Demon Busters!



   第一章 空からきた少女  −6−





















 ロウワータウンにおける交通の要、電動バスの路線をいくつか乗り継ぐこと半日。
 祐漸達が、通称クライムタウンと呼ばれる無法者達の暗黒街に到着したのは午後二時を回った頃だった。
 特に柵や敷居が設けられているわけでもないのに、そこは明らかに異質な空気に包まれた街だった。
 警察や軍の治安部隊でさえ容易に手出しできない凶悪犯罪者や闇世界の有力者達が集う無法地帯。栄えあるアークタウン最大の暗部とも言うべき場所だった。
 しかし、と祐漸は思う。
 軍の治安部隊でも手が出せないという世間の見識は誤りだろう。
 ルベリア帝国は強大な軍事力をもって周囲十数カ国に影響を持つ大国家だ。その覇道を支えるルベリア軍が本腰を入れて街の治安に乗り出せば、こんな街の一つや二つ簡単に潰せる。仮にその全てを根絶することができなくとも、今よりも大分勢力を削ることはできるはずだった。
 にもかかわらず、こうしてこの街が存在し、一見すると大きな勢力を持っているように思えるのが、帝国がそうなるよう、あえて彼らを野放しにしているからだ。
 いや、正確には野放しではなく、クライムタウンという一つの地に彼らを集め、押し込めているのだ。
 箱庭の小悪党ども。
 祐漸がクライムタウンの住人に抱く印象はそんなものだった。

(或いはそれを隠れ蓑に、本当の大物が潜んでる可能性もあるが、な)

 “鷹の爪”と取引をしている武器商は、クライムタウンの中では幅を利かせている方だが、所詮ここの住人の枠からは出ない程度の悪党だった。
 そんな連中から買った武器で帝国に喧嘩を売っているレジスタンスも含めて、皆帝国にとっては取るに足らない存在でしかない。

(こんな奴らに肩入れして、何がどう変わるっていうのか)

 雇い主の本心は読み難かった。
 ルベリアの在り様の全ては、このアークタウンという都市に集約されていた。光に満ちた上と、深い闇を抱える下の表裏に分かれた特徴もさることながら、人が何人かくらい集まったところでどうにも揺るがしようがないほど巨大で頑強だ。
 数十年という歳月をかけて建設されたこの都市のように、長い歴史の中でどんどん力を増していったこの国の体制を突き崩すのは容易ではない。
 レジスタンスの一つや二つがどう足掻いたところで、どうにもなりはしないのだ。
 ならば何故彼らに協力するよう、雇い主は彼に依頼してきたのか。
 これまで何度もそのことについて考えてきたが、答えは常に同じだった。
 考えても仕方がない、仕事は仕事としてこなすだけだ。
 結局それ以外の道は祐漸にはなかった。
 差し当たって今大事なのはクライムタウンの意義に関する考察ではなく、そこの住人達への対処だった。

「毎度のことながら、この手荒な歓迎はどうにかならんものかな」
「難しいな。こいつらは飢えた獣と大して変わらん」
「だろうな」

 祐漸がこの街へ来てから、クライムタウンへ足を運ぶのは三度目だったが、毎回ここへ踏み入ると、無法者達の集団に囲まれる。
 集まっているのは、クライムタウンの有力者達の庇護も受けられない、この街のさらに底辺を構成する住人達だ。彼らは弱い相手から巻き上げることで日々生を繋いでいる、人としては最低に入る部類の行き方をしている連中だった。
 彼らが群がってくる様は飢えた獣の群れというよりも、どちらかというとゾンビの集団を連想する。

「いい加減学習してもらいたいものだがな」

 自分達を狩人だと思い込んでいる彼らにとって、外からやってくる者は格好の獲物だった。普通ならば。
 当然、祐漸は普通ではない。過去二度はいずれも、向かってきた相手を尽く半殺しにしてこの場を押し通ってきた。荒事に慣れた犯罪者達の集団といっても、祐漸からすればただの烏合の衆に他ならない。
 今回もいつものように蹴散らそうと拳を持ち上げようとすると、それを後ろから制された。

「何だ?」

 そんなことをするのは一人しかいない。アンディは祐漸と同じことを考えているはずだから、もう一人の連れであるかなただ。

「よくわからないけど、暴力はよくないと思うのです」
「よくわからないんなら引っ込んでろ。ここはガキの理屈が通用する場所じゃない」
「でも、相手に痛いことすると、自分も痛いよね? 痛い痛いのばっかりで、誰も得しないよ」
「そんなことはわかってる。だがここの連中はそんなこともわからない馬鹿どもだ」
「大丈夫だよ。ちゃんと教えてあげれば、きっと伝わるから」
「だから、そんな聖人君子の理屈はここじゃ通らん」
「まーまー、ここはわたしに任せておいてよ」

 ほんわかした表情と口調だが、押しが強い。
 どうしたものかと祐漸は横のアンディを見やる。
 アンディの方も祐漸の意見に賛成なのは見てわかったが、とりあえずやらせてみたらどうだ、と目で語っていた。
 それで祐漸も折れた。

「はぁ・・・・・・好きにしろ」
「うん」

 こくんっ、と頷いてかなたが無法者達の集団の前に出る。
 見た目だけは怖そうな男達を前にしたら、普通の女の子ならば泣いて逃げ出すところだろうが、かなたは常と変わらずニコニコしており、まったく怖気づいた様子はない。
 対する無法者達は、少しも怖がらないかなたの態度を訝しがるかというとそういうことはなく、皆血走った眼でかなたの全身を嘗め回すように見ていた。
 なるほど、飢えた獣というのは実に言い得て妙だ。
 彼らが求めているものは金品や日々の糧のみならず、雌の身体もなのだ。
 中身が子供であることを祐漸は知っているが、外見はこの上ない美少女であるかなたが彼らの前に出て行くことは、猛獣の群れに肉の塊を投げ込む行為に等しい。本人はまったくそんな風に認識していないのだろうが。
 祐漸はいつでも動ける体勢で成り行きを見守ることにした。

「あのですね、みなさん。わたし達はこの街の・・・・・・ぇーと・・・・・・・・・」

 早くも言葉に詰ったかなたが肩越しに振り返る。

「何さんだっけ?」
「ドン・ドルーアだ」

 取引相手の武器商の名前だった。

「そうそう、そのドンさんに会いに来たのです」

 前に向き直って説明を続ける。
 かたなが後ろを向いていた少しの間に、かなたと彼らとの距離が少し縮まっていた。祐漸はさりげない仕草で頭を掻くように見せかけつつ、背負った剣の柄に軽く指をかける。

「なので、みなさんと喧嘩とかしたくありません。痛くするのも痛くされるのも好きじゃないから、ここは・・・・・・えっと、温和・・・? じゃなくって、おん・・・・・・穏便? そう、穏便に通してくれると嬉しいな」
「かわいいお嬢ちゃん、そうは言ってもここにはここのルールってもんがあるんだよ」

 無法者の一人がはじめて口を開いた。獣のように見えて、一応言葉で話をしようという人間らしさの欠片くらいは残っているようだ。

「ルール?」
「ここは俺達の縄張りだ。通りたいなら通行料を払えってことだよ」
「えっと・・・・・・わたしお金とか持ってないんだよね。祐漸君は?」
「あってもそいつらにくれてやる分はない」
「んー、困ってしまいますね」
「いんや、困らないぜお嬢ちゃん」
「ほぇ?」
「金がないならその身体で払ってもらえりゃいいからよ」

 男達が一斉に醜悪な笑みを浮かべる。雄の本能を丸出しにしたその顔は、見ていて反吐が出るようなものだった。
 だというのに、そんな目で見られている当のかなたはキョトンとしている。

「からだ?」
「ああ」
「んー・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 考え込む。
 言われていることの意味がすぐに理解できていないのだろう。はじめて祐漸と会った時、似たようなことを自分から言い出したくせに、それと無法者達が望む行為とが結びつかないのだろう。
 しかし、無防備に首を捻っているかなたが何か言うのを、無法者達は律儀にも待っていた。
 まったく意識してのことではないだろうが、彼らは徐々にかなたのペースに巻き込まれつつあった。

「ああ!」

 やっとわかったのか、かなたがポンと手を叩く。

「わかった、わかりました!」
「そいつぁ良かった。じゃあさっそく・・・」
「でもダメなのです」
「あ?」
「わたし、もう予約済みです」
「予約だぁ?」
「お仕事頼んでるからね。報酬については検討中、だけど、わたしっていうのが今のところ最有力候補」

 しれっとそんなことを言うかなたから、後ろに控える祐漸の方へ男達の視線が向けられる。いずれも殺気立っていた。

(また妙な誤解を招く言い回しを・・・・・・)

 言葉の意味だけを取れば誤解とも言えないのだが、祐漸としてはかなた自身を報酬として受け取っていないし、受け取るつもりもない。
 だが彼らの眼は既にかなたが祐漸のものであると思い込んでいるものだった。
 余計に面倒なことになっただけのような気がした。
 もうとっとと全員叩きのめして先へ進んでしまいたい。
 そうかなたに伝えようとすると、問題をこんがらがらせている当事者は何事か考えながら周囲をきょろきょろ見回している。

「みなさんは、この辺に住んでるんですか?」
「たりめーだろ、ここは俺らの縄張りだっつったろーが」
「ん〜〜〜・・・・・・・・・」
「おいお嬢ちゃん、あんな男より俺達とだな・・・」
「そうだ!」

 今度は何を思い付いたのか、大きく声を張り上げたかと思うと、かなたは道端のゴミが積み重なっている所へ向かって駆け出していった。
 かなたに向かって手を伸ばしかけていた男は、行き場をなくした手を虚しく宙に漂わせていた。
 が、すぐにハッとなって怒鳴り声を上げる。

「お、おいこらこのアマ! 下手に出てやってりゃ付け上がりやがって、人の話を・・・」
「ちょっと待ってて、すぐ終わるからー!」

 待てと言われて待つ義理などないだろうに、かなたの声に男達はどうしてか固まってしまう。
 本当に、完全にかなたのペースに呑まれていた。
 どうも妙な流れになってきたので、祐漸とアンディはもうしばらく様子を見ることにした。



 それから起こった出来事は、まるで魔法のようだった。
 どこからともなく箒を取り出したかなたは、周囲一帯の掃除を始めたのだ。
 何の真似かとその場にいる誰もが訝しがったが、驚くのはそこから先だった。
 物凄い勢いで、辺りが掃除されていくのだ。
 無秩序に置き捨てられたゴミの内、まだ使えそうなものは埃を払って整理した状態で並べられ、もはや使い道のなさそうなものは細かく砕いて目立たない隅に置かれていった。道路や建物の壁についた汚れもどんどん落とされていった。
 まさにあっという間だった。
 目に見える範囲だけだが、ものの数分でゴミの溜まり場のようだったクライムタウンの外れは、ロウワータウンの他の区画と同じ程度の綺麗さになっていた。
 見違えるようだった。
 無法者達も、自分達の街のあまりの変貌振りに呆然としていた。
 祐漸とアンディも驚きで言葉が見付からない。

「うん、きれいきれい♪」

 一人かなただけが満足げに周囲を見渡していた。

「汚れた場所に住んでるから心まで荒んでしまうのです。これできっともっと穏便に話ができるよね?」

 いきなり掃除を始めたかなたなりの理屈はそういうことらしい。
 間違ってはいないと思うが、この状況でいきなり掃除をしようと思い立つかなたの思考回路はやはり理解し難い。
 また昨日覚えたばかりだろう掃除の技術が一晩でここまで神懸り的に磨かれていることには驚くのを通り越して呆れさせられた。

「なん、おま、おい・・・・・・」

 無法者達は皆揃って思い切り戸惑っていた。最初に群がってきた時の威勢はもうどこにも見当たらない。
 元々、強い者に媚を売り、弱い者から巻き上げて生きているような連中である。威勢など見た目ばかりの虚勢であり、理解の及ばない存在を前にすれば容易くその虚は剥がれ落ちる。
 彼らの目にはかなたが、理解できない存在として映っているのだ。

「ああーーー!」

 またかなたが声を張り上げると、男達はビクッと体を震わせる。
 今度はいったい何を始める気なのか。彼らは畏怖というか恐怖というか、そういう視線をかなたに向けていた。
 当のかなたはと言えば、肝心なことを忘れていたとでも言わんばかりの表情を浮かべていた。

「これだけじゃまだダメだよ。みんなの格好!」
「は、はい?」
「周りがきれいになったんだから、みんなもきれいにならないと。だから・・・」

 にんまりと、いたずらっ子の笑みを見せながらかなたが男達ににじり寄る。そこに何か本能的な恐怖を感じたか、一番かなたの近くにいた男がその場から逃げようと駆け出しかけた。

「逃げたらダメだってば」

 だがその男は、気がつけばかなたに組み敷かれていた。何をどうされたのか、本人はもちろん周りで見ていた者達も誰一人わからなかったろう。
 唯一かなたの動きを正確に見切っていたのは祐漸だけだった。
 逃げ出そうとした男の出足を掬い上げ、バランスを失ったところで軽く間接を捻って地面に押さえつけた。ただそれだけのことだった。
 どこで身につけたものかは知らないが、明らかにそれは達人レベルの動きだった。
 それは昨日今日の内に覚えたものではあるまい。おそらく彼女が記憶を失う前から有していた技術と考えるべきか。

(身体が覚えている類のことまでは忘れていないということか)

 祐漸が謎の少女の素性に関わりそうなことを観察している前で、そのかなたは組み敷いた男の服を剥ぎ取っていた。

「ひっ、な、何しやがる!?」
「だから、きれいにすること♪」

 これまたどこから出したのか、スポンジとブラシを両手にそれぞれ持ってかなたは微笑む。
 逃げる間など当然のようになく、丸裸にされた男は十秒ほどの間に全身をくまなく磨かれていった。大量の垢が飛び散り、倒れ込んだ男の身体はつやつやになっていた。
 一仕事終えたかなたは、次の獲物を物色するように周りを見回す。
 男達は戦慄する。
 本当なら自分達が奪う側で、かなた達が奪われる獲物であるはずだった。
 その立場が、今は完全に逆転していた。

「さ〜、じゃんじゃんいくよ〜!」

 獲物にされた男達は、誰一人逃げることは適わなかった。
 数分後には、裸に剥かれ、肌がつやつやになるまで磨かれた男達がずらりと地面に横たわっていた。その横でかなたは、剥ぎ取った衣服の洗濯をしていた。

「うん、よしっ♪」

 すっかり汚れの落ちた服を拡げて、かなたはとても嬉しそうだった。それから倒れている男達一人一人の上に洗い終わったそれぞれの服をかけていく。
 完全に蚊帳の外状態で一部始終を見ていた祐漸とアンディは、互いに顔を見合わせ、肩を竦め合う。
 視界に映る街の様子は、台風でも通り過ぎた後のようだった。
 ただし、本当の台風が通った後は汚れるものだが、ここは逆に本来汚れていたものが見違えるように綺麗に変貌していた。

「何というか・・・・・・すごい娘だな」
「すごい、ね・・・・・・」

 方向性を間違ったすごさのような気がしないでもなかった。



「じゃあ、きれいになったところでもう一度話し合いしよっか。わたし達、ドン・ドロンコさんに・・・」
「ドン・ドルーアだ」
「そうそう、その人に会いに行きたいんだけど、ここ通らせてもらってもいいかな?」
「へい! どうぞお通りくだせぇ、姐さん!」
「ふ、ふぇ・・・?」

 放心状態から立ち直って服を着なおした男達は、すっかり従順になっていた。
 そうなった原因を作った張本人は、彼らの態度の豹変に戸惑っていた。 最初は通させてもらう見返りとして掃除をしたつもりなのかと思ったが、どうやら自分の為したことがどういう結果に結びつくかということをまったく考えていなかったようだ。
 だが祐漸が考えるに、この結果は意外ではあったが決しておかしなことではなかった。
 暗黒街たるクライムタウンの住人と言えど、この辺りにいる者達は心ならずも悪行に手を染めて転落した人生を送ってきてしまったというの者が多く、根っからの悪人とは呼べないケースがほとんどだった。彼らを擁護するつもりはないが、彼らもまた社会の被害者なのだ。きっかけは自分が起こしてしまった犯罪だとしても、そこに至るまでの経緯や、その後の堕落は、当人の及ばぬところで働いた力によるところもあっただろう。
 ゆえに彼らは、心のどこかで常に救済を求めている。
 社会の中で転落していく流れを、誰かに止めてもらいたい、誰かにそこから救い出してほしいと、言葉にはせずともそう願っているのだ。
 それを、住んでいる街と、自らの身体に染み付いた汚れを落とされたことによって、心の内まで洗われ、奥底に隠れていた願望が表面化した。
 どん底の人生に磨耗していた彼らの眼には、手を差し伸べてくれたかなたの姿は、さながら聖女のように映っていることだろう。
 本人はまったくそんな自覚はないだろうが。

「なんかよくわからないけど、ありがとね」
「礼を言うのは俺達の方でさ。こんな、社会のカスみてぇな俺らのために、ぅ、うう・・・!!」

 大の男達が揃いも揃って涙を流していた。
 だらしないとは言うまい。さっきまでの荒んだ姿に比べれば、見ている方もよほど清々しい。

「泣くほど喜んでくれるとお掃除した甲斐があってわたしも嬉しいよ。やっぱり表からきれいにしておかないと中身まで荒れちゃうからね。これからもきれいを心がけましょう」
「へいっ! 肝に銘じやす!!」
「うん」

 得意げに語り、満足げに頷く。例によってかなたはとても楽しげだった。

「この先には、俺らなんかよりよっぽどやばい悪党どもがいますんで、気をつけてくだせぇ、姐さん」
「心配してくれてありがと。でも、きっと大丈夫だから」
「今日受けたご恩は、一生忘れませんぜ!」
「そんな大袈裟だってば。じゃあ、みんな元気でね〜!」
「いってらっしゃいやせっ!」

 むさくるしい男達の声に送られて、祐漸達はクライムタウンのさらに奥へと進んでいった。
 結果だけを考えれば、全員を叩きのめして進んだのと何が違ったのか。
 一人一人の身体を洗うために、かなたは全員を組み伏せていたのだから、形だけ見ればやったことは変わらないように思えなくもない。
 しかし力ずくで全員を屈服させたとして、あそこまで従順な態度を取らせることができただろうか。
 そういうことが可能な場面もあるだろう。より強い力を持った者を信奉する類の人間というのも確かに存在する。
 だが彼らは別にかなたに組み伏せられたからあんな従順な姿勢になったわけではない。かといってかなたがしたことは何かというと、これまたあまり大したことはしていない。
 ただ目に見える範囲のものを綺麗にしただけ。
 それだけのことであり、別に堕落した彼らの人生全てを救うような画期的なことをしたわけではない。
 彼らの生活はこれからも多大な苦労を伴うだろう。むしろこの暗黒街の一角にあっては、安易に悪意に流されて生きている方が遥かに楽なことで、そこから真っ当な道へ戻ろうとするのはさらに大変な労力を要する。それでもあの様子なら、彼らはこれからその大変な道へ進む努力をすることだろう。
 どうして、たったあれだけのことで彼らがそこまで変わろうという気になったのか。

(尊厳、か)

 悪意であれ善意であれ、それが些細なものならば大きな問題は生じないが、行き過ぎたそれはどちらも等しく人の心を堕落させる。
 そう、悪意はもちろん、善意ではあってもそうなのだ。
 闇雲な救済は、救われた側に安易に救済者に頼る、楽をする精神を植え付け、結局人の心は堕落する。
 かなたはそうした救済をしたのではない。
 社会の底辺にまで転落した彼らの人としての尊厳は、極限まで磨耗していた。けれどそれは決してなくなっていたわけではなく、不純物が洗い流されたことで、それは再び彼らの中心に戻ってきた。
 人としての尊厳。
 それは人が人として生きていくためになくしてはいけないものだと祐漸は思っていた。
 かなたはほんの少し手を差し伸べることで、彼らにその尊厳を取り戻させたのだ。
 何より、社会に生きる誰にも人として扱われない生き方をしていた彼らを、かなたは人として扱った。それが彼らの心に響いたのだろう。

(妙な奴だ)

 祐漸ならば、あんな連中にたとえ僅かでも手を差し伸べるような真似などしない。それをごく自然と実践するかなたの在り方は、祐漸とはまったく異質なものだった。
 その一方で、共感できる部分もある。
 自覚しているかどうかは怪しいが、かなたは人としての誇りや尊厳というものを重んじた考え方を持っている。それは祐漸と似通っている部分を感じさせもした。
 だが、と祐漸は思う。
 これから向かう先に待ち受けているのは、器の大小は別として、心根の底から悪意に染まっている本物の悪党達だ。そいつら相手に、かなたの心が通じることは決してない。
 この純真無垢な少女がそうした本物の悪意に触れた時、果たして何を感じるのか――。



















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あとがき
 書いていると、たまにキャラが勝手に動き出すことがある。これはそんな回。本当はチンピラ的な集団はさっさと蹴散らして先に進むはずだったのだけど、何やらかなたがでしゃばって彼らを更正させてしまった。とはいえこれは、結果的にはかなたというキャラの一つの面を描くのにちょうどいい話になったかもしれない。第一章はかなたをメインに据えた話であり、記憶喪失で人格もあやふやだった彼女が徐々に人間らしい存在になっていく過程を描くことが一つの目標となっている。