
「学校では先生でしょ、祐一ちゃん」
こんな時でも細かい人だ。
「病院の方は、どうなんだ?」
「はりきってるわよ。美坂一家って美人ぞろいだものねぇ」
「・・・大丈夫なのか?」
やっぱり不安になる。
どこまで真剣でどこからそうでないのかの区別がつかない人達だ。「大丈夫よ。医者としてだけは一流だから。私は自他共に認める超天才だけど、医学に関してだけは彼には及ばないわ。つまりそういう事」
「待つしかない、ってか」
「短くて長い三日間になりそうね」
本当にそうだった。
授業なんてはっきり言って頭に入っていない。
あの香里でさえ上の空だ。名雪はいつも通り寝ている。北川も香里の方を見ている時間の方が黒板を見ている時間より長いだろう。永遠にも感じられる長い時間。
それでいて、何もしていなかったからとてもあっという間でもあった。
運命の三日目。学校が終わる時間と、手術が終わる時間がほぼ一緒だそうだ。
その日の授業が今まで一番長い。
やっと終わってHR。「はい、連絡事項ないから全員帰ってよし!」
入ってくるなりそれが朱鷺先輩の第一声で、そのまま引き返していった。
しばし唖然としていた俺達だったが、すぐに外に出る。「ってなんであんたがここにいる!?」
校門にはいつの間にか先輩がいた。
車つきで。「なんでって、病院行くんでしょ?」
「いやしかし、職員会議とかは?」
「今日は全部オフ。臨時休暇」
おいおい・・・。
「さあ、乗った乗った」
まあ、いいけど。
車の方が早いし。
そして病院に着く。
「さて、どこ行けばいいんだ・・・?」
「きゃっ」
「香里!?」
「ああ!美坂に何してやがる!」
後ろで何やら騒いでいる。
先頭にいた俺と先輩が振り返ると、背後から香里の胸を掴んでいるハワード先生がいた。
それを見て驚いている名雪と、怒っている北川。「離れやがれ!」
「ひょひょひょっ」
北川の腕からいとも簡単に抜け出て外へと向かう先生。
「姉ちゃん、妹さんはもっと発育させた方がええで!」
そんな台詞を残して風の様に去っていった。
みんな唖然としているけど、今の台詞って・・・。「相変わらずね、ジョンは」
「先輩・・・」
不覚にも言葉が出ない。
「とりあえず、行きましょか」
病室の前に着くなり、先輩は俺を先に促した。
「・・・はい?」
「ご両親は先生方の所にいるそうよ」
「は?」
「祐一ちゃんが最初に入らないでどうするの?」
「いやしかし、香里とか・・・」
振り返ると、香里はそっぽを向いているが、やはり俺に先に行くよう促しいる様に見える。北川も同じく。名雪はどこか複雑そうな顔だが、やはり目で先に入れと言っている。
選択肢はないのか・・・。
はっきり言って、照れる。こんこん
ノックをしてドアを開けると、そこには・・・。
「あ、祐一君だ」
「・・・・・」
「だぁああ・・・」
どて
何故かいたのはあゆと紫苑だった。
「うーん、暇人コンビの方が早かったわねぇ」
こ、こいつ、確信犯だな。絶対に。俺に恥をかかせたな・・・。いや、別にかいてもいないけど。
「うぐぅ、冗談だよ」
「は?」
「ジョークだよ。栞ちゃんはカーテンの向こう」
「・・・・・」
あゆが真っ白なカーテンを指差している。
その表情がちょっとむかつく。ぐりぐりぐり
「うぐぅ~~~」
「あゆあゆのくせに生意気な」
「あゆあゆじゃないもん!」
「退いてろ」
うぐぅを押し退け、紫苑の横を通ってカーテンの前に立つ。
ガラにもなく緊張している。一度深呼吸をしてから・・・。「・・・まさか、もう誰も出てきたりしないよな」
カーテンを退けて中に入る。
「あ、祐一さん、丁度いいところに来てくれました」
「は?」
入るなり栞の最初の言葉はそれだった。
「実は最高傑作が出来たんです」
ベッドの上半身を起こしている栞がスケッチブックを取り出す。
例によってどこからともなく。いつもの服じゃないのに。「題して、窓から見た風景です」
そこには、宇宙が描かれていた、様にしか見えなかった。
「ほほう、この窓からはアンドロメダ星雲が見えるのか」
「そんな事言う人、嫌いです」
「そんな事って、どう見てもこれはそうとしか思えん」
「えぅ・・・、最高傑作なのに・・・」
これが最高なのか?
美的センスを疑うな。
いやそれ以上に・・・。「情緒もへったくれもないな」
「陳腐なのが嫌いじゃないとはいいましたけど、意表をつくのもおもしろいじゃないですか。今どきのドラマは意外性が大事なんです」
どうやら、クライマックスは手術の前のあの日に済ませてしまったらしい。
俺達のハッピーエンドとやらは、ドラマチックとは程遠い、まるで日常の一ページの様な形だった。
「まだまだですよ」
「ん?」
「私達のドラマは、まだまだこれからですから。いくらでもドラマチックな展開は期待出来ますよ」
「・・・そうだな」
栞の病気はようやく結末を迎えた。
でも俺達の物語は、まだ先が長い。
本当に終わりを迎える時、俺の隣にいるのは、今と同じ様に栞なのか。それとも他の誰かなのか。
まだこれからも、ドラマチックに、か。
俺としてはこれから先は平凡に行きたいものだがな。
あとがき
そんなわけで、すっかり栞がメインヒロインっぽくなってしまっています。事実そうだからいいんだけどね。
はたして、あゆや名雪の巻き返しはあるのか?
まだまだ続く。