新学期が始まって一月。
つまりは、紫苑達東雲三姉妹と再会してから一ヶ月が経ったわけだ。その間、至って普通の日々だったといえばそうかもしれない。
モンスターが現れて暴れたとか、隕石が降り注いだとか、クローン人間が現れて大騒ぎになったとか、そんな突拍子もない出来事は何一つなかった。しかし、朱鷺先輩がいる。
だからある意味波乱に満ちた日々だったかもしれない。
紫苑―SHION―
〜Kanon the next story〜
第九章 ドラマチックに・・・その一
「そう、今がまさにその時だ」
「何がその時なのかしら?祐一ちゃん」
現在授業中。
先輩、もとい朱鷺先生は英語に数学と物理化学の授業をいくつか掛け持ちしているらしい。そんなにまとめてやって大丈夫かと思うが、この人の頭のメモリーは常人の比じゃないから、問題ないんだろう。「で、何がその時なの?」
「先生の授業がです」
そう、先生の授業がだ。
型破りな教師、とでも言うべきだろうか。
他の先生達の授業とは明らかに違う。「この公式はこういうわけだけど、こんな風に応用すると実はこうなって・・・」
時々理解不能なほど専門的で高度な話を始めたかと思うと・・・。
「そもそもこれがこうなるわけは・・・」
ひどく基礎的な事を深く追求してみたり。
およそ受験に追われる立場の生徒達にする授業ではない。英語では本場で使える実戦英語と言って色々教えてくれるが、大半は受験でなど出ないようなものばかりだ。
さらには時々その時の授業とはまったく関係のない話を始める。
一方的に話すのではなく、生徒側にも意見を求めてみたりもしている。「さて諸君、空気はどうして存在すると思うね?」
「はい?」
また唐突に話題が変わった。
でも一応これって、化学の問題なのか?「まぁ、勉強していけば化学的な説明はいくらでも出来るかもしれないわね。でも、率直に考えてどうして空気があると思う?」
「空気があるからみんな安心なんだおー」
寝てるな、名雪は。
「うん、ナチュラルな意見ありがとね、名雪ちゃん」
いいのか今ので?
「不思議だと思わない?」
先生は感慨深げにそんな事を言いながら窓際まで歩いていく。
自然みんなの視線もそちらへ向かう。今日は気持ちいいくらいの五月晴れだ。「化学的には、空気中の成分の割合が違ってるだけで、私達は生きていけないのよ。逆説的に言えば、生物が大気の成分に合わせて進化したのかもしれない。でも、今私達が知り得る限りで生物が息づく星はここ以外にないのよ。そう考えると、空気があって、私達が生きてるって、素敵だと思わない?」
「・・・・・」
みんな先生の話に聞き入っている。
確かに、結構ロマンチックな話ではあるけど、ここで油断すると・・・。「時にそこの君」
「はい」
「酸素の式はなんだったかな?」
「へ?あ、えーと・・・」
「祐一ちゃん」
「O2です」
「ぴんぽーん。受験生なんだから、勉強を疎かにしちゃ駄目よ〜」
油断するとこうなる。
哀れ生徒A、さらし者になったな。
「先生もえげつない事を」
「そう?当然の事でしょ♪」
「そりゃそうだけど」
俺達の本分は受験勉強だ。
いくら型破りな授業をやる先生がいてもそれは変わらない。しかし、受験勉強からは遠く離れている場合の多い朱鷺先生の授業だが、生徒達には人気がある。
授業としては、ただ知識を押し付けてくるだけの他の先生達とは違う、勉強を教えるというよりは、一緒に勉強をしているかの様な印象を受ける、そんな授業を楽しいと感じる生徒は多い。「・・・・・何?見詰めちゃって。惚れた?」
「・・・どうでしょうね」
破天荒で型破りだけど、そんなところはこの人の魅力でもある。
この人のカリスマ力は並大抵のものじゃない。する事成す事、人を惹きつける。
判断力も行動力もあって、いざという時には頼りになる。「いけないわ祐一ちゃん。私は教師で、あなたは生徒なのよ。あぁ、でもそんな禁断の道も、す・て・き・かも〜♪」
「・・・・・」
こんな性格でなければ素直に尊敬出来るんだがな・・・。
「じゃ、祐一ちゃん、また後でね〜」
「今日はもう先生の授業ありませんよ」
「つれない事言わない。世の中どこかで何かがドラマチックに動くものよ」
「俺は平々凡々とした暮らしが望みです」
「夢がないぞ、青少年。ロマンが足りん。そんなだから形式的な考え方しか出来なくなるのよ。空気があって生きてるのは素晴らしい、って言ったでしょ」
「いい台詞かもしれないけど、教師の言葉か?」
癖がある所為か、段々敬語を使わずに話してしまう。
「すさんだ現代の青少年の心を真綿で包む様にして癒してあげる。これも教師の仕事よ」
「・・・先輩の場合はぎゅうぎゅうともみくちゃにしてる気がする」
「あながち間違ってはないかもね」
ほんとに先輩は。
教師っぽくないようでいて、もしかしたら教師が天職ではと思わせる。
どっちかの判断はつけ難いが、周りの反応を見る限り、後者かもしれないな。
まだ一ヶ月なのに、先輩はもう多くの生徒に慕われている。
綾香です。
一ヶ月経って、少しこの学校にも慣れてきました。
早いうちに栞さんというお友達が出来たのは私にとっては幸いでしたね。昔から引っ込み思案な私でしたから。慣れてくると、周りの話というものも耳に入ってきまして、今持ちきりなのは姉さんの話題です。
相変わらず、私とは違って、どこに行っても人目を惹く人ですね。「どうしたんですか?綾香さん」
ちょっと思案顔をしていたら、栞さんに変に思われてしまったみたいです。
「ちょっと考え事です。栞さんは、姉さんの事をどう思われますか?」
「どっちのお姉さんですか?どっちにしても色々思うところはありますけど」
「朱鷺姉さんの方です」
そうでした。
時々どちらの姉さんの事か相手に言うのを忘れてしまいます。「そうですね・・・、綺麗で頭がよくて、いいお姉さんじゃないですか」
「それを言うなら、栞さんのお姉さんもいいお姉さんに見えますよ」
「そうですか?確かに自慢のお姉ちゃんですけど、朱鷺先生に比べると。お姉ちゃんって、結構そそっかしいし、不器用で心配性ですから。その点朱鷺先生は何でも出来るすごい人ですよね」
「・・・そう、ですか」
やっぱり、そうなんですよね。
朱鷺姉さんはすごい。
何でも出来るし、人からも慕われています。
ちょっと困ったところもありますけど、きっとそういうところも全部含めて、姉さんのすごさなんでしょうね。「それに・・・っ」
「・・・栞さん?」
今、何か言いかけて・・・。
どさっ
「栞さんっ!?」
朱鷺よん。
いや〜、学校って楽しいね〜。
考えてみたら私、って考えなくてもだけど、日本の高校なんて行ってないものね。
中学には趣味で行ってたのよ。だから祐一ちゃんは私の事を先輩って呼ぶわけ。
で、中学の後はまた海外を飛び回ったりしたものだから、高校には行かなかったのよ。「昨今学校問題が多発してるらしいけど、ここはいい学校よね〜」
教師になってやってきて正解だったわん。
「♪〜〜〜♪〜ん?」
・・・今、聞き覚えのある声がした。
まず聞き間違える事のない声。私はすぐにそちら目掛けて駆けていった。
教師が廊下を走っていいのかって?いいのよ。廊下の角を曲がると・・・。
「栞さん!栞さんっ!」
「綾香、と栞ちゃん?」
「ね、姉さん・・・!?」
状況整理。
倒れている栞ちゃん。呼吸が乱れて、かなり苦しそうね。
その傍らであたふたしている綾香。落ち着け、と言っても無理そうだけど。「見せて」
「え?あ、はい・・・」
綾香を押し退けて栞ちゃんの状態を確かめる。
「・・・はぁ・・はぁ・・・」
「・・・・・ただの風邪、なんてものじゃないわね」
そういえば、栞ちゃんは病気だって言ってたっけ。
「綾香」
「は、はい」
「祐一ちゃんと香里ちゃんを呼んできて。教室にいるはずだから、駐車場まで来いって。急ぎでね」
「え、えっと・・・」
「考えるより前に動く」
「は、はい!」
かなりパニクってるけど、あの二人なら綾香の状態から事態を察知できるだろう。
私は栞ちゃんを抱き上げて車のところへ向かう。
ガララッ
「先輩っ!!」
「はい?」
いつものメンバーが俺を中心に集まっていると、突然教室の扉が開いて、思い切り息を切らせた綾香が入ってきた。みんなも何事かと見ている。
「どした?綾香」
「・・・けほっ・・ごほっ」
「落ち着いて話せ」
「し・・・栞さんが・・・」
その言葉に俺も香里も一瞬で顔色を変えた。
綾香の状態を見れば事態の予測はつく。「栞が、どうしたの!?」
香里が綾香に詰め寄ろうとするのを俺が押し留める。
「落ち着け香里。綾香も」
「ね、姉さんが・・・、祐一先輩と、香里先輩に・・・、駐車場まで来いって・・・」
それだけ聞いて香里はすぐに教室を飛び出す。
俺も後に続いて教室を出る。「名雪、後頼む!」
走り出す前にそれだけ言い残して行く。
後の授業とか、綾香の事とかはあいつに任せる。
今は栞と、香里が心配だ。
駐車場へ一番近い扉から外に出ると、既に先輩の車が待機していた。
「先輩!」
「話は後。とりあえず二人とも乗りなさい」
香里は迷わず栞のいる後部座席に飛び込んだ。
俺も助手席に乗り込む。「祐一ちゃん、病院の場所わかる?」
「わかる」
「じゃ、ナビよろしく」
朱鷺先輩が車を急発進させる。
危うく俺は座席から投げ出されるところだった。「シートベルト締める時間くらいくれ。それに病人が乗ってるんだぞ」
急いで欲しいとは思うが、もう少し丁寧に運転して欲しい。
「あら心外ね。私はこれでも安全運転よ」
キキーッ
「どこがだ!」
今だってきわどかったぞ。
しかし先輩の腕なのか、車の性能なのか、中は意外と震動が少ない。これなら少しは栞への負担も軽いか。「次右だ」
「オッケー・・・・・あ、ちょっと止まるわよ」
「何!?」
また唐突に・・・。
キーッ
路肩に車が止められると、俺が言葉を発するよりも早く後ろの扉が開いて誰かが乗ってきた。
「・・・紫苑?」
何故こんなところに?
俺の疑問の視線には構わずに、紫苑は香里の腕の中にいる栞の顔を覗き込む。
それからおもむろに栞の額の辺りに手をかざすと、少し栞の表情が楽になった気がした。「・・・今のは・・・?」
「話は後にしましょ。まずは病院行くのが先決」
「そう、だな」
釈然としないというか、聞きたい事は色々あるが、まずは栞の事が優先だ。
先輩はさっきほど乱暴でない、安全運転の猛スピードで病院へ向かった。
病院に着くなり、香里は一時俺に栞を預けると、大急ぎで院内に入っていった。
後に続くと、どうやら知り合いらしい看護婦さんと何事か話している。それから栞は病室に運ばれて、とりあえず俺達に出来る事は終わった。後は医者に任せるしかない。
待ってる間に先輩に話でも聞こうかと思ったが、何故か先輩は医者の先生達のところにいた。先生達は何か驚いている様だが。「・・・そういえば先輩、医師免許も一応取ったとか言ってたな」
一応で取るほど簡単なものではないはずだが。
香里も栞に付き添っていったし、俺と紫苑だけが残されてしまった。「・・・・・」
「・・・・・」
待っている時間というのは憂鬱なものだが、悲観的な気持ちにはならない。
たぶん、紫苑がいるからだろう。
昔から、こいつが大丈夫だと保証した事が必ず大丈夫なんだ。だから、紫苑が何も言わないのは問題ないという事だ。少なくとも今の段階では。「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・ところで、さっきのは何だったんだ?」
直接聞いた方が早いだろうと聞いてみたが、たぶん答えは返ってこないだろうと思った。
しかし・・・。「・・・憶えてないの?」
「は?」
ちゃんと返してきた事にも驚いたが、その内容の意味がよくわからない。
「精神安定剤みたいなものよ」
「えー・・・、つまり、痛いのとか苦しいのとかを落ち着かせるのか?」
紫苑は肯定した。
まぁ、納得かな。こいつがちょっとくらい奇妙な事をしても少しも不思議じゃない。
けど、さっきの憶えていないっていうのは、どういう事だろう?
栞の病気は、まだ完治していない。
普通に生活するのに支障はない状態にまで快復はしたが、再発の恐れは十分にあったらしい。今回の発作は比較的軽いもので治まったからいいが、この先これが続くようなら、また危険な状態になる可能性もあるという事だ。
まだどうなるかわからないので、結局栞は二三日検査のために入院する事になった。
あとがき
ここから数回は栞メインの話。他に言う事はない。